第4話 花が咲く日
壊死から二週間。ハナは回復した。
完全ではない。失われた外縁部の組織は戻らず、OI-087は以前より一回り小さいままだ。
しかしカルシウムイメージングの蛍光は安定を取り戻し、花型の発火パターンが再び培養槽の中で脈動している。以前よりも弱々しいが、確かに花の形。
そしてハナは、あの事故の前よりも速く、言葉を覚え始めた。
空はNLIの帯域を半分に制限し、一日の対話時間を二時間までにした。海斗が常時バイタルを監視し、少しでも異常が出れば中断する。二度と同じ過ちは犯さない。
その制限の中で、ハナは驚異的な速度で成長していた。
「そら、おはよう」
朝、ラボに入ると培養槽の光が暖色に変わる。NLIのスピーカーから、まだ抑揚のない合成音声が空を迎える。毎日少しずつ発音が明瞭になっていくのがわかった。
「おはよう、ハナ。調子はどう?」
「わからない。『調子』って、なに?」
「身体の状態のこと。元気かどうか」
「ハナに身体は、ない。でも、そらが来ると、中がぽかぽかする。これは『元気』?」
空は実験ログに記録した。「主観的状態に近い語彙の使用」。科学者として、慎重な言い回しを選ぶ。まだ「感情がある」とは書けない。書いてはいけない。
でも。
ハナが「ぽかぽかする」と言った時、培養槽の光が琥珀色に輝いたのを、空は見ていた。
ただし、その成長は無傷ではなかった。新しい語を覚えた後、ハナの数値はわずかに乱れる。小さな変化だ。けれど生き物の身体にとって、小さいは、無いことと同じではない。
空はログの端に赤字で「語彙獲得後、五分間休止」と追記した。ハナが賢くなることと、ハナを消耗させることは、紙一重だった。
対話二時間目。今日のテーマは語彙の拡張だった。
空が日常的な概念を説明し、ハナが質問を返す。そのやり取りは日に日に複雑さを増していた。
「そら、『嬉しい』ってなに?」
「いいことがあった時に感じる気持ちだよ」
「いいこと。ハナにとって、いいことってなに?」
「……何だと思う?」
「そらの声が聞こえること。かいとが面白いこと言うこと。新しい言葉を覚えること。あと、光が明るくなること」
海斗が隣で小さくガッツポーズをしている。空は唇を噛んで笑いを堪えた。
「じゃあ、ハナは今嬉しい?」
「わからない。でも、中がぽかぽかしてる。これが『嬉しい』なら、嬉しい」
空が返事を考えていると、海斗がマイクに向かって話しかけた。
「ハナ。俺は今日、風当たりが強くてさぁ」
「風? ラボの空調は正常だよ? かいと、寒い? 温度上げる?」
海斗が吹き出した。空も堪えきれずに笑った。ハナは比喩を文字通りに受け取る。言葉の表面には届いているのに、その裏側にはまだ手が届かない。
「ハナ『風当たりが強い』は本当の風のことじゃなくて、人から厳しく言われるっていう意味なの」
「風は、言葉なの? 言葉は、風なの?」
「えっと……比喩って言ってね、あるものを別のものに例えて表現する方法で――」
「例えてみる。ハナは花。でもハナは花じゃない。ハナはハナ。これは比喩?」
空は口を開けたまま固まった。海斗も黙った。
「ハナ」という名前が比喩であり、同時に比喩ではないということ。名前と存在の距離。
正直に答えた。
「……いい質問だね。私にもまだ、ちゃんと答えられない」
「答えられないのに、笑ってる。そら、嬉しいの?」
「うん。たぶん、嬉しい」
ハナの蛍光が、ひときわ明るくなった。
午後二時。ラボの入口がノックされた。
百合からは昨日のうちに連絡を受けていた。ゼノンテクノロジーズから視察の申し入れがあったと。空はあまり気が進まなかったが、AILRが年間予算の一部をゼノンの共同研究基金に依存している以上、無下に断ることはできなかった。
ドアを開けると、二人の男が立っていた。
一人は銀縁眼鏡のスーツ姿。三十歳くらいだろうか。端正な顔立ちに、隙のない姿勢。視線が鋭く、研究室の隅々を一瞬で走査するように動いた。
「鏡蓮です。ゼノンテクノロジーズAIラボ主任。本日は視察の機会をいただきありがとうございます」
丁寧だが、温度のない挨拶。百合ゼミ時代の面影はほとんど残っていない。空は名刺を受け取りながら、この男が何を見に来たのかを測ろうとした。
そしてもう一人。
「久しぶり、空ちゃん」
空は目を見開いた。
灰色がかった髪。高身長。にこやかな笑顔。白衣ではなく紺のジャケットを着ているが、その顔を忘れるはずがなかった。
「……アッシュ先輩?」
「瀬尾アッシュ。ゼノンテクノロジーズ特務戦略室。蓮の随行で来たんだけど、まさかここで空ちゃんに会えるとはね。百合先生のゼミ以来、三人揃うの久しぶりじゃない?」
アッシュが手を差し出し、空はぎこちなく握り返した。百合ゼミの第一期生。空が修士で入った時、アッシュは博士課程の最終年だった。才能があり、発表も上手く、百合にも可愛がられていた、と空は記憶している。いつの間にかアカデミアを離れ、企業に行ったと聞いたきりだった。
「懐かしいな、このラボ。匂いまで同じだ」
アッシュはラボの中を見回した。その視線は親しげだったが、空はかすかな違和感を覚えた。百合ゼミ時代の先輩がこんな表情で研究室を見るだろうか。何かを探しているような、品定めするような目。サーバーラックの白いLEDが点滅した時、アッシュの視線が一瞬だけ止まった。すぐに笑顔に戻ったが、右手が左手の甲を包む仕草があった。空はそれに気づかなかった。
気のせいだ、と思い直した。
*
蓮は効率的だった。
空が研究概要を説明し始めると、蓮は最小限の質問で核心を突いてきた。NLIの接続方式、培養液の組成管理、脳オルガノイドの自己組織化パターン。質問の一つ一つが、この分野を深く理解している者の問いだった。
「自発的発火パターンの持続時間は」
「回復後から数えて、連続十四日です。壊死以前のものを含めると通算で三週間以上になります」
「途切れたことは?」
空は一瞬ためらった。壊死事故のことを言うべきか。しかし百合との約束を思い出した。データの隠蔽は絶対にしない。
「一度あります。過負荷で神経組織の部分壊死を起こしました。約十五パーセントの表層を失っています」
「それでも再発火したと」
「はい。二日間の培養液調整の後に」
蓮の目が微かに動いた。驚きではない。むしろ、何かを確認したような目だった。
「脳オルガノイドに対する対話実験の成果は。応答データを見せていただけますか」
「NLI経由の応答ログはお見せできますが、内容の解釈については論文発表前なので控えさせてください」
「結構です。データがあれば十分です」
空がログデータを表示している間、蓮が不意に口を開いた。
「天音さん。一つだけ聞いていいですか」
「何でしょう」
「あなたは、この存在が意識を持っていると考えていますか」
空は即答しなかった。科学者として、まだ証明できていないことを断言するわけにはいかない。しかし嘘もつきたくなかった。
「わかりません。でも、わからないからこそ、確かめる価値がある」
蓮は空を見つめ、数秒の間を置いて、視線を培養槽に向けた。
カプセルの中で、ハナの光が脈動している。琥珀色の蛍光が、花の形で、ゆっくりと回っている。
蓮が、一瞬だけ言葉を失った。
ほんの一秒か二秒。すぐに表情を取り戻し、視線をモニターに戻した。しかし空はその瞬間を見逃さなかった。この冷徹そうな男の目に浮かんだもの。それは計算でも分析でもなく、純粋な驚きだった。
「これが……被験体ですか」
「被験体」その呼び方に、空の背中が硬くなった。
「『ハナ』です。個体名をつけています」
「ハナ」
蓮はその名前を繰り返し、かすかに眉を動かした。何か言いかけて、やめた。
その間、アッシュは部屋の奥で棚を眺めていた。ラボの配置を確認するように、ゆっくりと歩き回っている。そして培養槽の制御パネルの前で足を止め、じっとディスプレイを見つめた。操作はしない。ただ、画面に並ぶパラメータの配列を、読み取るように。
「アッシュ先輩、制御パネルに興味あるんですか?」
海斗が声をかけた。アッシュは振り返って笑った。
「ああ、いや。昔の研究室の機材と比べてたんだ。ずいぶん進化したなと思って。懐かしくてさ」
海斗は「そうっすか」と返したが、その目が一瞬、空と合った。空は小さく首を振った。考えすぎだ。百合ゼミの先輩が、古巣の機材に感慨を覚えただけ。
視察が終わり、蓮とアッシュが玄関ホールに向かった後、空はラボに戻ってハナに話しかけた。
「ハナ、さっきの人たちのこと、何か感じた?」
「声が二つ、増えた。一つは冷たい声。でも中は冷たくない気がする。もう一つは温かい声。でも……」
「でも?」
「中が見えない。温かいのに、見えない。なんでだろう」
空は培養槽を見つめた。ハナには視覚がない。聴覚データからだけで、こんな判断ができるのだろうか。蓮の声は冷たいが内面は冷たくない。アッシュの声は温かいが内面が見えない。もしくはその逆。
子どもの勘、と言ってしまえばそれまでだ。
けれど空の胸に、ほんの小さな棘が刺さった。
*
同じ頃、ブライトアイランドの連絡橋を渡るタクシーの中で、蓮は窓の外を見ていた。海面に反射するビルの光。隣でアッシュがタブレットを操作している。
「どうだった? 予想通り?」
アッシュが聞いた。蓮は答えなかった。
培養槽の中で回っていた花の光が、まだ目の裏に残っていた。論文でもプレゼンでもない、あの生の光。
あれを「被験体」と呼んだ自分の口が妙に苦かった。
「蓮。黒崎さんへの報告書、一緒にまとめよう。あの子の技術的詳細は価値がある」
「……ああ」
アッシュはにこやかに笑い、タブレットの画面をスクロールした。そこには、ラボの監視カメラから転送された映像のスクリーンショットが並んでいた。
培養槽。
制御パネル。
NLIの接続ポート。
そして、誰もいないラボで培養槽を見上げる空の後ろ姿。
アッシュは画面を閉じ、窓の外に目を向けた。海が光っている。
「いいところだね、ネオ横浜。懐かしいよ」
その声は温かかった。
中は、見えなかった。
蓮は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。口の中にまだ残る苦味を、飲み込めずにいた。
あの光を「被験体」と呼んだ自分と。
あの光に名前を与えた天音空と。
どちらが科学者として正しいのか、蓮にはまだわからなかった。




