惨事
カーミラにああ言われたものの、ヒヨリは彼女の提案に同意するつもりはなく、それでも変わらず食べ物と水を届け続けていた。
快適とは言えない生活だったが、充実しているとは言える。毎日拠点のあちこちを走り回っていたが、休む時間もきちんと取れていた。ヒヨリとハルカは手分けして、さまざまな人々の家へ食料や物資を届けていた。時にはリリスと一緒に、カーミラから昔話を聞くこともあった。
皆がどうやってこの拠点の周囲に巨大な岩壁を築いたこと、かつてヴラドとカインが意外とやんちゃだったこと、またこの拠点にこれだけ多くの建物をどうやって作ったこと――そんな話だ。
カーミラは、とても話がうまい。
彼女の話によれば、ウイルスが現れてから、地上の人々は必死に空中都市を建設し災害を避けようとしたという。しかし、逃れることができたのはごく一部の人々だけだった。地上に取り残された、つまりブルーハーの祖先たちは、日夜逃げ延びながら生きる術を学び、鍛えられていったのだという。
ヒヨリはその話にすっかり夢中になり、たまには時間を忘れてしまい、リリスに呼ばれて我に返ることもあった。
日が暮れる頃、またしてもカーミラの話に夢中になりすぎて、ヒヨリは帰る時間になっていたことに気づいた。
「じゃあ、わたしが送っていってあげる、ヒヨリの兄さん!」
リリスは自ら進んで道案内を申し出た。
「うん。また明日、カーミラさん」
ヒヨリは笑って手を振る。
「また昔話、聞かせてください」
「……ええ」
老女は微笑みながらうなずいた。ギイっとドアが閉まる音がして、室内は静まり返った。
「……不思議なトランスグレッサーだ。この年にまた、こんな子と出会えるとは……長い生きも、意味があるようだな、セト」
「――あっ、ヴラド兄ちゃん!」
リリスがヒヨリを案内して寮の近くまで来た時、ヴラドがフクロとハルカと共にドアの前に立っている。
数日過ぎたがヒヨリとフクロ間の空気はガチガチのままだ、なのにハルカにとっては全然大したことじゃないようで、むしろある意味享受している。
「リリス、どうした?こんな時間に」
「ヒヨリの兄さんの道案内をしてたの!わたしが言い出したけど……」
「はは、リリスは俺よりすごいからな。暗くなると道がわからなくなるし、ありがとう」
ヒヨリの褒め言葉でリリスがはずかしくなって、顔もより一層赤に染めた。
ヴラドが恥ずかしがる女の子に笑顔を向け、そして三人に声をかけた。
「どうやら、ここの生活にも慣れてきたようだな。どうだ?」
「私はすごくいいと思うよ!みんな頑張ってるし、強いし!」
「ブルーハー血族は、ずっと強いさ。俺がガキの頃から、そう思ってた。絶望的な環境や厳しい条件でも、俺たちは今まで生き延びてきた。これから先も、俺たちはもっと強くなれる、俺はそう信じている」
ヒヨリは、ヴラドのその言葉に染みれ、なんだかほっとして、深く息を吸い込み、空を見上げた。
「……ん?おい、あれ、空に何か――?」
全員が彼の視線を追って、空を見上げた。
それは光だった。いままで永久に沈黙しているような空中都市から、落下してくる炎の光だった。
先に地面に近づいていたのは、燃え盛る何か重たい物体だった。その後ろには三本のまばゆいレーザーが高速で続いていた。しかもどれも血族の拠点へと向かって来る。
「……まずい、外壁の岩が!」
一番早く反応したヴラドでさえ遅れた。
巨大な重体が赤黒い岩石に衝突し、岩を粉々に砕いた。激しい衝撃音とともに、拠点内では一斉に混乱と悲鳴が湧き起こった。飛び散った岩の破片がいくつもの住居を直撃し、木が折れる音と人々の叫び声が入り混じる。
だが、まだ終わりではなかった。後続の三本のレーザーもすぐに降ってきた。幸い軌道がずれていたため、直撃は一本だけだったが、それだけで建物はほぼ灰になってしまった。
「きゃあああ!」
リリスが震える声で叫んだ。
「あそこ……あそこって……おばあちゃんの家が……!」
リリスの言葉より先、破壊された場所へと走り出したのはヒヨリだった。金髪の少年だけが、人の流れとは反対方向へ、思いっ切り叫んだ。
「カーミラさん!」
惨事は往々にして、一瞬で起こるものだ。
あの未知な鉄塊とそれを追っかけてくるようなレーザーは、ちょうど盆地周囲の防護岩に直撃し、周囲には火花が散っている。
拠点内は大混乱に陥った。レーザーに巨大な穴を開け、焦げた臭い、飛び散る石や木片、そして状況が分からず右往左往する人々で溢れていた。
「落ち着け!咲血が使える者は防護岩を急いで補修しろ!残りは負傷者を手当てしろ!」
ヴラドの声に応じて、血族たちはようやく我に返り、すぐに動き出した。多くの者が盆地の縁へ登り、血液を凝固させた塊として、破損した箇所を塞いでいった。拠点内では瓦礫や木片を片づけながら、負傷者の捜索が始まった。
ヴラドもすぐにカーミラの家へと駆けた。到着したときには、既に三人が焦げた木片を剥がしながら老女を探していた。
不吉な予感が広がっている。あの鉄塊やレーザーの影響を最も受けたのはここだった。
カーミラは高齢で、他の者のように自らを守ることはもう……
「ヴラド」
声に振り返ると、そこにはセトがいた。
「ここが一番ひどい状況だったから来た。カーミラの家だろう」
「……ああ。でもまだカーミラさんは……」
「こっちだ!」
ヒヨリの声だった。彼が手招きし、セトを呼び寄せる。
ヴラドとセトだけでなく、全員も急いで駆け寄る。しかし、彼女の姿を見た瞬間、誰もが言葉を失った。
「おばあちゃん!」
リリスも必死にそこへたどり着いた。
「おばあちゃん大丈夫?おばあ……」
「見るな、リリス!」
ヴラドは素早くリリスの目を覆った。
これは彼女に見せていいものではなかった。
血の海に横たわるカーミラ――体の半分が焼け落ちていた。黒いドレスは血で染まり、白い首には灰が積もり、髪は血で顔に貼りついていた。紅い瞳から光は失われ、唇はかすかに震えていた。
ヒヨリは力なく老女のそばに膝をついた。青い瞳には動揺と恐怖が映り、言葉も出せずにいた。
「そんな……」
黒い箱が瓦礫の上に落ち、セトは絶望に目を閉じた。
「……おっさん!お願いだから早くカーミラさんを助けて!おっさん……!」
ヒヨリはセトの服を掴んで懇願した。
心のどこかでは分かっていたが、それでもなお、震える声で助けを求め続けた。
「お願いだ……カーミラさんは明日も話をしてくれるはずだったんだ……俺、まだ手伝いたいんだ!リリスだって……カーミラさんがいないとダメなんだよ!」
少年の叫びが、廃墟にこだました。
ヴラドは何も言えなかった。リリスが静かに涙を流しているの手のひらから伝わってくるのに、娘は一切声を出さない。
今目の前で起こっている惨劇が、昔の出来事と重なって見えた。
まただ。
あのときと同じ、またリリスの最愛の人が、すぐ傍にいながら助けられなかった自分自身――
結局、何も成長していなかった。
何も、変わっていないじゃないか。
ヴラドは、カーミラの視線が自分に向けられているのを感じた。
彼女の色を失っていく目で、周囲の一人ひとりに視線を送り、ヒヨリ、セト、リリス、そして最後にヴラドを見つめた。
そして、彼女は笑った。
皺に覆われた顔でも、その微笑みは美しかった。
声を発することはもうできないはずなのに、唇は必死に動いていた。安らかで、幸福に満ちた微笑みが彼女の顔に宿り、しかしながらほんの少しだけ寂しげに、そのまま静かに、永遠に目を閉じた。
ヴラドには分かっていた。彼女が最後に言いたかった言葉。
それは「ありがとう」だった。
「ヒヨリ」
背後から呼ばれて、少年は振り返った。
「初めて会ったとき、なぜあんな質問をしたのか、教えてもらえる?」
金髪の少年は戸惑い、両手で袋をしっかりと抱えている。中には一週間分の食糧だった。
「……生きるって、大変なことだと思ったから」
カーミラは黙って耳を傾けていた。
「俺は、ずっと一人だ。どれだけ頑張っても、何を言っても、何をしても、ずっと一人のままで……」
ヒヨリは顔を上げ、老女とまっすぐに視線を交わした。
「みんなが、羨ましい。当たり前のように家族がいて、友達がいて、大事の人がいて……だから、こんなにも多くを持っているカーミラさんに、命を投げ捨ててほしくない。俺はどうしてもこんなふうには生きられないから、カーミラさんに諦めないてほしい」
「全て補修完了だ、カイン!」
「お疲れ、間一髪だったな」
銀髪の青年が頷いた。ヴラドの指示のおかげで、最優先の対処が迅速に行われた。
だが、目に前にあるこの、人の背丈の倍はあり、三人で抱えても足りないほどの巨大な鉄塊は動かせなかった。防護岩に陥れて、取り出すのは一日や二日も必要だろう。
背後から足音がした。振り返ると、顔色の悪い親友だった。
「どうした、ヴラド?」
「……カーミラさんが、亡くなった」




