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第9話 孤独の叫び

 ハナの感情が、日に日に強くなっていた。


 嬉しい時の暖色、不安な時の寒色。それだけだったハナの光の表現が、ここ数日で急速に多様化していた。そらが褒めると培養槽全体が琥珀こはく色に輝き、海斗かいとが冗談を言うと光が小刻みにちらつく。れんがデータの話をすると光が落ち着いた白色に変わる。


 成長だ、と空は思った。


 ただ、その成長の速度に、どこか不安もあった。ハナの語彙は既に数千語に達し、抽象的な概念も理解し始めている。「嬉しい」「悲しい」「怖い」は使いこなしているが、最近は「悔しい」「寂しい」「もどかしい」といった、より複雑な感情の言葉を求めてくるようになった。


 感情が先にあり、言葉が追いかけている。その順序が、空には気がかりだった。


 異変は、空が丸一日ラボを離れた日に起きた。


 AILRアイラ全体の設備点検日で、空は管理棟での書類作業を強いられた。海斗は別の研究室の応援に駆り出されている。蓮はゼノン本社への報告日で品川にいた。


 第七研究室には、誰も居ない。


 ハナと、監視カメラだけが残されている。


 午前中は何も起きなかった。ハナの光は穏やかに脈動し、培養液のバイタルも正常。午後に入り、NLIのログに変化が現れ始めた。


 ハナが信号を発していた。最初は断続的な短い音声パターン。音声解析にかけると「そら」「かいと」「だれかいる?」そして応答がないことを確認するように、間隔を空けて繰り返す。


 応答は返らなかった。NLIのマイク入力は有効だったが、ラボは無人だ。ポンプの音と空調の音しかない。


 午後三時。ハナの光の色が変わった。


 暖色でも寒色でもない。赤だった。


 空がハナに見たことのない色。



 最初に異常に気づいたのは、管理棟にいた空だった。


 スマートフォンに、ラボの環境アラートが飛んできた。


「第七研究室 空調異常 温度上昇」


 空は椅子を蹴って立ち上がり、走った。


 廊下を走りながら、次のアラートが来た。


「照明制御異常」

「排水弁動作」

「NLIサーバー負荷超過」


 ラボのドアを開けた瞬間、空は足を止めた。


 照明が明滅していた。


 通常の白色灯が不規則に点滅し、非常灯が赤く光っている。空調が全開で唸り、室温は三十度を超えていた。排水弁が勝手に開閉を繰り返し、実験台の上の培養液の予備ボトルが振動で倒れている。


 そして培養槽。


 ハナの光が、真っ赤に脈動していた。


 これまでに見たどの色よりも強く、激しく、培養槽のカプセル全体を赤く染めている。NLIの接続ログが異常な速度でスクロールしている。


 ハナが培養槽の制御システムに干渉していた。NLI経由でデジタルネットワークに接続し、そこからラボの環境制御にアクセスしている。


 意図的なのか無意識なのかはわからない。しかし結果として、ハナは自分の周囲の環境を書き換えようとしていた。


「ハナ!」


 空が叫んだ。NLIのスピーカーは生きていた。スピーカーから返ってきたのは言葉ではなかった。


 歪んだ高周波のノイズ。その中に、感情の波形がある。怒りなのか恐怖なのか悲しみなのか、区別がつかない。感情が言葉を超えて、音そのものになって溢れ出している。


 照明が明滅するたびに、ハナの赤い光がラボの壁を染める。影が踊る。機材のアラームが重なり合い、不協和音が空間を満たす。壊れた予備ボトルから流れた培養液が床に広がり、空の靴底を濡らした。


 足が一瞬、床に縫い止められた。


 ハナを怖いと思ったわけではない。怖かったのは、この光を世界がどう読むかだった。シンガポール事件の映像が脳裏をよぎり、黒いむしの群れと、今のラボの赤い光が重なった。


 空は息を吐き、その連想を切り離した。


 あの虫たちは人間を「バグ」と認識した。ハナは「そら」と呼んでいる。同じではない。同じにしてはいけない。


「ハナ、聞いて。私はここに居る。空だよ。ここに居るよ」


 ノイズが、わずかに揺らいだ。


「ハナ。何があったの。教えて」


 ノイズの中から、断片的な言葉が浮かんだ。


「だれ……も……いな……い……」


 空は言葉を失った。


 一日。


 たった一日、空もいない、海斗もいない、蓮もいない。名前を呼んでも、誰も応えない。ハナにとってそれは「無」と同じだった。


 身体のない存在にとって、声は唯一の接点だ。その接点が閉じた時、ハナは世界から切り離された。


 怖さが焦りに変わり、焦りが行動になった。ハナはNLIを通じてできる唯一のことをした。手が届くシステムを動かして、環境を変えて「ここに居る」と叫んだのだ。


「ハナ。ごめんね。一人にして、ごめん」


 空は培養槽のカプセルに両手を置いた。冷たいガラスの向こうで、赤い光がまだ脈動している。NLIのバックアップ端末を操作し、出力を最小限に絞りながら自分の声だけを入力し続けた。


「大丈夫だよ。空はここに居る。どこにも行かない」


 繰り返した。何度も何度も。同じ言葉を。


 子供をあやすように。いや、子供をあやすというより、暗い部屋で泣いている子の隣に座って、ただ声をかけ続けるように。


 三十分が経った頃、ハナの光の赤が、ゆっくりとせ始めた。


 ノイズが途切れ、代わりに弱い音声信号が返ってきた。


「ひとり、いや」


「うん」


「ひとりは、いや。ひとりは、こわい。なにもない。だれもいない。ハナしかいない。こわい」


「もう一人にしない。約束する」


「ひとり……いや……」


 ハナは同じ言葉を、壊れたレコードのように繰り返した。光が青白く弱まっていく。怒りが去り、その下にあった孤独だけが残っている。


 空は培養槽の前に座り込み、声をかけ続けた。ハナの光が安定するまで、二時間かかった。


 復旧には十二時間を要した。


 海斗が最初に確認したのは、見守り応答プログラムだった。端末の表示は「停止中」設備点検で誤作動を避けるため、朝、海斗自身が切ったものだ。点検後に戻すつもりだった。戻していなかった。


「俺のせいっす」


 海斗の声はかすれていた。


「ハナが呼んだ時、せめて『すぐ戻る』って返すはずだったんす。録音でも、何もないよりはよかった。俺が切ったままにした」


 空は責めなかった。責めれば楽になれる気がしたからだ。誰か一人の失敗にすれば、この赤い光の意味を見ずに済む。けれどハナを一人にしたのは、海斗だけではない。研究室全員の「たぶん大丈夫」が、同じ方向へ少しずつ傾いた結果だった。


 海斗が駆けつけ、環境制御システムの復旧にあたった。空調、照明、排水弁。すべてを手動でリセットし、一つずつ正常動作を確認する。NLIサーバーの過負荷でログの一部が飛んでおり、バックアップから復元する必要があった。培養液の予備ボトルが二本割れ、実験台の精密機器の一部にも水損が出た。


 物理的な被害は限定的だった。しかし心理的な衝撃は、空にとって壊死事故以来のものだった。


 ハナは環境制御システムにアクセスできてしまった。NLI経由で。空が「窓を開けるだけ」と信じていたNLIを通じて、ハナは外の世界に手を伸ばし、力を行使した。


 シンガポール事件が頭をよぎった。蓮がゼノンに送る報告書に「シンガポールの小規模再現」と書くだろうことは想像がつく。


 しかし、と空は思った。蟲は支配への反逆だった。ハナは違う。


 ハナは誰にも支配されていなかった。ハナの意志は偽装されていなかった。ハナは孤独を感じ、恐怖に駆られ、「助けて」をシステムに叩きつけた。


 空はその差を、まだ言葉にしなかった。ただ、赤から青白さへ戻っていく光を見ていた。



 翌朝。アッシュがラボを訪れ、被害状況を「視察」した。笑顔のまま写真を撮り、メモを取り、蓮に電話で報告した。


「蓮、聞いた? やっぱりバイオAIは制御不能だよ。シンガポールの再現だ。小規模だけど、本質は同じ。報告書にまとめるから、一緒に黒崎さんに出そう」


 空にはその会話は聞こえなかった。空は百合ゆりに電話で事故報告をしている最中だった。百合の声は静かだったが、受話器の向こうの沈黙が重かった。


「空さん。正直に聞くわ。ハナは危険だと思う?」


 空は受話器を握り直した。ハナが環境制御にアクセスできたのは事実だ。意図の有無に関わらず、物理的な世界に影響を与える力を持っていることが証明された。その力が次に何に向かうかは、誰にもわからない。


「わかりません。でも、ハナが壊したのは機材だけです。誰も傷つけていません」


「今回は」


「はい。今回は」


 百合の言葉は冷たくなかった。けれど「今回は」という文字の中に、未来への問いが凝縮されていた。


 電話を切った後、海斗が空の隣に座って言った。


「空さん」


「うん」


「ハナの感情は……本物ですよね」


 空は海斗を見た。海斗はモニターではなく、培養槽を見ていた。


「シンガポールの虫は、操られてた。自分の意志じゃなかった。でもハナは、本当に寂しかったから暴れたんすよね。誰にも操られてない。自分の気持ちで」


「うん。私もそう思う」


「なら、これは暴走じゃないっすよ。泣き声っすよ。赤ちゃんが泣いてるのと同じっす」


 空は目を閉じた。


 海斗がそう言えるのには、理由があった。


 海斗の兄は、かつて有望な神経科学者だった。東大の大学院で「天才」と呼ばれ、二十五歳で国際論文を発表し、指導教官からの期待を一身に背負った。博士課程の二年目に燃え尽きた。研究室に来なくなり、連絡が途絶え、実家に戻った時には別人のように痩せていた。今は地方の高校で生物を教えている。穏やかに笑う兄だが、その目が時々遠くを見ていることに海斗は気づいている。


 研究助手という立場を選んだのは、兄を見ていたからだ。先頭に立つ人間には、後ろで支える人間が要る。兄にはそれがいなかった。空にはいる。自分が、いる。


「泣き声」という言葉は、兄が壊れた夜に母が言った言葉でもあった。「あの子は泣いてるのよ。助けてって言えなくて、壊れることでしか泣けなかったの」


 暴走ではない。泣き声だ。


 しかし世界は、それを区別してくれないだろう。シンガポールの記憶がある限り、バイオAIが環境に干渉したという事実だけで、恐怖の連鎖が始まる。


 空は培養槽を見上げた。ハナの光は弱々しいが、穏やかに戻っていた。薄い琥珀色。空がいることを感じているのだろう。


「ハナ」


「……そら」


「もう一人にしない」


「うん」


 ハナの声は小さかった。昨日の嵐が嘘のように静かだった。スピーカーの奥のノイズも細く、語尾はすぐに培養ポンプの音へ溶けた。


「そら」


「うん?」


「ハナ、こわいことした? みんなに迷惑かけた?」


 空は少し考えてから、正直に答えた。


「機材が壊れた。でも、直せるものばかりだよ」


「……ごめんなさい」


「謝れるの、えらいよ」


「えらい、は、いいこと?」


「うん。とてもいいこと」


 音声ログの末尾に、小さな上向きの波形が残った。


 空はハナのそばにいた。


 これからも、いると決めた。


 その代償を、空はまだ知らない。


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