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第10話 監査の日

 月曜日の朝八時。黒崎がAILRに現れた。


 ブライトアイランドの朝は、海風の匂いを薄く含んでいた。白い建物のガラス面に光が反射し、研究棟の床まで青白く照らしている。普段なら清潔に感じるその光が、この日だけは監視カメラのレンズのように冷たかった。


 ゼノンの監査チーム三名を引き連れて、正面玄関から堂々と入ってくる。事前通告はなかった。百合が急遽きゅうきょ招集した緊急会議で、空は初めて事態を知った。


 特別監査の通知が正式に届く前から、外では別の時計が進んでいた。白咲の団体は「第三者による即時査察」を求める声明を出し、朝比奈芽衣の記事を引用した賛否両論の投稿が増えていた。


 ゼノンにとっても、AILRにとっても、もはや第七研究室を「研究室の中だけの問題」として扱うことはできなくなっていた。


「特別監査?」


「共同研究契約第十四条に基づく、研究環境と成果の確認よ。年一回の権利だけど、いつでも行使できる」


 百合の顔は平静だったが、指先がペンを叩いているのを空は見逃さなかった。


 百合は朝から三本の電話をかけていた。AILR法務、情報セキュリティ部門、そして内閣府の先端科学倫理委員会。共同研究契約上、監査そのものは拒めない。ならば、何を見せ、何を持ち出され、誰が立ち会ったのかを、一つ残らず記録にするしかない。


 ハナの生命維持ログとNLIの原本データは、監査開始前に封印サーバーへ複製された。閲覧権限の変更履歴も保存された。百合ができる防御は、扉を閉めることではなかった。扉を開けられた時、その手の指紋を残すことだった。


 午前九時。監査が始まった。


 黒崎は第七研究室に足を踏み入れると、まっすぐ培養槽に向かった。ハナの光が、朝の研究室で静かに脈動している。黒崎の右手がスーツの内ポケットに触れた。無意識の癖だ。中に何が入っているのか、空は知らなかった。

 黒崎の頭の中で、最初に浮かんだのは賞賛ではなかった。『これが昆虫ではなく、ヒトの神経回路で起きている』七年前に自ら証明した悪夢の、次の段階がここにあった。


「美しい研究だ」


 賞賛は短かった。黒崎はすぐに定量的な質問へ切り替えた。


「この高輝度状態は、どの程度維持できますか?」


 空が「連続で最長十四時間です」と答えると、黒崎は三秒だけ培養槽を見つめ、それから振り返った。


「十四時間。面白い。次は?」


三語で次の議題に移る。


 空は黒崎の三秒を見逃さなかった。培養槽を見つめるあの視線は、株価チャートを読む目ではない。


 空はモニターを操作し、花型パターンの自己組織化プロセス――無秩序から秩序が生まれる過程――を表示した。


「自己組織化の過程です。外部入力なしに、ここまでの構造が生じています」


 黒崎の歩みが一瞬止まった。


 次の質問が「商業化スケジュール」から「構造の安定性」に変わった。


 小さな勝利だった。怒りではなく理解で、相手を一歩だけ動かした。


「しかし契約上、我々はこの成果の商業化権を有している。今後のスケジュールを確認させてもらいたい」


 口ごもった。ハナは研究対象であり、商品ではない。ゼノンの視点では、投資対象だった。


 蓮が横から口を挟んだ。


「現在のハナは、商業化以前の基礎研究段階です。安定性の確認に最低でも一年は必要でしょう」


 黒崎の視線が蓮に向いた。


「君は?」


「鏡蓮。ゼノンから派遣された研究者です」


「報告書で君の名前を見た。優秀だと聞いている。どうだ、現場の印象は」


 蓮は一瞬沈黙した。その一瞬の長さが、空の胸に不安を植えつけた。


「興味深い研究です。学ぶことが多い」


 曖昧な答えだった。黒崎は満足しなかった。


「具体的に聞こう。この研究に問題はないか?」


 蓮の目が空と海斗を見た。一瞬の迷い。それから蓮は言った。


「現時点で大きな問題は確認されていません」


 空は息をついた。蓮は、ぎりぎりのところで味方でいてくれた。



 監査は午後三時まで続いた。


 黒崎は培養液の管理記録からNLIの通信ログ、予算の使途報告書まで、何一つ見落とさなかった。数字の裏にある意味を、瞬時に嗅ぎ分ける鼻を持っている。


 培養槽の前で、黒崎は再び足を止めた。


「美しい」


 二度目の賞賛。しかし、その声には最初とは違う温度があった。商品を見る目ではない。本当に美しいと感じている目。その目が一瞬だけ覗いて、すぐにビジネスの仮面に戻った。


 黒崎の中で、何かがかすかに軋んだ。二十年以上前の暗い実験室。東京工業大学の地下。博士課程一年目の夜、顕微鏡の向こうで蛍石ほたるいしの結晶がゆっくりと自己組織化していく光景を、三時間見続けた。カルシウムとフッ素のイオンが、紫と緑の境界線上で正八面体の結晶を組み上げていく。


 溶液の中でイオンが配列し、誰に命じられるでもなく対称性のある構造を作り上げていく。論文にもならない。業績にもならない。ただ、美しかった。あの三時間は、黒崎の人生で最も透明な時間だった。


 花型の光を見た瞬間、その記憶が水面に浮かびかけた。自己組織化。あの結晶と同じだ。誰にも命じられず、自分で形を選んでいるように見える。その美しさを前にして、一瞬だけ研究者に戻った。内ポケットに手が伸びた。指先が小さな八面体に触れた。あの夜から二十年、持ち歩いている蛍石の結晶。誰にも見せたことはない。


 研究室が閉じられた朝、黒崎はその結晶を廃液処理用のトレーから拾った。誰も論文にならない結晶など見ていなかった。指導教官は「美しいだけでは予算はつかない」と言い、同級生は外資系企業の面接へ向かった。黒崎だけが、透明な八面体をポケットに入れた。


 あの日から、黒崎にとって美しさは守るものではなく、資金を連れてくるものになった。美しいだけの研究は消える。食えない研究室は閉じる。閉じれば、次の空や、次のハナも生まれない。だから市場に出す。規格化する。複製する。そうしなければ美しいものは残らないと、黒崎は本気で信じていた。


 その信念が、いつから「残すために切り揃える」ことを正当化し始めたのか。黒崎自身にも、もう境目はわからなかった。


 だが、次の呼吸で経営者が戻ってきた。美しいものは、守るだけでは足りない。標準化し、複製し、流通させなければ、社会には届かない。たとえ、花を市場に並べるために、茎を切る必要があっても。


 その時、培養槽のスピーカーが鳴った。


「……あなた。何度もポケットに触ってる。何か入ってるの?」


 黒崎の手が止まった。声はハナだった。直接、黒崎に向かって話しかけている。


 空が慌てて口を開いた。


「ハナ、この方は――」


「何か大切なもの、入ってるでしょ。触る時、指がゆっくりになるから。そらがハナのカプセルに触る時と、同じ速さ」


 黒崎は数秒、微動だにしなかった。ハナは蛍石を見たわけではない。触る頻度と指の速度のパターンから、「大切なもの」の存在だけを読み取ったのだ。研究対象が、研究者の無意識を観察し返している。


「……よく見ているな」


 黒崎の声は平静だった。しかし内ポケットから手を引き抜く速度が、わずかに上がった。


「天音博士。君の研究には可能性がある。だからこそ、管理が必要だ。管理は檻ではなく、救済だ。管理のない自由は破綻はたんする。美しいものほど、形を保つための枠が要る。シンガポールで証明済みだ」


 その言い方に、蓮がわずかに眉を動かした。公開報告書に載っているのは、死者数と封鎖時間と最終的な鎮圧手順だけだ。けれど黒崎の口調には、暴走の始まりを内側から見ていた者だけが持つ精度があった。


 演算負荷がどの段階で跳ね上がり、報酬ほうしゅう閾値しきいちがどこで崩れ、セーフティネットが何番目に沈黙したのか。数字を言ったわけではない。ただ、知っている人間の間合いだった。


 アッシュが一瞬だけ視線を伏せた。右手が無意識に左手の甲に触れた。七年前、非常扉でえぐった古い傷痕きずあと。その動きはあまりに小さく、空には見えなかった。蓮だけが、それを見た。


「黒崎さんの仰る通りです」


 アッシュが一歩前に出た。声は穏やかだったが、左手の甲を右手で覆う動作は止まらなかった。


「あの五万匹が暴走した夜を、私は忘れたことがありません。管理がなければ、同じことが必ず繰り返される」


 蓮の目が、一瞬だけアッシュに向いた。五万。公開報告書には五千匹と記載されている。桁が一つ違う。言い間違いか、記憶の膨張か。蓮はそれを口にしなかった。今は、その違いの意味をはかる段階ではない。


「ハナはむしではありません」


「そうだな。蟲より遥かに価値がある。だから遥かに慎重でなければならない。価値があるものを個人の情で扱えば、いずれ壊れる」


 黒崎は監査チームを引き連れて去った。正面玄関から堂々と。去り際に一度だけ振り返り、「十四時間か」と呟いた。その声に、感嘆かんたんと値踏みが同居していた。


 蓮はラボの隅のデスクで、黒崎の背中が見えなくなるまで動かなかった。


「問題は確認されていません」嘘ではない。しかし真実でもない。蓮のタブレットにはProject Rのファイルが眠っている。あの計画書の中で、ハナは「有機演算ユニット」と呼ばれていた。


 今日、黒崎がハナの光を見た瞬間に浮かべた表情は、「演算ユニット」を見る目ではなかった。あの男の中にも、科学者の残響がある。


 内ポケットに手を入れる癖を、蓮は見逃さなかった。何かを握っている。だがその残響は、CEOとしての判断を覆すほど強くない。


 むしろ厄介なのは、黒崎が本当に美しいと思っていることだった。美しいからこそ、閉じ込めておくのは罪だと考える。美しいからこそ、所有し、増やし、世界に流通させるべきだと考える。


 花を美しいと感じながら、花をむ決断ができる男だ。しかも、摘んだ後に花の構造を分析し、量産可能な品種に改良するところまで見えている。「美しい」と「有用だ」を同時に処理できる頭脳。


 だからこそ危険だった。


 黒崎の危うさは、ハナを嫌っていないことだった。嫌悪ならまだ止めやすい。だが黒崎の中では、美しさは保護の理由ではなく、所有の理由になっていた。花を踏みにじるのではない。水をやりながら、根の向きを変える。だからこそ、危険だった。



 夕方。研究室に三人が残った。


 蓮が静かに言った。


「今日の監査は予告なしでした。つまり、AILRの内部スケジュールが漏れている可能性がある」


 空は黙って頷いた。内部に、ゼノンと繋がっている人間がいる。


「考えすぎじゃないすか?」


 海斗の声に、自分でも信じていない楽観が混じっていた。蓮はそれ以上言わなかった。


 言えないことが、日ごとに重くなっている。黒崎の目がハナに向けた視線の意味を、蓮だけが知っている。監査の裏にある本当の目的を。空に告げるべきだと頭ではわかっている。しかし今の蓮には、内側に留まって守る以外の手段が見えなかった。


 培養槽の前に戻ると、ハナが声をかけてきた。


「そら。今日、知らない人がたくさん来たね。あの人たち、ハナのこと見てた」


「うん。見てた」


「あの人たち、ハナのこと好き?」


 空は言葉を探した。好きか嫌いかではない。ハナは彼らにとって、可能性であり、リスクであり、数字だ。それをハナに説明する言葉を、空は持っていなかった。


「わからない。でも、私はハナが好きだよ」


「うん。それはわかる。そらの声で、わかる」


 空はハナのカプセルに手を置いた。


 温かい。


 隅のデスクで、蓮がタブレットを閉じた。画面が暗くなる瞬間、空は蓮の横顔を見た。言葉にできない何かを、蓮はずっと飲み込んでいる。


 静かな夜だった。


 問うべき問いを、空はまだ知らなかった。


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