第10章 115万人の衝撃(1)2027年12月15日 金曜日
◆ 2027年12月15日 金曜日 午後2時
◇ 霞が関 内閣府第3会議室
政府向けセミナー「少子化対策の新たな視点」。各省庁から約50名が集まっていた。
片瀬朔実は、プレゼンテーションの最終確認をしていた。29歳の東大助教として、この場に立つのは光栄であり、同時に重圧でもあった。
「次は、東京大学の片瀬先生から、エンカウント仮説の修正版について」
司会の声で、片瀬は演台に立った。黒縁眼鏡を押し上げ、深呼吸をする。
「杉浦先生の元理論では、年金や施設で暮らす『非扶養型高齢者』との接触頻度が出生意欲を下げるとされています」
プロジェクターに数式が映し出された。片瀬は続けた。
「しかし私の修正版では、『エンカウントの質』という変数を追加しました。E = Σ(f × q × d)。頻度fだけでなく、質qが重要なんです」
会場がざわめいた。片瀬はクリッカーを押し、次のスライドを表示した。
「同じ高齢者でも、その境遇をどう認知するかで、出生意欲への影響は変わります」
会場の空気が張り詰めた。片瀬は次のスライドを表示した。グラフには明確な相関が示されていた。
「親族のサポートを受けられない高齢者との接触頻度が高い地域ほど、若年層の家族形成意欲が有意に上昇しています。将来の自己投影により、家族というセーフティネットの必要性を強く認識するためと考えられます」
最初の質問は厚労省の課長補佐から飛んだ。
「それは...高齢者の不幸を見せつけろということですか」
片瀬は慎重に言葉を選んだ。「いいえ。ただ、現実を認識することの重要性を示しています。親族のサポートがない老後がどういうものか、若者が理解すれば、家族を持つ動機になる」
財務省の若手官僚が手を挙げた。「つまり、年金が破綻して頼れるのは家族だけ、という現実を若者に突きつけるということですか」
「その通りです」片瀬は眼鏡を直した。「高齢者へのサポートは充実させます。ただ、若者世代には、家族を持つかどうかの決断がどういう人生の帰結につながるのか、自然に情報提供できればいい」
会場の一角から声が上がった。「それは...情報提供というより、恐怖の刷り込みでは?」
片瀬は一瞬沈黙した。「人生の選択には結果が伴います。その結果を可視化することで、より良い意思決定ができる。それが社会科学の役割だと考えています」
この発言が、後のエンカウント政策の核心となるとは、その時は誰も気づいていなかった。
内閣府の参事官が鋭い質問を投げかけた。「つまり、高齢者の見せ方次第で出生率が変わると?」
「データはそう示しています」片瀬は淡々と答えた。「ただし、倫理的配慮は必要です」
セミナー後の懇親会で、野村総研の伊勢野が近づいてきた。8月のシンポジウム以来、何度か意見交換をしていた仲だった。
「『人生選択の結果を可視化する』という発言、まさに私が考えていたことです」伊勢野はワイングラスを傾けながら言った。「7月の研究会で、失敗事例が隠される情報の非対称性について発表したんですが、先生はその解決策を示してくれた」
片瀬は眼鏡を押し上げた。「伊勢野さんの問題意識があったから、私も確信を持てました。成功事例と失敗事例の可視性のバランスを取ることが重要です」
「認知の問題として扱うという切り口も素晴らしい」伊勢野は身を乗り出した。「政策として実装するなら、どんなアプローチが——」
二人は夜遅くまで議論を続けた。同じ問題意識を持つ者同士、言葉が弾んだ。
◆ 2028年1月3日 水曜日 午前9時
◇ 東京・聖路加国際病院 産婦人科外来
加藤医師は、予約表を見てため息をついた。今日だけで妊娠9ヶ月検診が42件。通常の3倍以上だ。
「先生、待合室がもう満員です」看護師長の山田が困り顔で報告した。「廊下にも椅子を並べましたが、それでも足りません」
加藤は立ち上がった。待合室を覗くと、大きなお腹を抱えた妊婦たちがひしめいていた。その中に、見覚えのある顔があった。田中麻衣——「総理婚第1号」として有名になった女性だ。
「田中さん、お待たせしました」
診察室に入った麻衣は、予定日まであと1ヶ月という大きなお腹を抱えていた。
「2月上旬が予定日ですね」加藤はカルテを確認した。「順調ですよ」
麻衣が不安そうに聞いた。「先生、ベッドは確保できるんでしょうか。ニュースで、どこも満床だって」
加藤は正直に答えた。「2月から3月は、正直言って戦場になります。分娩室の予約は既に200%。オペ室も総動員して、助産師も緊急増員の予定です」
「でも先生」麻衣が続けた。「新しく妊娠する人も増えているんですよね?」
「その通りです」加藤は最新のデータを見せた。「談話直後の第一波に続いて、今も妊娠初期の方が急増しています。1月だけで、妊娠届が前年の2倍ペースです」
隣の診察室からも、同じような会話が聞こえてきた。総理談話から約9ヶ月。最初の出産ラッシュと、新たな妊娠の波が同時に押し寄せていた。
◆ 1月4日 木曜日 午前10時
◇ 東京大学社会科学研究所 片瀬研究室
片瀬朔実は、メールボックスを開いた。12月のセミナー以来、問い合わせが相次いでいる。
「片瀬先生、先日のセミナーでのご発表、大変興味深く拝聴しました...」
自治体の政策担当者からのメールだった。エンカウント仮説を地域政策に応用できないか、という相談。片瀬は丁寧に返信を書き始めた。
「ご連絡ありがとうございます。理論の実装には慎重な検討が必要ですが...」
別のメールは、地方のシンクタンクから。「高齢者施設の配置と若年層の居住地域の関係について、詳しいデータはありますか」
片瀬は眼鏡を直しながら、一つ一つ返信していく。皆、同じことを考えている。この理論を使って、地域の出生率を上げられないか、と。
ふと、伊勢野からのメールに気づいた。昨夜送られてきたものだ。
「片瀬先生、昨日の議論の続きですが、もし政策化するとしたら、どのようなパイロット地域が適切でしょうか。私見では、高齢化率が高く、かつ三世代同居率が低い地域が...」
片瀬は真剣な表情でメールを読み返した。伊勢野の提案は的確だ。既に具体的な実装を考えている。
共同研究室のドアが開き、杉浦美央子が入ってきた。47歳、4児の母にして東大教授。片瀬の指導教官でもある。片瀬のデスクに近づいてきた。
「片瀬さん、忙しそうね」杉浦は向かいの椅子に座った。「セミナーの反響、すごいみたいじゃない」
「先生のエンカウント理論のおかげです」片瀬は画面から目を離した。
杉浦は首を横に振った。「あなたが『質』の変数を加えたから、実用的になったのよ。私の理論は、単純すぎた」
一瞬の沈黙。杉浦が続けた。
「でも、気をつけて。この理論を政策に使うなら、人間を実験材料にすることになる」
片瀬は眼鏡を押し上げた。「先生は反対ですか」
「反対じゃない。ただ...」杉浦は少し考えてから続けた。「この手の研究って、他の人からどう見えるか気をつけた方がいいかもね。誤解されやすいから」
片瀬は内心で苦笑した。杉浦先生が「他の人からどう見えるか」を気にするとは。4人産んで全員親に任せて研究に没頭していた人が。
「まあ、あなたの理論は素晴らしいわ」杉浦は立ち上がった。「データできちんと示せているし。役に立つと思う。頑張って」
杉浦が出て行った後、電話が鳴った。内線ではなく、外線だった。
「東大社会科学研究所、片瀬です」
「片瀬先生、内閣官房人事局の小林と申します。お時間よろしいでしょうか」
片瀬は背筋を伸ばした。杉浦の言葉を胸に、政府との対話が始まろうとしていた。




