小さな芽
駆け出していったのは、まだ幼い娘だった。
ぼんやりとした意識の中で、男はゆっくりと身体を起こし、額を押さえながら気を失う直前の出来事を必死に思い出していた。
――そうだ。かなり厄介な強敵と遭遇し、自分でも対処しきれずに重傷を負った。その後、意識を失ったのだ。おそらく気を失っている間に、どこか別の世界へ吹き飛ばされてしまったのだろう。
男はすぐさま体内の根印を動かしてみた。予想通り、ハタを全身へ巡らせた瞬間、身体のあちこちから鈍い痛みが走る。完全に回復するには、少なくとも数ヶ月はかかるだろう。
「まったく……」
オリンポス山はどうしてモニター用の身体から痛覚を取り除くことを考えなかったのだろう。痛みなどなくしてしまえば、作戦の効率もどれほど上がったことか。
「ママ、早く早く!」
「もう、この子ったら。そんな大声を出しちゃ駄目でしょう。怪我をしている人がいるんだから、静かにしなさい」
「母さん、行ってきていいよ。妹のことは僕が見てるから」
しばらくして、先ほどの娘とともに二人の人間が部屋へ戻ってきた。一人は四十代くらいの、少しふくよかな女性。そしてもう一人は十代半ばほどの少年だった。三人の顔立ちや仕草を見れば、家族なのだということはすぐに分かる。身につけている服も、その生地も決して上等なものではない。だからといって貧しい暮らしをしているようにも見えなかった。
「こんにちは。あなた、川のそばで倒れていたんだよ。うちの子が見つけてくれたんだけど……具合はいかが?まだ、ずいぶん弱っているみたいだね」
女性は心配そうに男の顔を覗き込んだ。
――無防備すぎる。
男は内心そう思った。目の前の人は、もし自分が善人ではなかったらどうするのか、などということをまるで考えていないらしい。どうやら、自分が流れ着いたこの世界は、かなり人情の厚い土地のようだ。
「助けていただいて、ありがとうございます。怪我はしばらく休めば治ります。大したことはありません」
「えっ、そんなに凄いの!?やっぱり仙人様なんだ!」
娘が目を輝かせながら割り込んでくる。その隣では、少年が苦笑しながら妹の頭をぽんぽんと撫でた。
「はは……この子たちね……それじゃあ、この間はどうぞよろしくね。ところで、あなたはなんというお名前?」
「よろしく……?ああ、いえ。誤解させてしまったようですね。我はこの家にこれ以上お世話になるつもりはありません。迷惑でしょうし、我もそこまでしていただく必要は――」
「何を言ってるの?私見たよ!両足とも、あんなに酷い怪我をしていたじゃないか。それに……あなた、これからどこへ行くつもり?」
「……」
男は答えられなかった。
「あなたね、そんなに遠慮しなくてもいいのよ。袖振り合うも多生の縁って言うでしょう?うちは別に裕福な家じゃないけど、今年は雨にも恵まれて、畑の作物もよく育っているわ。食事が一人分増えたくらいなら、まだまだ余裕がある。それに、もうすぐ主人も畑から帰ってくる頃だから」
そこまで言われてしまえば、男も強く拒むことはできなかった。
自分がかなりの重傷を負っていることは、本人が一番よく分かっている。今の状態であちこち歩き回るのは得策ではないし、何より、自分には他に行く場所などなかった。
男は目の前の女性を見つめ、それから、部屋の入り口に立っている二人の子供へと視線を移した。
「さあ、食べてくれ!俺の料理には自信があるんだよ。うちの子たちも二人とも大好きなんだから!」
食卓に並べられていたのは、湯気の立ち上る料理の数々だった。蒸したばかりの新鮮な魚、食欲をそそる辛味の効いた鶏肉、そして鮮やかな緑色をした野菜炒め。どれも豪華な料理ではないが、どこか家庭の温かさを感じさせるものだった。
料理を作ったのは、先ほど畑から帰ってきたばかりの、この家の主人である。日に焼けた浅黒い肌をした、大柄な農夫だった。その妻はまだ幼い娘を膝に抱き、一口ずつきちんと食べさせている。
「ほら、ちゃんと食べるのよ」
「うん!」
そんな光景を眺めていると、少年が男の前へ箸と茶碗を置いた。
「どうぞ」
「……」
男は箸を手に取った。
――本来、モニターに食事は必要ない。
彼らの身体は完全にハタによって駆動している。もはや食物からエネルギーを得る必要などないのだ。男は小さく息を吐いた。やはり、ここは正直に説明しておこう。そう思った、その時だった。
「仙人様!」
幼い娘が母親の腕からするりと抜け出し、自分の茶碗を両手で抱えたまま、ぱたぱたと男のところへ駆け寄ってきた。
茶碗の中には、一切れの鶏肉が乗っている。
「これ、あげる!えへへ。お家でお肉が食べられる日って、あんまりないんだよ。だからね、私が一番好きなおかず、仙人様に分けてあげる!これを食べたら、きっとすぐ元気になるよ!パパの料理、すっごく美味しいんだから!」
「まあ……!ごめんね、子供の言うことだから、そんなに真に受けなくても……」
母親は困ったように笑った。
男は娘の顔を見つめた。そこにあるのは、疑うことなど知らない、あまりにも純粋な笑顔だった。
どれほど迷ったのか。やがて男は何も言わずに箸を伸ばし、その一切れの鶏肉を挟んで口へ運んだ。
「……っ、ゴホッ!ゴホッ!」
「だ、大丈夫か!?」
農夫が慌てて立ち上がる。男は片手を上げてそれを制し、涙目になりながら苦しそうに答えた。
「……辛すぎる」
一瞬、食卓が静まり返った。だが次に、農夫は豪快に笑い出した。
「ははははは!なんだ、辛いのは駄目なのか!そうか、そうか!分かったぞ。じゃあ、これからは辛くない料理をもっと作ってやるよ!」
男はこの世界に流れ着いてから、長いあいだ、この一家のもとで暮らしていた。
傷がある程度まで癒えてくると、男は少しずつこの世界のことを詳しく調べ始めた。だが、残念ながら、貫通トンネルの入口らしき痕跡を見つけたところで、それがいったいどこへ通じているのかまでは分からない。ここから脱出するには、他のモニターが自分の存在に気づいてくれるのを待つか、あるいは自分の傷が完全に治るまで待つしかなさそうだった。一応、救難信号に近いものは発信している。しかしそれが誰かに届くのがいつになるのかは、本人にも分からない。
幸い、この世界の霊脈は非常に優れていた。ハタも豊富で、傷を癒やす場所としては申し分ない。
――とはいえ、こんなところで気を抜いているわけにはいかない。
こんなふうに、のんびり療養するためにモニターになったわけではない。自分を重傷に追い込んだ敵は、宇宙全体にとっても巨大な脅威だ。一日ここで足止めされるだけでも、その一日分だけ、どこかで無数の生命が災厄に晒されることになる。
なぜだ。
これほど長い時間が流れているというのに、なぜ宇宙には未だに無尽蔵の悪が生まれ続けるのか。なぜ自分は、これほど無力なのか。どうして、すべての悲劇が生まれるのを止めることができないのか。
「よいしょ……」
背後から小さな声がした。振り返るより早く、幼い娘が男の背中をよじ登り、そのまま肩の上へ座った。
「……あっ!」
それに気づいた少年が慌てて駆け寄ってくる。
「もう、失礼だろ!早く降りて!」
「仙人様は失礼だなんて思ってないもん!お兄ちゃんこそ、なんでそんなに慌ててるの?」
「……」
男は肩の上に乗った娘をちらりと見上げた。
確かに、わざわざ子供と揉める必要もない。そう思い、特に抵抗することなく、そのまま娘を肩に乗せておくことにした。
「小童。なぜ我のことを仙人と呼ぶ?」
「え?だって……」
娘は何かを思い出したように、いたずらっぽく笑った。
「えへへ、秘密!それより、仙人様、体は最近よくなった?」
「ああ。少なくとも、歩く分にはもう問題ない」
「じゃあ、一緒に田んぼへ行こうよ!」
娘は嬉しそうに男の頭へ両手を置く。
「前にお兄ちゃんと一緒に畑へ種を植えたの。何が生えてくるのか、私たちにもまだ分からないんだよ。そろそろ芽が出てるはず!」
「本当にすみません」
少年が申し訳なさそうに男の前へ出てくる。
「妹がわがままで……行きたくなければ、無理しなくても大丈夫だから」
「……いや」
男は少し考えてから立ち上がった。
「長いこと動かさないのはよくない。我も見に行こう」
男が歩き出すと、肩の上の娘は嬉しそうにその頭へしがみついた。
「わあ――!高い!仙人様の肩に乗ると、すっごく遠くまで見えるよ!」
「どうした?父親には、こうして肩に乗せてもらったことはないのか?」
「前はね、ママがもう子供じゃないんだからって言って、パパの肩に乗るのを禁止したの。でも仙人様の肩のほうが、もっと遠くまで見える!ほら、あっちだよ。行こう!」
娘は男の頭を軽く叩きながら、楽しそうに叫んだ。
「田んぼには面白いことがいっぱいあるんだよ!私が遊んであげる!」
「……そう」
男はそう答えながら、どこか釈然としないものを感じていた。
この世界へ来てからずっと、何かがおかしい。だが――その違和感がいったい何なのか、男にはまだ分からなかった。
山の斜面は、ちょうど中腹あたりから次第に緩やかになっていた。もともとは険しい山肌だった場所が、一段、また一段と削り平らにされ、斜面に沿って幾重もの棚田が築かれている。
遠くから眺めれば、それはまるで山肌に貼りついた巨大な階段だった。山の形に沿って曲線を描きながら、一段一段と下へ伸び、遥か山裾まで続いている。田と田を隔てる畦は黄土と砕石を固く突き固めて造られ、その縁にはまばらに野草が生えていた。朝の山霧はまだ完全には晴れておらず、白い靄が田畑の間に絡みついている。その隙間から青々とした稲の苗がところどころ顔を覗かせ、まるで山々全体が、まだ解かれていない薄絹を一枚まとっているかのようだった。
山の上から流れてきた清水は、細い水路を通って畦を横切り、最上段の水田へと流れ込んでいる。水深はせいぜい足首ほどしかないが、底に沈んだ小石まで見えるほど澄んでいた。風が吹けば、水面に映る光が田の高低に合わせて一段一段と揺らめき、細かな波紋を広げていく。
畦道には、時折水桶を担いだ農夫たちの姿が見えた。水に濡れて滑りやすくなった土の上を慎重に歩きながら、田と田の間を行き来している。腰を屈めて田植えをする者もいれば、雨で崩れた畦の隙間を鍬で修繕する者もいる。水路のそばにしゃがみ込み、溜まった泥を掻き出している者もいた。遠くからは時折、牛の首につけられた鈴の音が聞こえてくる。それが鳥の鳴き声や水の流れる音と混ざり合い、静かな山間へゆっくりと響き渡っていた。
これらの田畑は、決して最初からこの姿だったわけではない。
一寸一寸、平らにされた土地は、山石と荒れた斜面を削り出して造られたもの。一本一本の頑丈な畦も、数え切れないほどの人々が土を運び、石を積み、何度も何度も踏み固めてきた証だった。
幾重にも連なる棚田は山の斜面に沿ってどこまでも伸びている。
それはまるで、巨大な木に刻まれた年輪のようだった。
この土地と共に生きてきた、山の人々の何世代にもわたる歳月を、静かに記録している。
やがて日が高くなるにつれ、朝霧も完全に晴れていった。山一面に広がる棚田が陽光を受け、水面がきらきらと輝き始める。遠くから見れば、山そのものが巨大な、そして無数に砕けた鏡へと変わったようだった。
男は、その壮麗な光景を呆然と見つめていた。
「仙人様?どうしたの?」
「……何でもない」
しばらく棚田を眺めたあと、男はぽつりと呟いた。
「この田畑は……昔、我が望んでいたものによく似ている」
「昔って、お父さんと同じ農民だったんのか?」
少年が男の隣まで歩いてきて、見上げるように尋ねた。
「いや……我は、ただ……自分の周りにいる人たちに、もっと良い暮らしをしてほしかった。それで、いろいろなことをしようとしたんだ。あの頃、どこかの斜面にあった畑を見て、それから……」
その瞬間、頭の奥で激しい耳鳴りがした。
「……っ」
男は思わず身体を折り、額を押さえる。
――体内のサハが不安定になっている。あまりにも遠い記憶を無理に呼び起こしたせいか。
ちょうど男が身を屈めたことで、肩に乗っていた娘はそのまま自分で地面へ飛び降りることができた。娘は何事もなかったように畦道を駆けていき、振り返って大きく手を振る。
「こっちこっち!」
少年も妹のところへ向かった。そしてしゃがみ込み、土の中から顔を出している二種類の小さな芽を覗き込む。
「前に適当に拾った種を植えてみたんだけど、両方とも芽が出たな。でも……何の植物なのか、僕には全然分からないな」
男も二人のそばまで歩いていき、ゆっくりとしゃがみ込んだ。二種類の緑の葉へ手を伸ばし、指先でそっと触れる。
「こちらは、里芋だ。こちらは桑の実になる」
「仙人様、すごい!葉っぱを見ただけで分かるの!?」
「まあ……そういうところかな」
少年は感心したように二つの芽を見比べる。
「うわぁ……僕たちが植えたもの、ちゃんと食べられる作物だったんだ。でも、田んぼの畦に植えると、田んぼの中の作物から養分を奪っちゃうんだよね。たぶん、あとで抜かないと……」
「ええっ!?」
娘が慌てて芽のほうへ駆け寄った。
「やだやだ!せっかく芽が出たのに!」
「……いや」
男は二人の子供を見ながら、静かに首を横に振った。
「畦に作物を植えること自体は問題ない」
「え?」
「植物の根は土を掴む。棚田の構造をより強固にする効果もあるからな。ただし、作物同士の間隔には注意が必要だ。それに、畦の幅を見て植える数も決めなければならない。この二種類の作物は、どちらも畦に植えるのには向いている。すでに植えてしまったものは、根を傷つけないよう土から掘り出して、別の場所へ移したほうがいいだろう」
そう言って男は立ち上がり、改めて広大な棚田を見渡した。
「それから、水田では稚魚を育てることもできる。魚は害虫をかなり食べてくれるし、その排泄物は肥料にもなる……」
男はそこで言葉を止めた。幾重にも連なる棚田を見つめながら、感嘆とも困惑ともつかない息を漏らす。
「……本当に不思議だ。この棚田を考えたのはいったい誰なんだ?」
「ずっとずっと昔に、とても偉い仙人が残していった技術だって、お父さんから聞いている」
少年は笑いながら答えた。
「昔は、僕たちが住んでいるこの辺りはすごく土地が痩せていて、作物もなかなか育たなかったらしい。それで、その仙人が僕たちに農耕の方法を教えてくれた。それだけじゃなくて、善良な心を持つこと、常に誰かを助けるようにすることも教えてくれた。その方が、より良い世界になれると」
「……ずいぶん怪しい話に聞こえるな。それを君たちは、本当に従うのか。能天気というか、甘いというか……」
「怪しくなんかないもん!」
突然、娘が大声を上げた。
「どうしてそんなこと言うの!?今ここにいるみんなが、楽しく暮らしてるじゃない!それじゃ駄目なの!?」
「……もちろん、良いことだ。だが、君たちはただ幸運なだけだ。今の暮らしを壊すようなものに、まだ一度も出会っていない。それだけのことだ。我は、君たちとよく似た場所をいくつも見てきた。平穏な時には何も問題がないが、本当に危機が訪れた時――そういう場所は、往々にして脆い」
――なぜ、自分はこんなことを子供に話しているのだろう。
「なによ、それ!みんなを舐めるようなこと言って!ふんっ、もう知らない!」
娘はぷいっと顔を背け、そのまま怒ったように歩き去っていく。
「……はぁ」
少年は困ったように苦笑し、すぐに妹の後を追いかけていった。
一人残された男は、しばらく何も言わず、その場に立っていた。
やがて視線を足元へ落とす。そこには、小さな緑色の芽が風に揺れていた。
男はゆっくりと、もう一度その傍らへしゃがみ込んだ。




