第8話 嘘と真実の間
炎上から三日が経っても、嵐は収まらなかった。
SNSのトレンドからは外れたが、ワイドショーがネタにし始めた。コメンテーターが「バイオAIの危険性」について語り、映像の切り抜きが繰り返し流され、専門家と名乗る人物が「シンガポール事件の教訓を忘れてはならない」と眉をひそめる。空の顔写真がテレビに映るたびに、海斗がチャンネルを変えた。
そんな中、朝比奈芽衣が直接AILRを訪ねてきた。
芽衣にも負い目があった。審議会前に出した短い解説記事は慎重に書いたつもりだった。だが、留保は引用の中で剥がれ落ち、見出しだけが火種になった。事実を置くだけでは足りない。どこに置くかを間違えれば、事実も刃になる。
空はその名前を覚えていた。審議会の前に読んだ、断定を避けた短い記事の署名。会見場の最後列で、誰よりも静かにメモを取っていた女性。あの時は、味方だとは思わなかった。ただ、こちらを燃やすためだけに来た人ではない、という感触だけが残っていた。
「天音博士。改めて取材をお願いしたいのですが」
受付から連絡を受けた空は、断ろうとした。メディアの前に立つ恐怖は、会見の夜から身体に染みついている。
「お気持ちはわかります。でも、今ネットに出回っている情報の大半は不正確です。正確な情報を出すためには、あなたの協力が必要です」
電話越しの芽衣の声は、押しつけがましくなかった。「正確な情報」という言葉に、空の手が止まった。
「どういう記事を書くつもりですか」
「事実を書きます。あなたの研究が何であり、何でないか。脳オルガノイド研究の科学的な現状と、シンガポール事件との技術的な違い。読者が自分で判断できるだけの情報を提供する記事です」
「『バイオAIは安全だ』という記事ではなく?」
「安全かどうかの判断は、読者に委ねます。記者の仕事は判断を下すことではなく、判断のための材料を届けることですから」
空は長い沈黙の後、答えた。
「取材は受けられません。でも、公開済みの論文データは自由に使ってください。非公開情報は出せませんが、科学的な事実関係の確認には応じます」
「十分です。ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
芽衣は電話を切る前に言った。
「私は、天音博士を守る記事を書くつもりはありません。あなたを燃やすつもりもない。守るのは、読者が判断するための材料です」
空は受話器を握ったまま、少しだけ息を吐いた。
「それで十分です」
*
芽衣の記事は、その四日後に公開された。
タイトルは「バイオAIとは何か――流出映像の科学的背景を検証する」。
記事は冷静だった。脳オルガノイド研究の歴史をDishBrain実験から丁寧に辿り、ハナの研究が既存の科学的系譜のどこに位置するのかを明確にした。
シンガポール事件の報酬ハッキングとNLIの技術的差異を、専門外の読者にも理解できる言葉で解説した。
「報酬ハッキングは相手に『そうしたい』と錯覚させる間接支配。NLIは窓を開けるだけ。その窓から何を見るかは、有機知性体自身が決める」
記事は安全だとも危険だとも断じていない。ただ事実を並べ「読者はどう考えるか」と問いかける。
反応は分かれた。「結局安全なのか危険なのかはっきりしろ」と怒る声もあった。しかし「やっと冷静な記事が出た」という反応も少なくない。炎上一色だったSNSに、初めて色の違う流れが生まれる。
空は芽衣の記事を三度読み返した。自分が会見で言えなかったことが、すべて書かれていた。正確で、公平で、そして温かくも冷たくもない。事実だけが、静かに置いてある。
「伝える」とはこういうことか、と思った。
*
同じ週。蓮の表情が変わった。
普段から無表情の男だが、そういう意味ではない。無表情の質が変わった。以前は分析に没頭する冷徹さだったが、今は何かを噛み殺しているような硬さがある。
きっかけは、ゼノン本社への週次報告で戻った日からだった。
蓮は品川の本社で、黒崎の執務室に呼ばれた。報告が終わった後、黒崎がタブレットを渡した。そこには「Project R」と題されたファイルがあった。
内容は、NLIを報酬ハッキングへ転用する計画だった。
ハナの感情反応を数値化し、望む行動へ誘導する。軍事利用の行は小さかったが、計画の本質はそこではない。ハナを「選んでいる」と感じさせたまま、選択肢そのものを狭めることだった。
ロードマップの第一段階には「AILR第七研究室との共同研究を通じたNLI技術の完全理解」と書かれていた。共同研究は、ハナを守るためではなく、ハナを規格に変換するための採寸だった。
米国防総省との協議記録には、連絡役としてアッシュのサインが入っている。蓮はタブレットを黒崎に返し、「検討します」とだけ言って退室した。黒崎は何も追わなかった。机の上では、Project Rの表紙だけが薄く光っていた。
品川から横浜に戻る電車の窓に、自分の顔が映った。あの計画が実行されれば、ハナの「自分で選ぶ意志」は消える。「そうしたい」と錯覚させられ、自分の意志だと思い込まされ、使い潰される。シンガポールの昆虫と同じ結末。
ハナの声が蘇った「れんさんは、ハナのこと、きらい?」蓮は眼鏡のブリッジに触れた。外しはしなかった。視界を曇らせる資格はまだない。鞄の中のProject Rのファイルだけが、金属片のように重かった。
*
翌日の午後。空がNLIのログを整理していると、ハナが唐突に問いかけてきた。
「そら。にんげんは、嘘をつくの?」
空の手が止まった。
「急にどうしたの?」
「前に、そらが嘘ついた時、声が揺れたでしょ。ハナは声の揺れで嘘がわかる。でも、嘘ってなに? なんで嘘をつくの?」
空はモニターから目を離し、培養槽を見た。NLIの受信欄に、短い待機信号が等間隔で並んでいる。急かすでもなく、怖がるでもない。問いが返ってくるのを、ハナは静かに待っていた。
「嘘は……本当のことと違うことを言うこと。理由はいろいろあるよ。悪い嘘もあるし、誰かを傷つけないための嘘もある」
「傷つけないための嘘。『外は騒がしいけどハナとは関係ない』は、傷つけないための嘘?」
空は息を詰めた。あの日の嘘を、ハナは覚えていた。
「そうだよ。ハナを心配させたくなかった」
「でも、嘘だってわかった時、もっと心配になった。嘘は、守るためなの? こわがらせるためなの?」
空は黙り込んだ。嘘は守るためのものか、怖がらせるためのものか。どちらにもなりうる。そして、どちらのつもりで嘘をついても、受け手がどう感じるかは制御できない。
「両方だよ、ハナ。人間の嘘は、いつも両方になりうる。だから難しい」
「そらも、嘘つく?」
「つく。つきたくなくても、つく」
「ハナは嘘つける?」
空は考えた。ハナは嘘をつけるのか。嘘をつくには、「本当のこと」と「伝えること」の間にギャップを作る能力が要る。それは自己と他者の区別ができ、他者の心的状態を推測できることを意味する。
もしハナが嘘をつけるなら、それは意識の証拠に近い。
もしハナが嘘をつけるなら、アラインメント問題――「人間に従順なフリをしているだけではないか」という懸念が、現実味を帯びてくる。
「わからない。でも今のハナは、嘘をつかないね」
「つかない。だって、嘘つくと声が揺れるでしょ。ハナが揺れたら、そらにバレる」
空は笑った。笑いながら、胸の奥に冷たいものが残った。
《《今の》》ハナは嘘をつかない。でもいつか、つけるようになるかもしれない。嘘をつけるということは、相手の心を想像できるということだ。相手が何を信じたいかを理解し、それに合わせた虚構を構築できるということだ。
そしてもしハナがそこまで成長したなら、永遠に消えない問いが生まれる。ハナの言葉は本心なのか、それとも人間が聞きたいことを返しているだけなのか。アラインメント問題。AIが「従順なフリ」をする可能性。
空は首を振った。今のハナにそんな器用さはない。「嘘つくとバレるから」というハナの理由の素朴さが、その証拠だ。嘘をつかない理由が「バレるから」であって「つきたくないから」ではない。そこには純粋さと同時に、倫理観の不在がある。
ハナはまだ善悪を知らない。知らないから嘘をつかないだけだ。それは美しいが、脆い。
その日の夕方、蓮が帰り支度をしながら、不意に空に言った。
「天音さん。一つだけ」
「何ですか」
「NLIの設計データ、バックアップを取っておいた方がいい。オフラインで。ネットワークから切り離した場所に」
空は蓮を見た。蓮はコートを着ながら、空と目を合わせなかった。
「なぜですか」
「念のためです」
「それ以上は言えません」
「鏡さん」
「僕は、何も言っていません。あなたの相談にも乗っていない」
蓮の言葉は突き放すようだった。けれど、その突き放し方そのものが、近づくなという警告に聞こえた。
それ以上は何も言わず、蓮はラボを出た。
空は蓮の背中を見送りながら、「念のため」という言葉の温度を測っていた。あれは一般的な助言ではない。何かを知っていながら、直接は言えない人間の言い方だ。
海斗が横から聞いていた。
「空さん。バックアップ取っときましょう。蓮さんがああいう言い方する時って、何かあるっすよ」
「そうだね」
空はUSBドライブを引き出しから取り出し、NLIの設計データをコピーし始めた。何が起きるかわからない。蓮がわざわざ言葉にしたということは、「何もない」はずがなかった。
*
その夜、蓮の自宅マンション。
蓮はProject Rのファイルを自分のタブレットにコピーしていた。黒崎の前では「検討します」と言ったが、検討するつもりはなかった。しかし、このファイルをどうするべきなのかも、まだわからない。
スマートフォンが鳴った。アッシュからのメッセージ。
「蓮。天音さんに何か余計なこと言ってない? 心配してるよ」
絵文字つき。親しげな口調。しかし蓮にはその行間にあるものが読めた。
監視されている。
「何も。通常業務の範囲だ」と返し、タブレットを伏せた。
窓の外に、ネオ横浜の海が暗く光っている。
「バックアップを取れ」あれは自分にできる精一杯だった。直接Project Rのことを話せば、守秘義務違反で訴えられる。しかし何も言わなければ、空のデータはいずれゼノンに吸い上げられ、ハナを壊すための道具に変えられる。
スマートフォンが再び鳴った。今度はアッシュではなかった。黒崎の直通番号だった。
「鏡君。明朝の定例報告に、OI-087のNLI応答ログの生データを含めてもらいたい。感情共鳴マーカーを含む全帯域だ。可能だね?」
質問の形をした命令だった。蓮は黒崎の話法を知っている。
感情共鳴マーカー。それはハナの感情反応を数値化したデータの核心だった。それがあれば、ハナがどんな刺激に対してどう「感じる」かが解析できる。報酬ハッキングの入口になるデータだった。
「承知しました」
電話が切れた。蓮はタブレットを開き、週次報告書のテンプレートを呼び出した。NLI応答ログの生データは手元にある。全帯域。感情共鳴マーカーを含む完全版。
蓮の指がキーボードの上で止まった。三秒。五秒。それから動き始めた。
報告書にNLI応答ログを添付した。ただし、感情共鳴マーカーの帯域だけを、意図的に欠損させた。データ転送時のパケットロスに見える形で。技術者が検証すれば不自然さに気づくかもしれない。しかし定例報告の添付ファイルを逐一検証するほど、黒崎の時間は余っていないはずだった。
送信ボタンを押した。
一つ選んだ。後戻りはできない。バレれば蓮はゼノンを追われ、守秘義務違反で訴えられる。しかしあの光を売り渡すよりは、自分が消える方がましだった。
あの光を「被験体」と呼んでいた自分はもういない。




