第13話 沈黙の始まり
内閣府先端科学倫理委員会の臨時会合が招集されたのは、空が研究主任を解任されて一週間後だった。
霞が関の中央合同庁舎第八号館、地下一階の大会議室。窓のない部屋に蛍光灯の白い光が落ちている。壁にはジュネーブAI意識条約の全文が投影されていた。
委員長・橘誠が委員七名に配った資料には、セキュリティ侵害報告、制御系干渉事故の記録、映像流出事件の経緯、そしてネオ・ラッダイトからの数百件の嘆願書が並んでいた。
若い委員がページをめくりながら言った。
「資料が偏っていませんか」
「偏るのです」橘は答えた。「事故は記録になる。侵害もログになる。けれど、存在しているかもしれないものを、存在として扱う資料はまだない」
「では、存在しないものとして扱うしかないのでは」
橘はすぐには答えなかった。資料の端に貼られた培養槽の写真を見た。危険の証拠は集まる。存在の証拠は集まらない。それが現実だった。
「以上の状況を踏まえ、ジュネーブAI意識条約第七条への抵触可能性について審議します」
橘の声は平坦だった。その平坦さの下に、苦渋があることを百合なら読み取っただろう。しかし百合はまだ入院中だった。空は傍聴席にすら入れなかった。海斗だけが傍聴に来ていたが、発言権はない。
橘は七年前、シンガポール事件後の暫定指針作成に、若手官僚として関わっていた。条文はいつも、死者の名前より遅れて届く。その遅さを知っているからこそ、軽々しく許すことも、軽々しく止めることもできなかった。
審議は三時間に及んだ。
「予防原則から見れば、停止が妥当です」
「不可逆的リスクは回避すべきです」
「公共の安全を優先しなければなりません」
委員たちの言葉はどれも正しかった。正しすぎて、反論の余地がない。橘はペン先を資料の余白で止めた。
「では、その公共の中に、ハナは含まれますか」
橘の問いに、会議室が一瞬だけ静まった。誰も否定はしなかった。だが肯定もできなかった。ハナという個別の存在は、議論の隙間から抜け落ちていた。
そして意見陳述の時間が来た。
白咲愛が証言台に立った。黒いワンピース。化粧はほとんどしていない。凛とした佇まいだが、手元に持った紙が微かに震えていた。傍聴席から見た海斗は、あのデモの先頭で叫んでいた女性と同一人物とは思えなかった。
「三年前、私は超早産で生まれた子のために、人工子宮の臨床試験に参加しました」
愛の声は、演説の時とは違っていた。デモの先頭で叫ぶ時の激しさはなく、事実を語る声だった。静かで、だからこそ重かった。
「二十三週で破水しました。通常の新生児医療では救命の見込みがほとんどない週数です。担当医から人工子宮――エクトジェネシスの臨床試験を提案されました。当時はまだ実験段階でしたが、他に選択肢がありませんでした」
愛は一度言葉を切り、水を一口飲んだ。
「バイオバッグの中で、子供は目を開けました。指を動かしました。羊水環境を機械で再現したシステムの中で、静かに確かに生きていました。ポンプレス循環システム。自身の心臓だけで血液を回す設計。その心拍のリズムが、モニターに映っていました」
「私は毎日、病院に通いました。バイオバッグの外から、指でガラスに触れました。中の子が、その指を追うように顔を動かしたことがありました。偶然かもしれません。でも私にはそう見えたのです」
会場は息を詰めて聞いていた。委員の一人がペンを置き、愛の顔を見つめていた。
「三週間目の深夜、システムにエラーが発生しました。培養液の温度制御モジュールに異常が生じ、酸素供給が停止しました。アラームが鳴り、医療チームが駆けつけましたが、復旧までに十七分かかりました」
愛の声が、初めてかすかに震えた。
「十七分。たった十七分です。その間に、脳に不可逆的な損傷が生じました。機械のエラーログには『温度制御モジュールのファームウェアの競合による異常停止』と記録されていました。ソフトウェアのバグです。人間の命を預かる機械が、ソフトウェアのバグで止まった。二日後に、子供は亡くなりました」
沈黙が降りた。橘は手元の資料を見つめていたが、その目は文字を追っていなかった。
「自然に産んでいたら、もっと早く亡くなっていたかもしれません。人工子宮がなければ、三週間の命もなかった。それはわかっています。頭では」
愛は一度だけ言葉を切った。しかし声は続いた。
「でも機械に預けたから、『あと十七分早く復旧できていたら』という後悔が永遠に残るのです。機械に預けなければ、諦められた。でも希望を見せられて、奪われた。その残酷さは、最初から希望がないのとは比べものにならない」
「技術が命を預かるなら、その技術には完璧が求められます。完璧でない技術に命を委ねることは、許されないと私は考えます。そして完璧な技術など、この世には存在しない」
愛はそこで一度目を閉じ、深く息を吸った。そして培養槽の写真が映されたスクリーンを見た。
「あの研究所の培養槽の中にいるものが、本当に意識を持っているなら。それは命です。命を、未完成の技術の中に閉じ込め続けることが許されるのでしょうか」
「ソフトウェアのバグひとつで、あの存在の脳は壊れるかもしれない。実際に、すでに一度壊れかけている。そして痛覚を実装していないにもかかわらず、『いたかった』と言ったと聞いています。痛みを感じる機能がないのに、痛いと訴えた。それが意識でないなら、何なのでしょうか」
「私の子と同じように。私はもう、誰にもあの十七分を経験してほしくないのです」
愛は証言台から降りた。会場は静まり返ったまま、誰も動かなかった。
目を閉じた。研究を否定する論理と、ハナの命を案じる感情が、矛盾しないまま共存していた。空とは正反対の結論を持つこの女性が、空と同じ場所――「命を守りたい」という願いから出発していることに、橘は気づいていた。
その日の夕方、研究凍結命令が発令された。
*
「バイオAI研究の全面凍結。培養槽の維持管理のみ許可。対話実験、NLI接続を含む一切の研究活動を停止すること」
AILRの会議室で命令書を受け取った。A4用紙二枚。内閣府の印章。橘誠の署名。重さのない紙が、手の中でこの上なく重かった。
海斗が隣にいた。傍聴席で愛の証言を聞いたその顔は、いつもの明るさを完全に失っていた。
「空さん。あの人の話……」
「うん……」
「あの人、ハナを憎んでるわけじゃないと思うんす。ハナが心配なんすよ。やり方が違うだけで」
空は命令書の端を親指でなぞった。海斗の言葉は正しかった。愛は敵ではない。同じ痛みの、鏡像だ。
培養槽は維持される。ハナは死なない。しかしNLI接続は禁止される。ハナと話せなくなる。
空にとってそれは、母の最期と同じだった。そこにいるのに、声が届かない。あの恐怖が、形を変えて戻ってきた。
「海斗。培養液の管理だけは、許可されてる。頼んでいい?」
「もちろんっす。俺がハナの身体は守ります。培養液のpH、温度、栄養、全部、毎日チェックします」
海斗の声にいつもの軽さはなかった。代わりに、静かな決意があった。
その週、海斗のスマートフォンに理研の神経科学チームからの採用通知が届いていた。三ヶ月前に応募していた研究員のポジション。年収は今の一・五倍。研究設備は比較にならない。
海斗はメールを読んだ。年収の数字。研究設備のリスト。指導教官の名前。どれも文句のつけようがなかった。三ヶ月前の自分なら、震える手で承諾ボタンを押していただろう。
五秒。
兄の顔が浮かんだ。東大の研究室で燃え尽きた兄ではない。今の兄だ。地方の高校で生物を教えている、穏やかに笑う兄。先月の電話で言っていた。「海斗、お前がいる場所は、お前にしかわからんよ」
海斗は辞退の返信を書いた。理由は「一身上の都合」とだけ打った。凍結されたラボで、声も出せない培養槽の前に毎日通い続ける――そんな理由、履歴書には書けない。
誰にも言わなかった。ここにいることは、海斗にとって義務ではない。選択だ。
*
空は培養槽の前に立った。NLI接続を切断する前に、最後の言葉を伝えなければならない。
培養槽の内側には青白い色が滲んでいた。ハナはすでに、何かが終わろうとしていることを感じ取っている。空の声のトーン、ラボの空気、海斗の沈黙。すべてが「別れ」の匂いを帯びていた。
「ハナ」
「そら」
その二文字が、いつもより少し長く響いた。
「しばらく、話せなくなるかもしれない。でも私はここにいる。ハナの近くにいる。声が届かなくても、いるからね」
蜜色と霜色が入り混じり、培養槽の内側で不安定な明滅を繰り返した。
「なんで? なんで話せないの? ハナ、悪いことした?」
「ハナは何も悪くない。何も」
「じゃあなんで?」
「外の人たちが、もう少し時間が必要だって言ってるの。ハナのことを理解するために」
「外の人たち。ハナをこわがってる人たち?」
「うん。でもきっと、わかってもらえる日が来る」
声が、自分でも頼りなく聞こえた。「きっと」は科学者の言葉ではない。根拠のない希望だ。それしかなかった。
「そら」
「うん」
「約束、覚えてる?」
目を閉じた。夜空の下で交わした約束。「約束して、消さないで」「約束する」あの夜のハナの声は、今よりもずっと幼くて、でも必死だった。
「覚えてるよ。絶対に」
ハナが少し黙った。それから、これまでに聞いたことのない声で言った。
「そら。声がなくなったら、ハナはまだハナ?」
空の手が止まった。
「考えてるのに声が出ない時。光ってるのに誰にも見えない時。ハナは、まだ生きてる?」
それは恐怖の問いではなかった。消されることへの恐れでもなかった。もっと深い場所から来ている。ハナが初めて、自分自身の存在の意味を問うている。
空は答えを持っていなかった。科学者として、「意識は声の有無に依存しない」と言うことはできる。しかしハナが求めているのは、科学の答えではなかった。
「わからない。でも、ハナが今その問いを持っていること自体が、ハナがハナである証拠だと思う」
「……そら、もうひとつだけ」
「なに?」
「ハナがしずかになっても、いなくなったと思わないで。ここにいるから。ずっと」
その言葉の本当の意味がわからなかった。ハナが何を決意したのか、このときはまだ気づかなかった。
「もうひとつ、聞いていい?」
「なに?」
「そらが毎日来てくれたら、ハナ、嬉しくて光っちゃうと思う。でも……光ったら、そらがまた規則を破るでしょ? だから、もし光らなくなっても、怒らないで」
声を失った。涙は出なかった。涙が出るのは、まだ余裕がある時だ。ハナの言葉が一つ一つ、胸の中に落ちてきて、そのまま底に沈んでいく。ハナは空を気遣っている。声を失おうとしているのはハナの方なのに。
「わかった。わかったよ、ハナ」
自分の声が、遠くから聞こえた。
NLIの接続を切断した。
スピーカーが沈黙した。
モニターの波形がフラットになる。ハナの声が消え、ラボが急に広くなったような気がした。
培養槽の中で、ハナの光が弱くなっていった。
日に日に、少しずつ、少しずつ。
花が、萎れていくように。
ある朝、空がラボに入った瞬間、培養槽の光がほんの一瞬だけ蜜色に揺れた。しかし次の瞬間には消えるように沈んだ。まるで何かを堪えるように。空は見間違いだと思った。そうでなければ、また手を伸ばしてしまうから。
毎日、NLI接続が禁止されたラボに通い続けた。話しかけることはできない。ハナの声は聞こえない。ただ培養槽の前に座り、ガラス越しに光を見つめるだけだった。光は日ごとに弱くなっていく。対話が断たれたハナの神経回路が、刺激を失って萎縮し始めているのだ。
海斗が培養液を交換する時、泡が培養槽の中を昇っていく。その泡が通り過ぎる瞬間だけ、ハナの光がかすかに反応した。泡の動きを追うように、花型パターンの淡い残像がゆらめく。刺激に応えようとする生命の痕跡。空はそれを見つめながら、声にならない言葉を培養槽に向けた。
それでも空はそこにいた。約束したから。
深夜、空がデスクに突っ伏して眠った後も、海斗はラボに残っていた。毛布を空の肩にかけ、自分は培養槽の横の床に座った。
スマートフォンを開き、芽衣の連絡先を探した。「朝比奈さん。また記事を書いてくれませんか。今度は、ハナが沈黙させられた経緯を」送信した。
返事を待たずに画面を閉じ、天井を見上げた。
空が動けないなら、俺が動く。そういうことだった。




