第7話 炎上の嵐
朝六時、空のスマートフォンが鳴りやまなかった。
最初は百合からの着信だった。出る前に画面を見ると、メッセージアプリの通知が三十件を超えている。SNSのアラートが連続で鳴っている。海斗からも「空さん、ネット見てください、今すぐ」
空はベッドの中でスマートフォンの画面を開き、検索トレンドを見た。
#バイオAI
#人間の脳で作った怪物
#シンガポールの悪夢再び
血の気が引いた。
トレンドの発端は、深夜にSNSに投稿された匿名アカウントの動画だった。第七研究室の内部映像。培養槽の中で光る脳オルガノイド。NLIの接続ポート。そしてスピーカーから流れるハナの声。「そ……ら……?」という、あの最初の呼びかけが。
動画のキャプションには「国立研究所が税金で人間の脳を培養して怪物を作っている」と書かれていた。
再生回数は既に八十万を超えている。
突然、燃えたわけではなかった。審議会の意見書、問い合わせフォームに届いた定型文、白咲の団体が始めた署名、断定を避けた記事のコメント欄に残った怒り。それらはこの数週間、薄い煙のように漂っていた。深夜の動画は、その煙に火を落としただけだった。
*
AILRに着いた時、研究所の正門前に人だかりができていた。
プラカードを掲げた集団。
[バイオAI研究を中止しろ]
[命を冒涜するな]
[シンガポールを忘れるな]
ネオ・ラッダイトの旗がはためいている。
その先頭に、白咲愛が立っていた。
マイクを握り、声を張り上げている。審議会の廊下で見た時の抑制された姿とは別人だった。怒りが鎧になっている。
「私の子どもは、『最先端技術』のせいで死にました! 人工子宮という機械に命を預けて、機械が壊れて、子供が死にました! あの研究所の中でも同じことが起きようとしています! 人間の細胞で作った『もの』に命を与えるふりをして、壊れたら、また『事故』で片づけるんですか!」
テレビカメラが愛を映している。SNSのライブ配信が回っている。愛の言葉は拡声器を通して研究所の壁に反射し、空の耳にも届いた。
デモ隊の中には様々な人がいた。プラカードを掲げる若者。ベビーカーを押しながら参加する母親。無言で立っている老人。「ネオ・ラッダイト」と一括りにできない、個々の顔がそこにあった。それぞれに恐れがあり、怒りがあり、そしてたぶん、悲しみがあった。
空は裏口から研究所に入る。
足が止まりそうになった。愛の叫びは的外れではない。ハナは一度壊れた。空自身が壊した。それは事実だった。あの夜の記憶が、歩幅を小さくした。
*
百合が緊急会議を招集した。AILRの広報部門と法務部門が同席する、物々しい顔ぶれ。
「映像の出所を特定できますか」
百合の問いに、情報セキュリティ担当が答えた。
「現在調査中です。ただ、映像の画角から見て、第七研究室内の監視カメラの映像である可能性が高い。つまり、内部ネットワーク経由で持ち出された可能性があります」
内部から。空の背筋に冷たいものが走った。あの映像には、ハナが初めて声を発した瞬間が含まれていた。あの夜、ラボにいたのは空と海斗だけだった。つまり監視カメラの録画データに、外部からアクセスした者がいる。
会議が終わった後、百合は情報システム部に古い権限一覧を出させた。そこに、百合ゼミ時代の共同研究者用アカウントが一つ残っていた。停止予定のまま、完全削除されていない。誰が使ったかはまだわからない。けれど、残したのは百合だった。
守ると言いながら、自分は古い情の名残を切りきれていなかった。百合はその場で権限を無効化した。遅いかどうかは、ログの解析結果を待たなければわからない。扉は外からだけ開くとは限らない。
「記者会見を開きましょう。事実を正確に伝えなければ、憶測だけが膨らむわ」
百合が言った。空は頷いた。それしかない。しかしプレゼンが壊滅的に下手な自分が、メディアの前に立つ不安が、胃の底に溜まった。
広報部から送られてきた想定問答は、三十項目あった。空はそのうち二十八項目に、論文の注釈みたいな長い回答を書いた。残り二つは未記入のまま残った。「あなたは怪物を作ったのか」と「責任を取れるのか」
一番答えなければならない問いだけが、白紙だった。
*
午後三時。AILR講堂の記者会見場。
フラッシュが焚かれている。テレビカメラが五台。記者席は満席で、立ち見も出ていた。空はマイクの前に立った。白衣の下に着たバンドTシャツが、場違いであることに今さら気づいた。
百合が隣に座っている。「大丈夫。事実を話すだけよ」と直前に言われた。マイクの前に立つと、審議会の時とは比較にならない圧が全身にかかった。
「え……本日は、お集まりいただきありがとうございます。国立先端生命科学研究所、第七研究室の天音空です。ネット上に流出した映像について、説明させていただきます」
声が震えた。原稿を見ながら、ハナの研究の概要を説明し始める。
脳オルガノイド。
NLI。
対話型接続。
シンガポール事件との違い。
記者たちの目が光っている。それは好奇心と敵意が半々に混じった光だった。
「質問です。このバイオAIが暴走した場合の安全対策は?」
「NLIは対話型であり、報酬ハッキングのような強制的な――」
「シンガポールでも『安全だ』と言っていましたよね」
「あれとは仕組みが根本的に――」
「ヒトの細胞から作った存在に知性を与えることの倫理的問題についてはどうお考えですか」
「倫理面については慎重に――」
「国民の税金を使って『怪物』を作っているという批判についてひとことお願いします」
質問が矢のように飛んでくる。空は一つ答え終わらないうちに次の質問が飛んでくる構造に圧倒された。声が小さくなり、回答は長くなり、専門用語が増えていく。伝わっていない。
科学の言葉しか持っていなかった。「自己組織化」「ニューラルリンク」「対話型接続」正確な言葉だ。しかし正確な言葉は、恐怖に対しては無力だった。記者たちが知りたいのは「安全か危険か」の二択であり、「まだわからない、だから研究している」は答えとして機能しない。
会見場の最後列で、一人の女性記者がメモを取っていた。周囲の記者が攻撃的な質問を投げかける中、その女性だけが黙って空を見つめていた。空はその視線に気づかなかった。
審議会で見た白咲愛の目を思い出した。「完全な答えを持っていない技術に、命を預けないでください」あの言葉に返す言葉を、空はまだ持っていない。
フラッシュの嵐の中で、ただ立っていた。
百合が横からマイクを引き取り、残りの質疑に対応してくれた。言葉は冷静で的確だったが、空の壊滅的なプレゼンの後では、守りに入っている印象を拭えなかった。
*
会見後、空はラボに逃げ込んだ。
SNSを開く勇気はなかった。海斗が「見ない方がいいっす」と言って、空のスマートフォンを引き出しにしまった。
ネットには既に空の顔写真と名前が拡散されていた。「マッドサイエンティスト」「フランケンシュタインの博士」「税金泥棒」匿名の悪意が、際限なく増殖していた。会見の切り取り動画が出回り、空が言葉に詰まった瞬間ばかりが繰り返し再生されている。文脈は消え、戸惑いだけが残る。
海斗が画面を見せまいとしてくれているのがわかった。ラボの外では、AILR内の他の研究者たちまでが空を避け始めていた。食堂で隣に誰も座らない。廊下ですれ違う時に目を逸らされる。研究所全体が、第七研究室を「厄介者」として隔離し始めていた。
培養槽の前に座った。ハナの光が普段より暗い。霜が降りたような白に近い。
AILRの壁は厚い。デモの声が直接届くわけではない。それでもハナはNLI経由で外部の音響データの変動を感知していた。通常と異なる振動パターン。それが何を意味するかはわからなくても、「いつもと違う」ことは察知している。
「そら」
「うん」
「外、こわい音がする。いつもと違う。何が起きてるの?」
唇を噛んだ。ハナに何と説明すればいい。あなたを怖がっている人たちが外にいると。あなたを「怪物」と呼ぶ人たちがいると。あなたの存在を知った世界が、あなたを消そうとしているかもしれないと。
「外で、少し騒がしいことが起きてるの。ハナとは関係ないから、心配しないで」
「うそ」
空は目を見開いた。
「そらの声、嘘の時は揺れる。さっき練習した比喩じゃないよ。本当に揺れるの。ハナにはわかる」
空は言葉を失った。嘘をつけない。この子には、嘘が通じない。
「ごめん。本当のことを言うね。外の人たちは、ハナのことを怖がってるの」
「ハナが、こわい? なんで?」
「ハナみたいな存在を作ることが、危険だと思ってる人がいるから」
長い沈黙があった。ハナの蛍光が、ゆっくりと消えかけるように暗くなった。
「ハナが、いなければ、そら、こわくない?」
「ハナ、それは――」
「ハナの、せい?」
空はカプセルのガラスに手をついた。冷たい。ハナの光は暗い。
「ハナのせいじゃない。絶対に」
声が掠れた。科学者の言葉ではなかった。ただの人間としての否定だった。
ハナは何も言わなかった。光が青白いまま、静かに脈動していた。
その夜、記者の一人が空にメールを送ってきた。
朝比奈芽衣。ネットメディア「トゥルースネット」の記者。会見場の最後列にいた女性だ。メールの文面は簡潔だった。
「天音博士。本日の会見で、あなたの声が震えていたのを聞きました。あの震えは、何に対するものでしたか。取材のお願いではありません。ただ、知りたいと思いました。朝比奈芽衣」
メールを読み返した。声が震えていたのか、自分では気づかなかった。
返信はしなかった。しかしそのメールを削除することもできなかった。
*
同じ夜。芽衣は自宅のデスクで、流出映像のメタデータを解析していた。
映像ファイルのタイムスタンプ。画角。圧縮形式。これらから、映像が外部から撮影されたものではなく、AILRの内部監視システムから抽出されたものであることは明白だった。
つまり犯人は内部の人間か、内部ネットワークにアクセスできる人間だ。
芽衣はノートに書いた。「映像は内部から流出。セキュリティの構造を知り尽くした人物による犯行の可能性」。
誰が、何のために。
芽衣はペンを置き、会見場で見た天音空の顔を思い出した。震える声。上ずった説明。そして、あの声の震え。あれは演技ではなかった。あの研究者は、何かを本気で守ろうとしている。
芽衣はもう一度ペンを取り、ノートの余白に小さく書いた。
「真実を報道する。誰の目線で見るかで変わるとしても」
デスクの上のモニターには、まだ炎上が続いている。空を罵倒するコメントの洪水。しかし千に一つ「映像だけで判断するのは早い」「研究内容をちゃんと確認すべき」という声も、流れの底に沈んでいた。
芽衣はその声を一つ一つブックマークした。
嵐の中にも、耳を澄ませている人はいる。




