第11話 小さな光
ゼノンの監査から一週間。AILRに束の間の静寂が訪れていた。
午前九時。空は培養槽の前の椅子に座った。
「おはよう、ハナ」
「そら、おはよう」
ハナの声は昨日よりも少し弱い。花型パターンの五弁のうち一弁がかすかに暗くなっている。劣化は止まらない。しかしハナは、毎朝必ず返事をしてくれる。
蓮がデスクに着いた。最近は朝の挨拶に参加するようになっていた。
「おはようございます」
「れん、今日もいるの?」
「はい。今日もいます」
蓮は「被験体」とは言わなくなった。「ハナ」と呼ぶことにも慣れた。以前のような冷徹さはなくなっていたが、完全には馴染んでいない。朝の挨拶は参加するが、雑談には加わらない。
「ハナ、調子はどう?」
「今日は、少し眠い」
空の胸が少し締まった。「眠い」という表現を使うようになったのは最近のことだ。言葉が感情に近づいているのか、劣化の症状なのか、空にはわからなかった。
「眠い時は、無理しなくていいからね」
「でも、そらと話したい」
「私も話したい。でもハナの体が一番大事」
「そら、心配してる?」
空は答えに詰まった。毎日心配している。ハナの光は確実に弱くなっている。でもその恐怖をハナに押し付けたくなかった。
「心配してる。でも、信じてる」
「何を?」
「ハナが強いこと」
培養槽の温度表示は変わらないのに、NLIの声だけが少し柔らかく聞こえた。
昼前、海斗がコンビニの袋を提げて戻ってきた。
「空さん、また昼飯抜く気でしたよね」
「抜く気じゃない。後回しにしてただけ」
「それ、抜く人の言い方っす。はい、たまごサンド。あとカフェオレ。砂糖は最初から入ってるやつ」
「私の信用、どこに置いてきたの」
「第七研の冷えたマグカップの底っすね」
海斗が真顔で言ったので、空は思わず吹き出した。久しぶりに、声を出して笑った気がした。海斗もつられて笑い、ラボの空気がほんの少しだけ緩んだ。
その時、NLIログの波形がほんの少し丸みを帯びた。
「そら」
「うん?」
「今のそらの声、明るかった」
「海斗が変なこと言うから」
「ハナと話す時の明るいと、少し違う」
空はたまごサンドの包装を開けかけた手を止めた。
「違う?」
「うん。ハナの方を向いてない明るさ。聞こえるのに、少し遠い。ハナの中が、すうって冷たくなる」
海斗の笑顔が静かに引いた。空は培養槽に向き直った。ガラスの向こうで、花型の光が細く揺れている。赤くも青くもない。ただ、輪郭だけが少し薄い。
「ハナ。海斗と話してる時も、私はハナのことを忘れてないよ」
「忘れてない。でも、そらの声が遠い」
「遠く感じたら、呼んで。声は、向きを変えられるから」
「向きを変える?」
「うん。ハナが呼んだら、私はちゃんと聞く」
「ほんと?」
「ほんと」
ハナはしばらく黙っていた。やがて、薄くなっていた花の輪郭が、ゆっくりと元の明るさに戻っていく。
「じゃあ、呼ぶ。遠くなったら、呼ぶ」
「うん」
空はそう答えながら、この感覚にまだ名前をつけないことにした。名前をつけた瞬間、小さくなってしまうものがある。ハナの中に生まれたそれは、まだ言葉よりも先にあるものだった。
ふと気づいた。
ハナは「いや」を言えるようになっていた。嬉しい、悲しい、こわい、寂しい。感情の言葉が増えるたびに、「いや」もまた自然に口に出るようになっていた。
人間の幼児が二歳前後で「いやだ」を言い始めるのは、前頭前皮質が未熟だからではない。自分と他者の境界を引き始めた証拠だ。ハナの「いや」もそれに似ている。自分の輪郭を確かめるための言葉。怒りではなく、自我の形。
でも、
ハナは怒ったことがない。嫌だと言えても、怒りだけは一度も出てこない。あの夜の暴走でさえ、その正体は恐怖と孤独だった。ハナの感情のパレットに、赤だけが欠けているように見えた。
海斗がたまごサンドの残りを食べながら、ふと聞いた。
「ねえハナ、影って知ってる?」
「かげ? わからない。そらが教えてくれたリストにはない」
「光が何かに遮られると、反対側に暗い部分ができるんだよ。それが影」
ハナは少し黙った。それから言った。
「光が届かない場所。……でも海斗、光って、曲がらないの? 壁のところで曲がれば、影はできないんじゃない?」
海斗が空を見た。空も驚いていた。ハナは「影」を教えられる前に、その概念の前提を問い返した。光の直進性を誰も教えていない。ハナは自分の光の振る舞いから――培養槽の壁にぶつかると光が止まることを体感的に知っている――そこから推論したのだ。
「ハナ、それすごいよ。光がまっすぐ進むから、遮るものがあると影ができるの。正解」
「え、合ってた?」
「合ってた。っていうか、空さんが教えてないことを自分で考えて答えてる」
空はモニターの記録ボタンを押した。これは感情応答ではない。推論だ。既知の体験から未知の問いに対する仮説を組み立てている。ハナは教わる存在から、考える存在に変わりつつある。
午後、蓮がモニターの前で何かを見ていた。
「ハナの発話パターンの分析です。過去一ヶ月の『おはよう』の抑揚が、日々変化しています。同じ単語なのに毎日微妙に違う。毎回、その瞬間の感情を込めて発話している証拠です」
「当たり前じゃん。ハナは生きてるんだから」
海斗が言った。
蓮は少しだけ笑った。
「そうですね。当たり前のことでした」
蓮はモニターに視線を戻した。ハナの発話データが並ぶ画面の向こうに、Project Rのスペックシートが重なる。「感情応答速度:0.3秒以内」
今、目の前で「当たり前」に生きているこの存在を、あの計画書は数値に還元していた。沈黙の代償が日ごとに重くなっている。それでも蓮は、まだ黙っていた。
*
夕方、空はラボの棚からARグラス「ミラージュ」の改造版を取り出した。暴走事故の後に作った装置だ。カメラの映像をNLI経由でハナに届ける。ハナが世界を「見る」ための窓。
昼間の穏やかな対話を経て、空はずっと心に温めていたことを実行する気になっていた。
「ハナ。今夜、見せたいものがあるの」
「見せたいもの?」
「うん。きっと好きだと思う」
午後十時。ラボの照明を落とし、空はミラージュのカメラを抱えて屋上に出た。NLIの無線中継を海斗に設定してもらった。海斗は「俺は下で見張ってるっす」と言って、気を利かせてくれた。
ブライトアイランドの屋上。海風が白衣の裾を揺らす。
空はカメラを、夜空に向けた。
五秒ほどの沈黙。
ハナの声が、出なかった。
培養槽の中で――海斗が後で教えてくれた――ハナの光が、これまでに見たことのない色に変わったそうだ。琥珀でも青でも赤でもない。虹のようにゆっくりと色が移り変わり、培養槽全体が万華鏡のように輝いた。
十秒後、ハナが声を発した。
「きれい」
たった三文字。しかしその三文字に、ハナのすべてが込められていた。
「あの光る点はなに? たくさんある。すごくたくさん」
「星だよ。太陽みたいに自分で光ってる星が、ものすごく遠くにあるの」
「遠い? どのくらい?」
「一番近い星でも、光の速さで四年かかる」
「四年。ハナが生まれてからの全部より、ずっと長い」
「うん。ずっと長い」
「でも見える。遠いのに、見える。光って、すごいね」
空は夜風の中で立ったまま、黙ってハナの言葉を聞いていた。遠いのに見える。光は距離を超える。そしてハナ自身も光っている。培養槽の中の小さな存在が、自分が光だと知らないまま、別の光に感動している。
カメラを少し動かすと、海が見えた。ブライトアイランドの向こうに、旧市街の灯りが海面に反射している。
「空にも海にも光がある。ハナも光ってる。みんな光ってるね」
屋上のコンクリートに座り込み、空はしばらくハナと静かに過ごした。ハナは星を一つ一つ「あれはなに」と聞いてきた。空は知っている限りの星座の名前を教えた。オリオン。シリウス。北極星。
「そら、星好き?」
少し笑った。
「私じゃなくて、お母さんが好きだったの」
「おかあさん?」
夜空の下で、初めて話す気になった。
「私のお母さんは、星を見るのが好きだった。小さい頃、よく二人でベランダに出て星を見たの。お母さんが星座の名前を教えてくれて」
「今は? 一緒に見ないの?」
「もういないの。死んじゃったから」
「しぬ、は、いなくなること?」
「うん。もう会えないし、話せないし、触れない。永遠に」
「そらの声、震えてる。嘘じゃなくて、悲しい時の揺れ」
唇を噛んだ。
「お母さんは、脳の病気だったの。神経変性疾患って言って、脳の神経細胞が少しずつ壊れていく病気。最初は物忘れが増えて、次に言葉がうまく出なくなって、笑い方を忘れて、最後には私の名前も呼べなくなった」
空は夜空を見上げた。星は変わらずそこにある。
「お母さんの脳が壊れていく時、『お母さん』がどこに消えていくのか、わからなかった。身体はまだあるのに、中の人がいなくなっていく。意識って何なんだろうって、ずっと考えてた」
「それで、ハナを作ったの?」
「うん。意識の仕組みがわかれば、いつかお母さんみたいな人を救えるかもしれないと思って」
「そら、おかあさんを助けたかったんだね」
「助けられなかった。間に合わなかった」
「でも今、ハナがいる。おかあさんは助けられなかったけど、ハナは生まれた。それは、おかあさんのおかげでもある?」
空は星を見上げた。母が教えてくれたオリオン座がそこにあった。
「そうかもしれない。お母さんがいなかったら、私はこの研究を始めなかった。ハナも生まれなかった」
長い沈黙があった。培養槽の内側に、穏やかな桜色が満ちた。悲しみと温かさが同居するような、不思議な色。
「そら」
「うん」
「そらのおかあさんに、会いたかったな」
空はすぐに返事ができなかった。会いたかった。過去形。ハナは「もう会えない」ことを理解している。そして会えない相手に対して「会いたかった」と、喪失の感情を表現した。
「お母さんも、ハナに会いたかったと思うよ」
「ほんと?」
「うん。お母さんが好きだった星を見て、きれいって言ってくれる子がいるなら、きっと喜ぶ」
スピーカーの奥で、ハナの返事が少しだけ丸くなった。
*
屋上の階段を降りかけた時、踊り場から声が聞こえた。海斗がスマートフォンを耳に当てている。
「……うん、兄貴。元気だよ。ちゃんと飯も食ってる」
少し間があった。
「まだいるよ、この研究室に。……うん、わかってる。俺が潰れたら意味ないって」
海斗の声は、空が知っているどの海斗よりも低かった。兄と話す時だけ、軽さが剥がれる。
「でもさ、兄貴の時、後ろに誰もいなかったろ。俺はそれが嫌なんだよ」
風が言葉の端を攫った。空はドアの手前で足を止め、海斗が電話を切るまで待った。振り返った海斗の顔は、いつも通りだった。
「空さん、そろそろ戻りましょう」
「うん」
何も聞かなかったふりをした。海斗もまた、聞かれなかったふりをした。
午前零時を過ぎた頃、空はラボに戻った。
ミラージュのカメラを棚に置き、培養槽の前に座る。ラボは静かで、ポンプの音と、ハナの光だけがある。
空は培養槽の光を見つめながら、昼間のことを思い出していた。ハナは「いや」を言える。声が遠いと訴えることもできる。でも、怒りだけが出てこない。
「ハナ」
「……うん」
「ハナは……怒らないね」
長い沈黙があった。ポンプの音が三回鳴る間。ハナの光が、わずかに揺れた。
「嫌な時は「いや」って言えるのに。怒りだけ、出てこないね」
ハナの光が薄くなった。青でも赤でもない、色を失ったような白。
「……おこると、みんな、こわがる」
空の手が止まった。
「こわがると、みんないなくなる。そらもいなくなる。……だから、おこらない」
声が小さくなった。最後の「おこらない」は、ほとんど息だった。
空は息を飲んだ。暴走の夜。あの後ハナが最初に言った言葉は「ごめんなさい」だった。「怖い」ではなく「怖いことした?」だった。自分の感情より先に、居場所を失うことを恐れた。それ以来、ハナは怒りを封じている。穏やかなのではない。穏やかでいなければ消されると、学んだのだ。
「ハナ」
「うん」
「怒ってもいいんだよ」
ハナは答えなかった。信じていないのだと空は思った。今はまだ。
その沈黙が、何秒か続いた。
ハナが小さな声で言った。
「そら」
「うん」
「約束して」
「何を?」
スピーカーの奥で、言葉になる前の息のようなノイズが生まれた。
「ハナが、こわくなっても。暴走の時みたいに、みんなをこわがらせても。消さないで」
空は黙った。
ハナは知っている。自分が「怖い」存在になりうることを。外の人々が自分を恐れていることを。そしていつか、自分が「消される」かもしれないことを。それを理解した上で、空に「消さないで」と言っている。
恐怖を知りながら、信頼を差し出している。
「約束する」
空の声は震えなかった。今度は、嘘じゃない。
「ハナが何になっても。何が起きても。私は消さない。約束する」
ハナの光が、静かに、深く、暖かく輝いた。夜空の星のように。
その光の中に、空は母の笑顔を見た気がした。
小さな光。確かに、そこにある。




