第9章 地方の変貌(5)12月26日(日)
◆ 12月26日(日)午後10時
◇ 武生市 田中家の離れ
田中昭二は、実家の離れで9%のストロング缶を開けた。ショートホープに火を点ける。280円。タール14mg。「キツい煙草」と言われるが、これじゃないと吸った気がしない。
母屋から独立した六畳一間。築50年を超える木造の離れ。母屋には78歳の母親と、離婚して出戻った妹(44歳)、その子供たち(高2の息子と中3の娘)が住んでいる。田中は「肩身が狭い」と言って、この離れに引きこもっている。暖房は古い石油ストーブだけ。窓から隙間風が入り込む。灰皿には吸い殻が山になっている。
母屋からは、妹と娘の言い争う声が聞こえてくる。
「伯父さん、キモい。なんであんな人がうちにいるの?友達に絶対バレたくない」
「その伯父さんの稼ぎも入れて、あんたの塾代払ってるんやで!」
「でも臭いもん。タバコとお酒と、なんか変な臭い。離れの前通るのも嫌」
高2の息子の声も聞こえた。
「おい、キモいとか言うな。伯父さんも頑張ってるやろ」
「でも、実際キモいやん。臭いし」
「うるさい。お前の塾代、誰が払ってると思ってんねん」
息子は分かっている。伯父の日当がなければ、家計が回らないことを。でも、妹の言う通り、離れから漂ってくる臭いは確かにきつい。
田中は、ストロング缶を口に運びながら思い出す。昔は違った。妹の子供たちが小さい頃は「伯父ちゃん、遊んで」と離れに来ていた。小遣いをやると大喜びだった。それが今では「キモい」「臭い」。妹も、離婚直後は「兄貴がいてくれて助かる」と泣いていたのに、今では「子供に悪影響」とこぼす。
母親の年金と妹のパート代、そして田中の日当の一部で、なんとか5人が生活している。
テレビでは、総理婚の特集番組が流れている。幸せそうな新婚カップルが次々と映し出される。
「けっ」
田中はチャンネルを変えた。どの局も同じような内容だ。
スマートフォンを開く。中学の同窓会LINEグループが、選挙の話題で盛り上がっている。
「選挙、民自党圧勝らしいな」
「総理婚効果すごいわ」
「藤原も厚労省で偉くなってるんやろ?」
「武生高行った奴らは違うな」
田中は、そっとスマホを閉じた。武生工業に行った自分の名前が出ることはない。
中学の同級生、藤原健一のことを思い出す。同じ中学を卒業したのに、あいつは東大、俺は工業高校。あいつは厚労省の企画官、俺は日雇い労働者。
藤原の実家は、田中のアパートから自転車で10分の距離にある。両親はまだ健在らしい。父親は元市役所職員、母親は専業主婦。妹が一人いて、地元の銀行に勤めていると聞いた。絵に描いたような公務員一家だ。
来月で48歳。結婚歴なし、貯金なし、年金も未納が10年分ある。
母親は今も健在だが、最近は妹の子供たちの世話で手一杯だ。「昭二も早く結婚して」とは、もう言わなくなった。妹の苦労を見ているからか、それとも諦めたのか。
父親は、昭二が高校生の時に蒸発した。借金を残して。その借金を返すために、母親は70歳まで町工場で働いた。
ストロング缶を飲み干し、カップ麺にお湯を注ぐ。今日の夕食だ。明日の朝食も、たぶん同じ。
離れの玄関先には、同じ銘柄のストロング缶だけが詰まった45リットルのゴミ袋が2つ。明日が回収日だ。金色の缶が、街灯の光を反射している。
◆ 12月27日(月)午前5時
◇ 建設現場 集合場所
まだ暗い駐車場に、男たちが集まってくる。
田中もその一人だ。今日の現場は、福井市内の新築マンション。総理婚ブームで、ファミリー向けマンションの建設ラッシュが続いている。
「おう、田中。今日も頼むぞ」
現場監督の声。50代後半、この業界では珍しい正社員だ。
「はい」
日当9,500円。交通費なし、保険なし。怪我をしたら終わり。
隣には、60代の男性がいる。元大手メーカーの正社員だったが、リストラされて10年。もう正社員には戻れないと諦めている。
「田中さん、まだ若いんだから、婚活でもしたら?」
「...金もないのに、誰が相手してくれますか」
「まあ、そうだな」
二人は苦笑いを交わした。
◆ 12月27日(月)午後3時
◇ 武生市 スーパーマーケット
仕事を早めに切り上げた田中は、スーパーで買い物をしていた。
半額シールの貼られた弁当、カップ麺の5個パック、そして500mlのストロング缶3本。いつもの組み合わせだ。
レジに並んでいると、見覚えのある女性が目に入った。
中野真由美。中学の同級生だ。彼女は武生高校に進み、短大を出て信用金庫に就職した。結婚して子供も産んだはずだが...
真由美も田中に気づいた。一瞬、目をそらしたが、逃げられないと観念したようだ。
「田中君...久しぶり」
やつれた顔、くたびれた服装。買い物籠には、特売品ばかりが入っている。
「中野か。どうしてるんや?」
「...離婚して、実家に戻ってます。パート掛け持ちで」
レジを済ませた後、二人は駐車場で立ち話をした。
「元旦那がギャンブルで借金作って...養育費も払わない。長男が来年大学受験だけど、学費どうしよう」
真由美の目に涙が浮かぶ。
「次男も高校生で、お金かかるし。総理婚?母親手当?うちらには関係ない話や」
田中は何も言えなかった。同じ中学を出て、彼女は武生高校、自分は工業高校。スタート地点は違ったのに、今は同じ場所にいる。
「田中君は?」
「...日雇いや。相変わらず」
「そう...」
真由美は寂しそうに笑った。中学の頃、クラスで一番かわいかった彼女の面影は、もうどこにもない。
二人は、それ以上何も言わなかった。言葉にすれば、惨めさが確定してしまうから。
◆ 12月27日(月)午後7時
◇ 武生市 居酒屋「けろけろ」
安い居酒屋のカウンター。田中は一人で飲んでいた。
テレビでは、民自党の政見放送が流れている。
「すべての家族に希望を!総理婚で日本を元気に!」
隣の席の男が吐き捨てるように言った。
「希望?俺らには絶望しかないわ」
男も作業着姿だ。同じような境遇だとすぐ分かる。
「あんたも独身?」
「ああ」
「俺もや。もう諦めたわ」
「何歳?」
「52や」
「俺48」
二人は乾いた笑い声を上げた。
「独身税取られたら、生活保護や」
「その前に、俺ら死ぬやろ」
居酒屋の隅では、若い作業着の男が仲間に愚痴をこぼしている。
「俺の会社の正社員、みんな総理婚やって。100万もらえるとか、子供手当とか言うてるけど、俺ら非正規には関係ないわ」
「結婚できる金があるだけマシやろ」
田中たちは、黙って酒を飲み続けた。同じ底辺でも、まだ格差がある。
この国は、二つに分かれている。結婚できる者とできない者。子供を持てる者と持てない者。希望を持てる者と持てない者。
そして、その境界線は、もう越えられない。
◆ 12月31日(金)午後11時50分
◇ 北川家 リビング
大晦日の夜。
北川は家族と紅白を見ていた。今年の紅白は、「家族の絆」がテーマ。出場歌手の多くが、子供と一緒にステージに上がっている。
「来年は、もっと子供が増えるね」
順子が呟いた。
「うん、きっとね」
北川は答えながら、この一年を振り返った。
2027年4月2日の総理談話から、ちょうど9ヶ月。福井は、いや日本全体が、大きく変わった。
結婚が当たり前になり、子供を産むことが義務のようになり、独身者は日陰者になった。
それは、良いことなのか、悪いことなのか。
除夜の鐘が鳴り始めた。
北川は、窓の外を見た。雪が降り始めている。静かに、音もなく。
来年、2028年。第一次総理ベビーが生まれる年。福井にも、たくさんの新しい命が誕生するだろう。
しかし同時に、新しい分断も生まれる。家族を持つ者と持たざる者。多数派と少数派。
記者として、その全てを記録しなければならない。
たとえそれが、どんなに残酷な現実だったとしても。
「お父さん、年越しそば」
大樹が、そばを運んできた。
「ありがとう」
北川は息子の頭を撫でた。この子たちが生きる未来は、どんな世界になるのだろう。
2028年まで、あと10分。
新しい年が、静かに近づいていた。




