第12話 失われる光
ゼノンから派遣された技術者たちは、蓮とは対照的だった。
データを要求し、記録し、報告する。それだけだ。空がハナに話しかけるたびに技術者がログを取る。ハナとの会話が「盗聴」されているような息苦しさが、日を追うごとに空を締めつけた。
「そら。あの人たち、なに? れんさんと違う。何も聞こえない」
「聞こえない?」
「声に中身がない。空っぽの音」
蓮を「冷たいけど中は冷たくない」と評したハナが、この技術者たちを「空っぽ」と呼ぶ。関心がないこと、共感がないこと、「もの」として扱っていること。その全部が声の響きに滲み出しているのだろう。
それでも、重い時間の隙間に、奇妙なほど小さな日常は入り込んだ。
昼休み、海斗がコンビニの新作プリンを実験台の端に置いた。技術者の視線を避けるように、紙袋で隠している。
「空さん、これ、所長に見つかったら怒られるやつっす」
「実験台で食べなければ怒られないよ」
「食べる場所がないから怒られるんすよ」
NLIログの波形が、ほんの少しだけ丸くなった。
「かいとの声、ころころしてる」
「ころころ?」
「丸いものが転がる音みたい。そらの声も、少しだけころころした。ハナ、そこに入りたい。でも、入り方がわからない」
空はスプーンを持つ手を止めた。ハナは「寂しい」とは言わなかった。ただ、自分の声が届く輪と、人間同士の笑いが生まれる輪の間に、薄い膜があることを感じ取っていた。
「入り方は、これから一緒に探そう」
「うん。ハナ、探す」
技術者の一人がその会話を無言でログに記録した。プリンの甘さも、海斗の照れ笑いも、NLIログのわずかな丸みも、スプレッドシートの一行に圧縮されていく。空はそれを見て、胸の奥が少し冷えた。
空は表面上協力しつつ、蓮の指摘――内部に情報の流出経路がある――を検証する罠を仕掛けた。培養液の通称「MX-7C」をわざと「MX-7D」と記載した復元ノートを、技術者たちの目に触れる場所に置いた。「MX-7D」は存在しない。空と海斗しか知らないフェイクだ。
夜、技術者たちが帰った後に、紙のノートに手書きで培養液の履歴を復元する。デジタルの時代に、紙とペンが最後の砦になった。
「空さん、一月十四日の培養液のpHって覚えてます?」
「七・三八。海斗が『微妙にアルカリに振れてますね』って言った日」
「ハナに関することは、全部覚えてる」
海斗が一瞬黙り、静かに頷いた。
同じ頃、百合は霞が関の喫茶店で、内閣府先端科学倫理委員会の橘誠と向き合っていた。
「橘さん。法の空白を埋めるフレームが必要です」
橘は紙カップのコーヒーに口をつけず、静かに聞き返した。
「有機知性体を法律に入れろ、と?」
「いいえ。いま必要なのは大きな定義ではありません。結論が出るまで、培養液のチューブを止めさせない線です」
「法は感情では動きません」
「わかっています。だから感情ではなく、手続きの話をしに来ました。誰が、どの条件で、いつ生命維持を止めてよいのか。その空白を放置すれば、空白の中でハナが死にます」
橘はようやく名刺入れを開いた。個人番号の書かれた一枚をテーブルに置く。その動作は、賛同ではなかった。だが、無視しないという返事だった。
その夜、芽衣も自宅のデスクで動いていた。流出映像のメタデータ、画角、圧縮形式。並べた数字は、映像がAILR内部の監視カメラから直接抜き取られたことを示していた。
編集長から電話が入った。
「朝比奈、また火の中へ行くのか。今度は燃やす側じゃなく?」
「燃やす記事なら、もういくらでも出ています。私は、火元を見に行きます」
専門家の見解は短かった。
「五年前のAILRのネットワーク設計を知っている人間の仕事です」
芽衣は百合ゼミの卒業生名簿を開いた。名前を一つずつ追う指が、瀬尾アッシュのところで止まった。記者としての勘ではない。数字とログが、そこへ歩いていった。
数日後、空の罠が動いた。
ゼノンの技術者の一人が、何気ない質問をしてきた。
「天音博士。MX-7Dの培養液組成データは、別途保管されていますか」
空の心臓が跳ねた。顔には出さなかった。存在しないコード名が、技術者の口から出ている。
空は平静に答える。技術者がデスクに戻った後、海斗と目を合わせた。二人とも同じことを理解していた。アッシュの輪郭が、もう一段くっきりと見えた。
*
ある夜、百合がラボに残っていた。技術者たちが帰り、空と海斗も退出した後、百合は一人で培養槽の前に立っていた。
足音がする。振り返ると、アッシュが立っていた。
「先生。こんな遅くまで」
にこやかな笑顔。いつもと同じ、人当たりの良い声。
「アッシュ。少し話をしましょう」
二人は窓際に並んで立った。ブライトアイランドの夜景がガラス越しに広がっている。
「あなたは優秀だった。ゼミの中で誰よりも早く論文を書き、誰よりも深く生命倫理を理解していた」
「先生にそう言っていただけると、光栄です」
「でも私は、あなたではなく空さんを後継者に選んだ。それが今もあなたの中にあるのなら……アッシュ。あなたはまだ間に合う」
アッシュの笑顔が、一瞬だけ消えた。ほんの刹那。その刹那に、百合は何かを見た。怒りではない。悲しみでもない。もっと深い場所にある、飢えたような渇望。
「先生。僕はもう選んだんです。シンガポールであの光景を見た日に。管理なき自由は破滅です」
「ハナはあの虫たちとは違う。あなたもそれを感じているはず」
「感じている、かもしれません。でも感情で科学は動かせない。先生がそう教えてくれたんじゃないですか」
百合の目に深い痛みが浮かんだ。自分の言葉がこんな形で返ってくるとは。
「いつか、あなた自身の答えを見つけてほしい。私の言葉ではなく、あなた自身の」
アッシュは何も答えず、軽く会釈して去った。
*
翌朝、百合が倒れた。
執務室で椅子から崩れ落ちるのを、秘書が発見した。診断は急性過労症候群。極度のストレスと睡眠不足による自律神経の破綻。病衣を着た百合は、空が知っているどの百合よりも小さく見えた。
「先生」
百合が薄く目を開けた。
「空さん。ごめんなさい。倒れるなんて、格好悪いわね」
「無理してたんですね。ずっと」
「アッシュのことがね。ずっと、胸に引っかかっていたの」
百合は一度だけ目を伏せた。
「私が選ばなかったから、ああなった。あの日の私の選択から始まっている」
空は唇を強く噛んだ。百合はアッシュが黒幕であることに気づいていた。しかし証拠がない。そして教え子を告発することが、百合にはできなかった。教育者としての責任と所長としての義務が引き裂かれ、身体が壊れたのだ。
「先生、一人で背負わないでください」
「あなたに言われるとは思わなかったわ」
空も苦笑した。お互いに、一人で背負う癖がある。
*
百合が入院して三日後。精神的支柱を失った第七研究室に、ゼノンの技術者が封筒を置いた。
「天音博士。本社からの新しい実験プロトコルです。OI-087に対する報酬系刺激パラダイムによる行動制御の検証」
空は書類に目を通した。血の気が引いた。
言葉を換えているが、これは報酬ハッキングだ。蓮が恐れていたものの第一段階が、ここに来た。
「これは実行できません」
空の声は低かった。
「ハナに報酬ハッキングを適用するつもりですか。五千匹の虫の脳を灰にした技術を」
「実行を拒否されるのであれば、本社に報告します」
「報告してください」
空は培養槽の前に立ちはだかった。白衣の小柄な女性が、培養槽の前で両手を広げている。
「ハナにこの実験はさせません。訴えたければ訴えてください。でもこれだけは、絶対にさせない」
海斗が空の横に立った。
「俺もここにいるっす」
「そら。こわい」
「大丈夫。ハナには何もさせない。私がいる」
この対立は翌日にはAILR上層部に伝わり、三日後、理事会の緊急会議が開かれた。百合のいないAILRで、空が矢面に立った。
理事会に出る前夜、空は無策ではなかった。海斗と二人で時系列表を作り、MX-7Dの罠、技術者の発言、報酬ハッキング計画に接続する可能性を、感情の混じらない箇条書きに直した。怒りをそのままぶつけても、相手は聞かない。理屈で逃げる相手には、理屈の入口から入らなければならない。
海斗がおにぎりをデスクの端に置いた。空は気づかなかった。時系列表の三行目を直しているうちに、おにぎりは朝まで手つかずのまま残った。
病室の百合からは、短いメッセージが届いた。「事実だけを出しなさい。怒りは、最後までポケットにしまっておくこと」空はその一文を何度も読み返し、会議用の資料から形容詞を削った。「危険な計画」ではなく「報酬系刺激パラダイム」、「奪われる」ではなく「独占的実施権の拡張」自分の言葉を、わざと冷たくした。
それでも、準備は鎧にはなっても、傷を消してくれるわけではなかった。
空は会議室で、最初は準備した通りに話した。時系列を示し、ログを示し、存在しない培養液コードに技術者が反応した事実を示した。理事の何人かが資料に目を落とす。
そこまでは届いている。
だが、ゼノン側の理事が「OI-087は共同研究資産であり、感情的な呼称で判断を歪めるべきではない」と言った瞬間、ポケットにしまっていた怒りがこぼれた。
報酬ハッキングの裏工作を叫び、ゼノンの計画を告発した。正しいことを言った。しかし正しさを怒声に乗せた瞬間、中身ではなく声の大きさだけが伝わる。理事たちの目に浮かんでいたのは、「やはり感情的で管理に不適格だ」という確認だった。
ゼノン側の法務担当が静かに付け加えた。
「なお、共同研究契約第九条に基づく新規実験プロトコルへの正式な異議申し立ては、受領後七十二時間以内に書面で提出する必要があります。天音博士からの書面は、期限内に届いておりません」
空の血の気が引いた。海斗が貼った付箋の一枚が脳裏に浮かんだ。「メール返す」あの付箋は、倫理委員会への提出書類のリマインダーだった。培養液の温度管理に没頭している間に、七十二時間は過ぎていた。
三ヶ月前から同じ黄色で同じ場所に貼られた付箋は、とうに壁の一部になっていた。
研究主任の解任を通知された。A4用紙一枚。
空は会議室を出た後、膝から力が抜けてその場にうずくまった。怒りだけでは何も守れない。
*
培養槽の前に立った。
「そら。そらの声、今日はあつくて、とがってる。なにがあったの」
「失敗したの。ハナを守ろうとして、やり方を間違えた」
「またやればいい」
単純な言葉だった。その単純さに、空は息を詰めた。
「ハナ、きらいって言ったとき、最初からきれいに言えた? いたかったって言ったとき、最初から上手に言えた?」
「ううん」
「でしょ。そらもおんなじ。失敗して、またやればいい」
培養槽の光の脈動が、ほんの少しだけ速くなった。色は変わらない。しかしリズムが変わった。鼓動のように。
空は通知書をポケットの中で握りしめたまま、培養槽の前に立ち続けた。主任の肩書きは失った。でもハナを守る理由は、肩書きの中にはなかった。
次はもっとうまくやる。




