幾星霜を一夜に
夕方になって、男が棚田から戻ってきた頃には、すでに日が傾き始めていた。山を下り、村へと足を踏み入れたところで、ちょうど村人たちが協力して各家に提灯を吊るしているところが目に入った。その中にいた、大柄な農夫が男の姿を見つけると、慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「いやあ、本当にすまなかったな。うちの子供たちはまだ二人とも分別がつかなくて……あまり気にしないでくれ!」
「……別にいい。それより、何の準備をしているんだ?何か祭りでもあるのか?」
「ああ。うちの息子からも聞いたと思うが、昔、この村のために大いに尽くしてくださった仙人がいてな。もうすぐ、その方を祀るための祭りがあるんだ。伝承によれば、その仙人は多くの教えを残したあと、この地を去られたそうだ。それでな、祭りの日には毎年こうして提灯を灯すんだ。いつか仙人が戻ってこられたとき、道に迷わないようにな。それから、味の濃すぎない料理を用意する。仙人に喜んで召し上がっていただくためにな。ほかにもいろいろ習わしがあってな。これから寺もきれいに掃除しに行かなきゃならん」
そう語る農夫の顔には、少しの偽りもない笑みが浮かんでいた。提灯の柔らかな明かりに照らされたその笑顔は、男の目にはひどく眩しく映った。
「……立派な信仰だな。この祭りは、何年くらい続いているんだ?」
「ははは、俺たちにももう分からんよ!俺がまだ子供だった頃には、もうあった。俺の婆さんの婆さん、そのまたずっと前の頃から続いていたらしい。そうやって、何代も何代も受け継がれてきたんだ」
「……そうか」
男の中に生まれた違和感と、言葉では説明しきれない奇妙な感情は、少しずつ大きくなっていた。
夕食を終えると、娘は家の外の草地に腰を下ろし、夜空を眺めていた。今夜は雲一つなく、澄んだ月明かりが辺りを照らしている。夜だというのに、世界は不思議なほどはっきりと見えていた。
「……小童」
そのとき、背後から男の声がした。娘は少し驚いたものの、まだ怒っていることを示すように、わざと聞こえないふりをする。
「昼間のことだが……あれは忘れてくれ。あんなことを子供に言うべきじゃなかった。あのあと、君たちがそれぞれ植えた苗は、少し場所を移しておいた。どれも、よく育つ場所だ」
それを聞いた娘は、明らかに嬉しそうな顔をした。だが、それでも頬を膨らませ、ぷいとそっぽを向いたままだ。
「……ごめんなさいは?」
「……」
「ママが言ってたもん。ごめんなさいの一つも言えないような心の狭い男の子とは、遊んじゃいけないって!」
「我は男の子じゃないんだが……まあ、いい。すまなかったな、小童」
「えへへ!じゃあ、許してあげる!」
娘はぱっと立ち上がると、そのまま男のところまで駆け寄り、両腕で彼の脚に抱きついた。
「そうだ!仲直りの印に、私の秘密を一つ教えてあげる!行こう、今すぐ!」
「行く……?どこへ?」
「前に聞いたでしょ?どうして私があなたのことを仙人様って呼ぶのかって。行けば、その理由が分かるよ!パパとママに見つからないうちに、私が案内してあげる!」
――いや、帰ってくるまでに見つかる可能性のほうが高いだろう。
男は心の中でそう思った。だが、それでも少し気になっていた。男は顔を上げ、月を見て時間を確かめる。
「子供をあまり遅くまで起こしておくのもよくない。そこまでは、どれくらいかかる?」
「今日見た棚田のところ!そこから、段々畑を越えて、もう少し山の奥に行ったところ!」
「それなら大丈夫そうだな」
男は腰を屈め、娘を抱き上げる。そのまま胸元に抱き寄せた。
「しっかり掴まっていろ。急いで行って、すぐに戻ってくるぞ」
そう言うや否や、男は一気に駆け出した。とはいえ、今の彼の速度は全盛期の十分の一にも満たない。それでも、大多数の根印無き者たちと比べれば、比べものにならないほど速かった。
男の腕の中で、娘は両脇を風が勢いよく吹き抜けていくのを感じていた。怖がるどころか、むしろ大はしゃぎで声を上げる。
「速い速い!あはは、すっごく楽しい――!」
棚田は主に水を張って育てる作物、つまり稲を植えるためのものだ。一方、段々畑は果樹や山菜などを育てるために使われている。形こそ違うものの、その基本的な構造はよく似ていた。
男は昼間に訪れた場所へ、あっという間に戻ってきた。そして娘が指差す方向へ進んでいくと、段々畑の向こう側に、山の奥へと続く長い石段が見えてきた。娘を抱えたまま石段を登り、その最上段まで辿り着くと、目の前に一つの寺が現れた。
――おそらく、さっき農夫が言っていた場所なのだろう。
娘は地面へ飛び降りると、男の手を引いて寺の中へと入っていく。堂内には、かすかに線香の匂いが残っていた。しかし人の姿はなく、夜のせいもあって奥はほとんど見えない。娘はここに何度も来たことがあるらしく、どこからか一つの油灯を見つけてくると、男へ差し出した。
「大人たちがいつも油灯に火をつけるところ、私にはよく分からないんだ。だから、お願い!」
「……火をつけられないわけじゃないが……君、我を何でもできる何かだと思ってないか?」
娘は照れくさそうに笑うだけだった。
男は小さくため息をつくと、油灯の芯を指で摘まみ、ハタを一瞬だけ指先へ集中させる。すると、芯に小さな火が灯った。
男は油灯を掲げ、その明かりを頼りに寺の奥へ進んでいく。寺そのものは特に変わったところもなく、ごく普通の寺と何ら変わりはなかった。ただ、その中央には、線香を供えられた一体の石像が安置されていた。
長い髪を垂らし、長袍をまとった男性の姿をした石像だった。装飾や色はほとんどない。それでも、表面にはほとんど埃がなく、日頃から丁寧に手入れされていることが分かる。周囲に焚かれた線香も、供えられた果物も、寺の内外に至るまで、村人たちがこの石像に寄せている信仰と敬意が、ありありと感じ取れた。
男は静かに俯く。
昼間に感じた、あの奇妙な感情が、再び胸の奥へと這い上がってきた。
「――実はね、私、見たんだよ!あなたが空から落ちてきて、川のところに倒れたの!」
そのとき、娘が男の傍までやってきた。
「……まあ、否定はしない」
「それにね、それにね!この石像、あなたにすっごく似てるの!だから私、きっとあなたが昔、私たちのために尽くしてくれた仙人様なんだって思ったの!それで、やっと帰ってきたんだって!」
「……はは」
男は俯いたまま、どこか気のない笑いを漏らした。
「想像力が豊かだな」
「もう!本当にそう思ってるんだから!」
「なら、どうして我はここでのことを何一つ覚えていない?」
「それは……それは……」
「もう遅い。そろそろ帰るぞ」
男は油灯の火を吹き消して元の場所へ戻すと、再び娘を抱き上げた。そのまま寺を出て、石段を下りていく。娘はまだ納得していないらしく、不満そうな顔をしている。
「……傷が治ったら、引き続きここに滞在するつもりだ。もちろん、ただで世話になるつもりはない。農作業も手伝う。今の田畑の造りもかなり良くできているが、まだ改良できるところはある」
「えっ……じゃあ、ここに住むの?!」
「まあ……そういうことになるな。住む所も、自分で建てるつもりだ」
「やだ!ずっと私たちと一緒に住もうよ!」
「……それは、君の家族がみんな賛成してくれたらだな」
「私が説得する!絶対に許してくれるよ!やった、やった!仙人様が、私たちと一緒に住んでくれるんだ!」
年幼だった私は、ただその夜の月がとても綺麗だったことと、頬を撫でる風が心地よかったことだけを覚えている。
それから、仙人様は本当にずっと私たちの家で暮らすようになった。いつの間にか、家族の一員と言ってもいいくらい、すっかり馴染んでいた。何年か経つ頃には、私も少しずつ物事が分かるようになり、仙人様との思い出もたくさん覚えている。
仙人様は農作業について本当にたくさんの知識を持っていて、父たちと一緒に新しい農作物の品種をいくつも開発したり、兄に様々な技術を教えたりしていた。田畑の構造だけじゃない。季節に合わせた種まきの時期や、特殊な品種を収穫するための条件まで、何もかも教えてくれた。兄は最初こそ覚えるのに苦労していたけれど、やがて慣れていき、村では仙人様に次いで頭のいい人になった。兄もそれが嬉しくて仕方がないようだった。
仙人様は医術にも詳しかった。母は長年の農作業で肩を悪くしていたし、父も何年もの重労働で腰を痛めていた。仙人様は山からたくさんの薬草を採ってきて、さらに長く細い針を使って、父と母の身体を治療してくれた。見ているだけでも少し怖かったけれど、どうやら効果は抜群だったらしい。仙人様は私にも、薬草についてもっと覚えておくようにと言った。きっと、いつか大きな役に立つから、と。
みんな、そして私も、仙人様のことが大好きだった。
――でも、仙人様はいったい何者だったのでしょう?
最初は、できるだけ早くここを離れようとしていたはずなのに。私があの寺へ連れて行ってから、どうして突然、ここに残ることを決めたのだろう。
時は流れ、さらに何年もの月日が過ぎていった。
その間に、父と母の髪には白いものが増え、顔には深い皺が刻まれていった。
兄は良い人を妻に迎えた。二人は新しく建てた家で暮らすことになったけれど、同じ村の中だから、私たちの家からもそう遠くはなかった。
私も仙人様に、最近ちょっと気になっている男性がいると話した。すると仙人様の反応が面白くて、何を言ってもその人のことを一つも褒めようとしなかった。もしかして嫉妬してるのっと聞くと、仙人様は大真面目な顔で、君の将来を考えているだけだと答えた。
まるで、もう一人の父親みたいだった。
ちょうど仙人様が、村の古くなった家々を新しく建て直すための設計を始めた頃、私は結婚した。そして、その二年目に子供を身ごもった。
その頃が、私の知る限り、仙人様が一番忙しかった時期だと思う。ちょうど兄の妻も二人目の子供を身ごもっていて、二人分の妊娠中の身体を養う薬膳や滋養のある煎じ薬を用意しながら、年老いた父と母の面倒も見て、農地のことまで気にかけていた。それだけじゃない。家々の建て替えにも、すでに手をつけ始めていた。
仙人様は、自分は本当なら眠らず休まなくても大して問題はないと言っていた。でも、私が怒って、絶対にちゃんと休むように言い聞かせた。妊婦を怒らせるなとまで脅したら、仙人様はものすごく反論したそうな顔をしていたけれど、それでも最後には私の言うことを聞いてくれた。
――仙人様と一緒に過ごす日々は、とても楽しかった。
それでも私は、あの夜のことをずっと忘れられなかった。仙人様がここに残ると決めた、あの夜のことが。
なぜ残ることにしたのか。
仙人様は、そのことをいつも避けていた。自分から話そうとはしなかったし、私が尋ねても決して答えてくれなかった。
毎年、ずっと昔にこの地を去った仙人を祀る祭りの日になると、仙人様の表情は決まって複雑で、どこか物悲しげだった。
そして何より――仙人様は、まったく歳を取らなかった。
何十年もの月日が流れ、私の父も母もこの世を去った。私の子供たちも少しずつ成長していった。それなのに、仙人様だけは、何一つ変わらなかった。
子供たちが成長するのは、本当に早い。
兄の子供たちは、もう農作業を立派に手伝える年頃になっていた。私の子供たちも、元気いっぱいに野原を駆け回れるようになった。
ただ、子育てというものは、やっぱり大変だった。畑の作物を勝手につまみ食いしちゃいけないと何度言い聞かせても聞かないし、荒れた山や野原へ勝手に入り込んじゃいけないと言っても、やっぱり言うことを聞かない。仙人様がいるから、そうそう危険な目に遭うことはないのだけれど……それでも、やっぱり頭が痛かった。
やがて私の視力は明らかに衰えていき、細かな針仕事をするのも難しくなった。夫は、そんなに心配しなくてもいいと言ってくれた。子供たちが大きくなれば、家計のことは何も心配する必要がなくなる、と。
私だって、子供たちが皆いい子に育っていることは分かっていた。それぞれに得意なことがあり、自分の道を歩いていける子たちだ。ただ――私にとっては、いつまで経っても子供は子供なのだ。
灼けつくような太陽が昇っては沈み、風雪が訪れては去っていく。
そうして、時間は少しずつ、私たちの手からこぼれ落ちていった。
仙人様は、相変わらず、今でも時々私のところへ来て、身体の具合を見てくれた。脈を取り、昔と何一つ変わらないその手で、私の身体を診てくれる。
私は、その手を見つめた。
昔から何一つ変わらない、仙人様の手。
そして、その隣にある――皺だらけになった、自分の手。
――突然、怖くなった。
ちゃんと聞かなければ。
今、聞かなければ、もう二度と答えを聞くことができない気がした。
私は顔を上げた。
もう、目はほとんど仙人様の顔を捉えられない。耳も昔ほどよく聞こえない。声だって、いつの間にかすっかり掠れてしまっている。
それでも、私は口を開いた。
「仙人様――」
聞かなければならない。
どうしても、答えを知りたかった。
その答えがどんなものであったとしても、私は受け入れる。
「――ここに残ったのは……あの夜私が、あなたに呪いをかけたからか?」




