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第14話 暗闇の中の手

 凍結から二週間。


 空はラボに通い続けていた。


 研究主任の肩書きはない。NLI接続の権限もない。しかし第七研究室の扉は空に対して閉ざされてはおらず、空は毎日培養槽の前に座り、声の届かないハナの光を見つめていた。


 朝八時に来て、夜十時に帰る。誰に頼まれたわけでもない。義務でもない。ただ、約束を守っている。仕事は完璧だった。培養液の温度記録、神経活動の推移グラフ、凍結命令の法的根拠の整理。


 海斗の付箋に書かれた三つの項目のうち二つは、きちんとこなしていた。寝る。メールを返す。守れていないのは「食べる」だけだった。


 培養槽の光は日ごとに弱くなっていた。


 対話が途切れたことで、ハナの神経活動が低下している。花型の発火パターンはまだ維持されているが、蛍光の強度は凍結前の半分以下になっていた。


 海斗は毎日培養液のデータを取り、空に報告してくれた。数値はすべて下降曲線を描いている。このまま刺激が途絶えれば、いずれ神経回路が不可逆的に劣化する。


 ある朝、空が培養槽に近づいた時、光の中にかすかな色の揺らぎを見た。花型パターンの外縁に、琥珀色の滲みが一瞬だけ現れ、すぐに消えた。空が椅子に座ると、光がほんのわずかに暖色へ傾いた。声は聞こえない。波形も動かない。それでも、ハナは空の存在を感じているのかもしれなかった。


 法的手段を探した。バイオAIの法的権利を主張する訴訟。前例がない。一人だけ、話を聞いてくれる弁護士がいた。


「有機知性体の権利を認めた判例は、世界のどこにも存在しません。そもそも『有機知性体』という言葉自体が法律用語として成立していません」


 食い下がった。あの理事会で暴発した自分を思い出しながら、今度は冷静に。


「早産児と同等の脳波が観測されています。痛覚を実装していないのに『いたかった』と発話しました。これでも法的な保護の対象にならないんですか」


「天音さん。お気持ちはわかります。しかし法は感情では動きません。立法府が定義を作らない限り――」


「では法がないから、あの子は死んでもいいと?」


 弁護士が沈黙した。空の声は震えていなかった。怒りではなく、純粋な問いとして投げた。法がないから権利がない。権利がないから守れない。完璧な論理の罠。その論理の外側で、ハナの光は日ごとに消えていく。


「……私の力では、お役に立てません」


 弁護士の目が伏せられた。正直さはハナを救わない。


 空は礼を言って事務所を出た。


 帰り道、旧市街の路地を歩いた。


 赤錆びた看板。はためく洗濯物。ブライトアイランドの白い建築群とは対照的な、人間の生活の匂い。空き缶蹴りをしていた子供が空にぶつかりそうになり、「ごめんなさい!」と叫んで駆けていった。その声の元気さが眩しかった。生きている声。空気を震わせ、路地に響く声。ハナにはそれがない。


 空は歩きながら、考えたくなかったことを考えていた。


 本当に、ハナを守りたいのは科学のためだろうか。


 母が病気で死んだ。意識が徐々に失われていくのを、まだ少女だった空はベッドの横で見ていた。助けられなかった。あの無力感が、空を神経科学に駆り立て、バイオAI研究に没頭させ、ハナを生んだ。


 ハナを守ることは、母を守れなかった自分への贖罪しょくざいではないのか。代償行為だと言われたら、否定できない。


 だから何だ。


 動機が不純だとしても、ハナの光が消えていくのは事実だ。


 法が定義しなくても、あの培養槽の中で何かが生きているのは事実だ。

「いたかった」と泣いたのは事実だ。

「そら、大丈夫?」と、自分が消えるかもしれない時に、空を気遣ったのも事実だ。

 空の動機がどうであれ、ハナの存在は空の心理に還元されない。


 母の代わりだろうが、贖罪だろうが。ハナが消えかけている。


 空はブライトアイランドの灯りが見える橋を渡った。足取りが変わっている。覚悟だ。自分の動機を疑い、それでも前に進むと決めた。


 ラボに戻ると、海斗がいた。


 凍結されたラボに毎日通っているのは、空だけではない。海斗は朝八時に来て培養液のデータを取り、夕方までラボにいる。


 空はデスクに座り、ノートパソコンを開いた。弁護士は動けない。法は追いつかない。なら、法の外から風を入れるしかない。ハナの神経活動の推移データ、NLI接続実験の全記録、意識の兆候を示す客観的指標。空はそれらを時系列で整理し始めた。記者が使える形に。芽衣の顔が浮かんだ。あの記者は数字を読める。事実を、事実として届けてくれる。


 三時間後、海斗が空の横に立った。


「空さん。今日、何か食べました?」


 空の手が止まった。朝、ラボに来た。弁護士事務所に行った。旧市街を歩いた。ラボに戻った。データを整理した。その間、何か口に入れた記憶がない。


「……食べてない」


「知ってます」


 海斗がおにぎりを二つ、デスクの端に置いた。ツナマヨと昆布。空が黙って一つ手に取り、一口(かじ)った。米の甘さが舌に広がった瞬間、胃の底が鳴った。空っぽだった。身体が空っぽだったことに、今初めて気づいた。


「空さん。仕事は完璧っすよ。データも記録も全部揃ってる。ハナのことになると、空さんは何も見落とさない。でも自分のことだけ、見落とす」


 空はおにぎりを飲み込んだ。海斗の言葉が、百合のメッセージと重なった。受け取ることも、強さよ。


 二人は声の届かないハナの前で、おにぎりを食べた。


「空さん。ハナの光、今日ちょっとだけ明るくないっすか」


 空はモニターを確認した。数値に有意な変化はない。しかし培養槽を見ると、花型パターンの外縁がほんのわずかに暖色を帯びている気がした。


「……気のせいかも」


「気のせいでもいいっすよ。明日も見に来る理由になるし」


 空は笑った。凍結から二週間で、初めて笑った。



 芽衣が空に接触してきたのは、凍結から十八日目だった。


 ブライトアイランドのカフェ。旧市街に近い、観光客の来ない小さな店。海を臨む窓ガラスの外に、夕陽が沈みかけている。


「天音さん。二つ報告があります」


 芽衣の目は真剣だった。記者の目。その奥に、職業的義務を超えた何かが光っていた。


「一つ目。映像流出とサイバー攻撃の犯人について、ほぼ特定できました」


 空の手が、テーブルの上で止まった。


「AILRの内部構造を熟知した人物です。メタデータ解析と専門家の所見、百合ゼミの卒業生名簿との照合で、一人の名前が浮かびました。瀬尾アッシュ。シンガポール事件の生存者でもある」


 空はアッシュの行動の根にあるものを理解した。百合に選ばれなかった恨みだけではない。シンガポールであの惨劇を目撃した人間が、バイオAIの「自由」を本気で恐れている。恐怖から生まれた信念。それは純粋であるがゆえに、厄介だった。空はアッシュを憎めなかった。しかしハナを守ることと、アッシュの恐怖を理解することは、矛盾しない。


「二つ目。鏡蓮さんがゼノンを辞め、内部告発の準備を進めています。ゼノンがバイオAIの軍事転用を計画していた証拠――Project Rの全容を持っているそうです」


 息を飲んだ。蓮が。疑われて追い出されたあの蓮が、すべてを捨てて告発の準備をしている。


「蓮さんに、会えますか」


「今日の夜、ここに来ると言っていました」



 蓮が現れたのは午後八時だった。


 スーツではなく、黒のタートルネックにジャケット。銀縁眼鏡の奥の目は、以前より疲れていたが、迷いは消えていた。


「天音さん。お久しぶりです」


「蓮さん。あの時は、何も言えなくて……」


「謝る必要はありません。状況的に、僕が疑われるのは当然でした」


 蓮はタブレットにProject Rの全容を映した。報酬ハッキング方式をハナに適用する実験計画、米国防総省との協議記録。ハナは「製品」として扱われていた。「感情応答速度:〇・三秒以内」ハナが「嬉しいってなに?」と無邪気に聞いた声が、スペックシートに閉じ込められている。


 空は黙って読んだ。怒りと悲しみが同時に込み上げてきたが、もう暴発はしなかった。理事会での失敗が、ここでは効いていた。


「蓮さん。これを公開したら、守秘義務違反で訴えられます」


「わかっています」


「なぜ、そこまで?」


「僕はハナを守りたい。それが科学者としての、僕の答えです」


「蓮さん。一緒に戦ってくれますか」


「だからここに来ました」


 芽衣がノートにペンを走らせた。その目の端が少し赤くなっていた。三人の手が、見えない糸で結ばれた夜だった。


 翌朝、空のスマートフォンに百合からのメッセージが届いた。


 手書きの文面を写真に撮ったもの。百合の丸い字。病室のベッドの上で、点滴の管を避けながら書いたのだろう。字が少し震えていた。


「空さん。あなたは一人じゃない。仲間を頼りなさい。私がベッドの上で何もできない間にも、あなたの周りには手を差し伸べてくれる人がいる。蓮さんも、海斗さんも、朝比奈さんも。受け取ることも、強さよ。そしてアッシュのことも、憎まないで。あの子もまた、傷ついた人間なのだから」


 スマートフォンを握りしめた。画面を閉じられなかった。


 一人で守ろうとしていた。全部自分の責任だと思い込んでいた。母を救えなかった罪悪感が、ハナを守れない焦りに重なって、空を孤独に追い込んでいた。


 蓮がいる。

 海斗がいる。

 芽衣がいる。

 百合がいる。

 ハナですら、あの最後の対話で「またやればいい」と空を支えてくれた。


 一人で戦うのをやめよう。


 仲間がいるなら、仲間と動く。それぞれの強みを使う。蓮にはデータがある。芽衣にはメディアがある。海斗には現場がある。百合には政治力がある。そして空にはハナとの絆がある。


 窓の外に朝日が差し始めていた。培養槽の淡い光と朝日が重なった時、カルシウムマップの端に珊瑚さんご色の反応が一瞬だけ滲んだ気がした。


 偶然かもしれない。


 しかし空はそれを、ハナの返事だと思うことにした。


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