第9章 地方の変貌(6)12月31日(金)
◆ 12月31日(金)午後11時55分
◇ 東京 野村総合研究所 伊勢野の自宅
伊勢野勝己は、港区の高層マンション最上階で、一人グラスを傾けていた。
スマートフォンが震える。野村総研の上司、専務の番号だ。
「伊勢野君、年末にすまない」
「いえ、どうしました」
「実は、内閣官房から君への打診があってね」
伊勢野は身を正した。
「君の『人口動態と出会い確率の相関性』という論文が、官邸で話題になったらしい。総理自ら読まれたそうだ。政策アドバイザーとして迎えたいという話だ。正式には年明けになるが、1月5日に内閣官房の人事担当と面談してもらえるか」
「承知しました」
「詳細は年明けに人事から連絡がいく。いい話だと思うよ」
電話が切れた。
政策アドバイザー。それは通常、総理補佐官への布石だ。
窓の外、東京タワーのライトアップが新年のカウントダウンを告げている。伊勢野は立ち上がり、グラスにウイスキーを注ぎ足した。野村総研での上席研究員としての日々も、もうすぐ終わる。
画像認識、群集制御、そして人口動態予測。警察庁で培った技術と、野村総研で磨いた理論。それらすべてが、これから始まる新しい仕事のためだったのかもしれない。
ノートPCを開き、最新の分析レポートを確認する。「行動変容の臨界点分析ver.2.3」。8月に書いた提言書をさらに精緻化し、具体的な実装戦略に落とし込んだものだ。東大の杉浦研究室が発表したエンカウント理論に着目し、それを政策にどう応用できるか。独自に分析を進めていた。
42歳、独身、年収2000万。世間的には成功者だろう。だが、伊勢野が求めているのは、もっと大きなものだった。
画面を閉じ、視線をテーブルに移す。明日のために用意したものが並んでいる。ポチ袋が5つ——妹の子供たち3人と、弟の子供2人の分。午前中には実家に顔を出す予定だ。甥っ子たちは「勝己おじちゃん」と懐いてくれる。一番上の中学生には2万円、小学生たちには1万円ずつ。毎年恒例の出費だが、彼らの笑顔を見ると、悪くない投資だと思える。
その横には携帯用の将棋盤が2セット。正月恒例の「伊勢野杯」用の持ち込みだ。実家での二面指しや三面指しのために必要になる。アマ六段の腕前を、子供相手にハンデをつけて披露する。去年、小学4年の甥が初めて伊勢野から一勝をもぎ取った時の誇らしげな顔が脳裏に浮かぶ。
自分には子供はいない。だからこそ、日本という国そのものを、次世代への贈り物として残したい。先人たちが築いてきた歴史と伝統、文化と価値観を、より良い形で引き継ぐこと。彼らが大人になる2040年代、2050年代の日本を、データと理論で支えること。それが、子供を持たない自分なりの、次世代への責任の取り方だ。
カウントダウンが始まった。10、9、8...
新しい年が来る。そして、新しい日本が始まる。
伊勢野は静かにグラスを掲げた。
カウントダウンが終わると、丁寧にポチ袋を鞄に収め、携帯用将棋盤も忘れずに荷物に加えてから寝室に向かった。明日は久しぶりの家族の時間だ。
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(第9章 完)




