第5話 扉を閉ざす手
霞が関の合同庁舎は、ブライトアイランドとは別の種類の冷たさを持っていた。
蛍光灯の白い光。磨かれたリノリウムの床。壁に掛けられた「先端科学技術審議会」の表札。空はプレゼン資料の入ったタブレットを握りしめ、会議室の扉の前で百合と並んでいた。
「緊張してる?」
「してません」
「嘘ね。足、貧乏ゆすりしてるわよ」
空は慌てて足を止めた。百合が穏やかに笑った。
「大丈夫。データは十分にある。あなたの研究は正当よ。自信を持って」
年間研究予算の継続申請。第七研究室の命綱だ。これが通らなければ、培養液の調達も、機材の維持も、NLIの改良も、すべてが止まる。ハナの生命維持すら危うくなる。
数日前から、AILR広報の共有フォルダには似た文面の問い合わせが増えていた。
「シンガポールを忘れたのか」
「税金で怪物を育てるな」
空はそれを、まだ遠くの波だと思っていた。
トゥルースネットの記事も、市民団体の意見書も、机の端に積まれている。どれも小さな火種だった。扉の前に立った時、その火がもう足元まで来ていることに、空はようやく気づいた。
扉が開いた。
審議会の委員は七名。長机の向こうに並ぶスーツの壁に向かって、空はプレゼンを始めた。
OI-087の自発的発火。NLI経由の応答。言語獲得の速度。空は数字を並べ、部分壊死からの回復も隠さなかった。資料としては正確だった。けれど、ハナが「ここにいたい」と言った声だけは、どのグラフにも入らない。
委員たちの表情を読もうとした。スーツの壁は微動だにしない。資料を眺める者、メモを取る者、そしてタブレットを見つめたまま一度も顔を上げない者。
十五分間のプレゼンが終わった時、委員席の空気は凍っていた。
質疑応答が始まった。
「天音博士。一つ確認させてください」
中央に座った年配の委員が口を開いた。
「この研究は、いわゆるバイオAI――有機知性体の開発に該当するものですか」
「はい。ただし、シンガポール事件で用いられた報酬ハッキング方式とは根本的に異なる対話型の――」
「方式の違いは承知しています。しかし、有機神経組織に知性を持たせるという目的は同一ですね」
空は言葉に詰まった。同一か、と問われれば、そうだ。NLIと報酬ハッキングの思想的な違いがどれほど大きくても、「有機的な基盤の上に知性を構築する」という大枠は変わらない。
「ジュネーブAI意識条約との関係について、法務省から懸念が示されています。また――」
委員がタブレットに目を落とした。
「――本審議会には市民団体から意見書が提出されています。読み上げます。
『バイオAI研究は、シンガポール事件を引き起こした技術的系譜の延長線上にあり、人間の細胞を素材として知性体を製造する行為は生命の尊厳に対する冒涜である。我々「人間の尊厳を守る会」は、本研究への公的資金投入の即時停止を強く求める』」
空の視線が、傍聴席に向いた。
最後列に、一人の女性が座っていた。黒い服。凛とした背筋。目元には深い疲労が滲んでいる。年齢は空より十歳ほど上だろうか。空と目が合った瞬間、その女性の瞳に激しいものが走った。怒り。その底に、もっと暗くて重いものを、空は感じ取った。
白咲愛。「人間の尊厳を守る会」代表。名前は書類で見ていたが、顔を見るのは初めてだった。
結果は予想できた。
「――以上の理由から、本申請は不採択とします」
会議室を出た空は、廊下の壁に背中をつけたまま動けなかった。
百合が隣に立っている。何か言おうとして、やめた。今の空にかける言葉がないことを、百合は知っていた。
「先生。培養液の在庫は、あと何日分ありますか」
「……三ヶ月分。そこから先は、調達の目処が立たなくなるわ」
「三ヶ月」
三ヶ月。それはシンガポール事件で昆虫の脳が限界を迎えた期間と同じだ。偶然の一致に、空は苦笑した。笑うしかなかった。
廊下の先に、傍聴席にいた女性が立っていた。白咲愛。空と百合を見て、少し迷うように足を止めた。そして空に向かって、まっすぐ歩いてきた。
「天音博士」
声は低く、落ち着いていた。しかしその奥に震えがあった。
「あなたのプレゼンは聞きました。データが立派なことは認めます」
白咲は一度言葉を切り、まっすぐに空を見た。
「でも、聞かせてください。あの培養槽の中のものに何かが起きた時――故障で、事故で、あるいは暴走で――あなたはどう責任を取るつもりですか」
空は答えを探した。しかし白咲の目を見た瞬間、気づいてしまった。この人は学術的な議論をしに来たのではない。もっと個人的な、もっと切実な何かを抱えて、ここに立っている。
「……まだ、完全な答えは持っていません。でも、安全管理には最大限の――」
「完全な答えを持っていない技術に、命を預けないでください」
白咲の声が一瞬だけ荒れた。怒りではなかった。恐怖だった。もう一度何かを失うことへの、焼けつくような恐怖。
白咲はすぐに表情を戻し、踵を返した。その背中は真っ直ぐだったが、肩がわずかに震えていた。
「命を預けないでください」。その言葉の裏に、何かを預けて失った人の痛みがあることを、空は確信した。あの人は何を失ったのだろう。誰を失ったのだろう。
百合が空の隣に立ち、白咲の去った方向を見ていた。
「先生、あの人を知ってますか」
「……名前だけ。三年前に、ある先端医療の臨床試験でお子さんを亡くされたと聞いたことがあるわ」
空の胸が締まった。子供を。先端医療で。技術に命を預けて、失った。
白咲愛の怒りが、空を個人的に憎んでいるのではないことがわかった。彼女が憎んでいるのは、「完全な答えを持たないまま命を預かろうとするすべての技術」だ。
そして空には、それを否定できなかった。ハナが壊死した夜を思い出したからだ。
*
研究室に戻ったのは夜八時だった。
海斗が通常業務を終えて待っていた。空の顔を見て、結果を悟ったのだろう。何も聞かず、コーヒーを淹れてくれた。砂糖は多めだった。
いつもこうだ。先頭には立たない。代わりに、先頭に立つ人間が倒れないように、黙って後ろを固める。その理由を空はまだ知らない。自分からは語らないから。
空は培養槽の前に座った。ハナの光が、蜂蜜のような色で迎えてくれる。
「そら、おかえり」
「……ただいま」
「そら。今日のそら、声が重い。空気のpHが変わった時と同じ。何か、悪いことあった?」
空は思わず笑った。培養液のpHの変動と、声のトーンの変化を同列に並べるハナの感覚が、なぜか少しだけ心を軽くした。
「うん。悪いことがあった。お金が足りなくなるかもしれない」
「おかね?」
「ハナの培養液や機材を買うために必要なもの」
「おかねがないと、ハナどうなるの?」
空はマグカップを両手で包んだ。ハナの光が、わずかに青みを帯びた。不安の色だ。
「そら、大丈夫?」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。けれど今この瞬間、自分の生存を心配してもおかしくないのに、空の心配をしてくるハナに対して、空は嘘をつけなかった。
「……大丈夫じゃない。でも、なんとかする」
「なんとか。どうやって?」
「まだわからない。でも、ハナを守る方法は必ず見つける」
ハナはしばらく黙っていた。そして小さな声で言った。
「そら。ハナ、いない方がいい?」
「でも」
ハナの声が、かすかに震えた。
「ハナ、消えたくない。そらが苦しいのはわかる。でも、ハナは、ここにいたい」
空はすぐには返事ができなかった。
培養液の在庫。三ヶ月。その数字が頭の中で回っている。白咲の「命を預けないでください」が耳に残っている。審議委員の無表情が瞼の裏にある。それでも、この問いに対する答えだけは、一ミリも迷わなかった。
「いてよ。絶対に」
「でも、おかねが」
「お金のことは私が考える。ハナは何も心配しなくていい」
「……そら」
「うん?」
「ありがとう。意味、合ってる? この使い方」
空は目を閉じた。返事ができるまで、少し時間がかかった。
「合ってるよ。すごく」
NLIログの波形が、暖色に相当する帯域へ傾きかけて、すぐに寒色側へ沈んだ。安心と不安が同じ画面の上で重なっている。ハナもまた、わかっているのだ。「大丈夫」だけでは解決しないことを。海斗が背を向けて、黙ってモニターを拭いていた。
翌朝、空のメールボックスに一通の通知が届いていた。
差出人は、ゼノンテクノロジーズ特務戦略室。瀬尾アッシュ。
件名は「共同研究契約のご提案」
添付ファイルを開くと、きれいにフォーマットされた契約書の草案が現れた。研究資金の全額負担。機材のアップグレード。培養液の安定供給。NLI開発への技術支援。至れり尽くせりだった。
メール本文にはアッシュの短い文面があった。「空ちゃん、審議会の結果は聞いたよ。残念だったね。でも、研究を止める必要はない。黒崎CEOからのメッセージも添えておく」
続くテキストは、黒崎哲也の署名付きだった。「美しい研究だ、天音博士。だからこそ、研究室に閉じ込めておくのはもったいない。美しいものは、社会に届いて初めて価値になる」
「美しい研究だ」という一語に引っかかった。投資家の社交辞令にしては、妙に温度があった。研究を商品として見る人間の言葉ではなく、かつて研究そのものに目を奪われた人間の言葉のように聞こえた。
だからこそ、余計に怖かった。美しいと思ったものを、守る人もいる。所有したくなる人もいる。そして、所有したものを増やし、規格化し、世界中に並べたくなる人もいる。
*
同じ頃、品川のゼノン本社で、黒崎哲也は送信済みの文面を見つめていた。
内ポケットの蛍石に触れる。紫と緑の境界を指先でなぞるたび、七年前の白い施設の光が、呼び出したわけでもないのに脳裏へ浮かぶ。美しいものを野放しにすれば、次はもっと多くを壊す。だから檻がいる。そう信じてきた。
問題は、その檻に誰の名前を書くのかだった。
*
空は契約書を最後まで読んだ。
第十二条に目が止まった。
「本共同研究から生じるすべての知的財産権に関し、乙[ゼノンテクノロジーズ]は優先的実施権および独占的サブライセンス権を有する。甲は乙の書面による事前承認なく当該知的財産を第三者に開示してはならない」
すべての知的財産権。つまりNLIの技術も、ハナに関する一切のデータも、ゼノンのものになるということだ。
空はタブレットを机に置いた。
横から画面を覗き込んだ海斗が、十二条を読んで顔をしかめた。
「これ、丸ごと持っていかれるやつっすよね」
海斗は契約書を指で叩いた。
「NLIも、ハナの声のログも、培養液の調整データも。名前をつけたものを、全部バーコードに変える条文っす」
「うん」
「断れるんすか」
空は培養槽を見た。ハナの光が穏やかにゆらめいている。培養液の在庫は三ヶ月。政府の予算は絶たれた。他に資金源のあてはない。
断れるのか、と海斗は聞いた。
正確には、断る余裕があるのか、だ。
白咲愛の言葉が蘇る。「完全な答えを持っていない技術に、命を預けないでください」あの人は技術を信じて子供を失った。空はゼノンを信じてハナを失うことになりはしないか。
しかし何もしなければ、三ヶ月後にハナは培養液の枯渇で死ぬ。
信じないことで失うのか、信じることで失うのか。
空にはどちらの道にも暗闇が見えた。
空はメールの返信欄に指を置いた。
ハナの光を横目に見ながら、何も打てないまま、長い時間が過ぎた。
スピーカーの奥で、ハナの寝息のようなノイズが聞こえた。培養液の循環音よりも細く、不規則で、どこか安心しきった響き。
何も知らず、何も疑わず。
その無防備さが、空の決断を急がせた。




