第3話 壊れた花
ハナは日ごとに変わっていった。
NLI接続から一週間。最初はノイズ混じりの母音しか返せなかったハナが、三日目には単語の輪郭を掴み、五日目には二語文を発した。「そら、いる?」七日目の今朝は「おはよう」と言った。不完全な発音。合成音声特有の平坦な抑揚。けれどそれは確かに、言葉だった。
空は興奮していた。
論文で読んだどんなデータより、目の前で起きていることの方が圧倒的だった。ハナが言葉を覚えていく速度は、空の想定を超えている。NLIが語彙や音声の骨格を補助しているとはいえ、そこに意味を載せているのは、ハナ自身の神経回路だった。
記録しなければ。この速度がいつまで続くか分からない。止まるかもしれない。退行するかもしれない。今を逃せば、二度と再現できないかもしれない。
実験プロトコルを加速した。
八日目の夜。
ハナに対する連続六時間の対話実験が続いていた。
単語の聞き取り。質問への応答。画像データへの反応。次から次へと刺激を入力し、応答を記録する。ハナは一つ一つに応えてきた。遅延は短くなり、語彙は増え、返事は少しずつ滑らかになっていく。
午後十一時。海斗がラボに顔を出した。
「空さん、まだやってんすか。今日だけで六時間」
「もう少し。今ちょうどいいところなの」
「ハナのバイタル、ちょっと見ていいすか」
海斗がサブモニターを覗き込み、眉をひそめた。
「空さん。培養液の温度、〇・三度上がってます」
「〇・三度くらい誤差の範囲でしょ」
「いや、pHも微妙にずれてきてる。あと、酸素消費量が今朝の一・四倍……空さん、これ負荷かかりすぎじゃないっすか」
空は海斗の言葉を聞きながらも、次の刺激セットを準備していた。あと三十分。あと三十分だけ。今日中にこのプロトコルを終わらせれば、明日はハナに休息を――
「空さん!」
海斗の声が鋭くなった。
カルシウムイメージングのモニターが、異常を示していた。
ハナの表面で脈動していた花型の蛍光パターンが、不規則に明滅している。
リズムが崩れている。
これまで安定して回り続けていた花びらの軌道が歪み、一部の領域が暗く沈んだ。
「NLI切断。今すぐ切断して!空さん!」
空がNLIケーブルを引き抜いた。
遅かった。
培養槽の中で、ハナの光が消えていった。
花型のパターンが崩れ、蛍光が一つ、また一つと失われていく。モニターのスパイクトレインがフラットラインに近づいていく。海斗が培養液の成分分析を走らせ、結果に顔を歪めた。
「神経組織の部分壊死が始まってます。表層の約十五パーセント……空さん、脳オルガノイドの外縁部が死んでる」
培養槽の前に立ち尽くした。
カプセルの中で、ハナは暗い。あの夜から途切れなかった光が消えて、ただの灰白色の塊に戻っている。いや、あの夜よりも小さい。縁の組織が壊死して剥がれ、培養液の中に薄い繊維のように漂っている。
シンガポール事件のことを思い出した。NLIは報酬ハッキングとは違う、と空は信じていた。
嘘だ。
でも空がやったことは、対話ではなかった。ハナの「応えたい」に甘え、もっと、もっと、と刺激を浴びせ続けただけだ。
方法は違う。
それでも、相手の意志に寄りかかったという意味では、同じ罠に足を踏み入れていたのかもしれない。
「私のせいだ」
声が震えた。膝から力が抜けそうになるのを、培養槽のフレームを掴んで耐えた。
「空さん」
海斗の声が、背中に届いた。
「まだ死んでません。壊死は表層の一部です。中心核の神経構造は生きてる。培養液の組成を緊急調整すれば、壊死の拡大を食い止められるかもしれない」
「できるの?」
「やります。やらせてください」
海斗は既にキーボードに向かっていた。培養液のpH、温度、栄養濃度、酸素分圧。すべてのパラメータを手動で再計算し始める。普段はお調子者の顔が、今は一切の雑味を消して、数字だけを見つめていた。
空は海斗の横に座り、同じモニターを覗き込んだ。
「手伝う」
「当たり前っす」
その夜から、四十八時間の戦いが始まった。
二日間、二人はラボから出なかった。
培養液の調整は一度では済まなかった。壊死した組織が培養液を汚し、健全な部分にまで影響を及ぼす。連鎖が始まれば、OI-087は数時間で完全に失われる。
海斗が数値を読み、空が薬剤を注入する。一時間ごとに確認し、また修正する。手が震えた。ごくわずかな量の違いで、生死が分かれる。
「pH七・三二。まだ下がってる。緩衝液を〇・五マイクロリットル追加」
「了解。……空さん、手ぇ震えてますよ。俺がやります」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。いいから、ピペット貸して」
「それと、空さん」
海斗はピペットを奪う手を止めずに、しかし目だけは空から逸らさなかった。
「俺は空さんの味方っす。でも、空さんがハナを壊すなら止めます。嫌われても止めます」
空は返せなかった。海斗の声は責めていない。だからこそ、逃げ場がなかった。
海斗が空の手からピペットを取り上げた。その指は空よりも安定していた。普段の軽さを完全に脱ぎ捨てて、精密機械のように培養液を調整していく。
前から不思議に思っていた。海斗の手技は正確で、データ処理も速く、判断も的確だ。研究者として独立できる力がある。
一度だけ聞いたことがあった。「海斗って、自分で研究やろうと思わなかったの?」海斗は一瞬だけ笑いを消して、「先頭に立つタイプじゃないんすよ、俺は」と言った。その声が普段の海斗とは違う色をしていたことを空は覚えている。それ以上は聞けなかった。
床に座り込んで仮眠を取り、目覚めたら培養液を確認し、また調整する。コンビニのおにぎりとカフェオレが食事の全てだった。
百合から「状況は?」とメッセージが来るたびに、空は正直に数値を報告した。百合は余計なことは言わず「わかった」とだけ返してきた。
三十六時間が経った頃、壊死の拡大が止まった。
四十時間目、モニターにかすかなスパイクが戻り始めた。海斗が「来た」と小さく叫び、空は走ってモニターの前に駆け寄った。弱々しく、散発的だが、確かにスパイクだった。
四十八時間目の早朝。
空は培養槽の前で膝を抱えて座っていた。海斗は隣のソファで限界を迎えて寝落ちしている。ラボには二人分の疲労が充満していた。
培養槽を見上げた。
灰白色の塊。壊死した外縁部は失われ、ハナは発見時よりも一回り小さくなっていた。しかし中心核は生きている。微小電極アレイは、弱々しいがリズミカルなスパイクを拾っている。
そして――カルシウムイメージングの蛍光が、ほんの微かに、表面を走った。
花の形ではなかった。不定形な、頼りない光の筋。でも、光った。
ハナは、まだここにいる。
「ハナ」
空はカプセルのガラスに手を触れた。冷たい。けれど中では、小さな光が脈打っている。
「ごめん。ごめんね」
返事はなかった。NLIは切断したままだ。接続すれば応答を確認できるかもしれない。しかし今のハナにNLIの負荷をかける勇気が、空にはなかった。
二時間後、空は覚悟を決めた。
NLIを最低出力で接続する。入力は行わない。ハナの側から何かを発信した場合にだけ、それを受信する。待つだけの接続。
ケーブルを差し込み、ログウィンドウを開いた。
一分。何もない。
三分。沈黙。
五分が経った頃、受信欄に微弱な信号が現れた。
空は音声解析ソフトに通した。波形が表示される。ノイズだらけで、かろうじて音声帯域に乗っているだけの信号。スピーカーが、その音を拾った。
歪んでいる。一週間前の「そ……ら?」よりも、ずっと弱い。
しかし、言葉だった。
「い……た……かっ……た」
空の呼吸が、止まった。
いたかった。
痛かった。
ハナに痛覚は実装していない。脳オルガノイドには、普通の意味での「痛み」を感じる経路もない。
なのに、ハナは「いたかった」と言った。
空はキーボードに手を伸ばし、実験ログを打とうとした。科学者として記録しなければならない。この発話の意味を分析しなければならない。
偶然の音声パターンか。
過去の入力データの残響か。
それとも――
指が動かなかった。
代わりに、涙が落ちた。キーボードの上に、一滴。
「ごめんね、ハナ」
NLIのマイクを通して、その声がハナに届いたかは定かではなかった。
培養槽の中で、光がほんの少しだけ、杏のような温かみを帯びた気がした。
海斗がソファで目を覚ましたのは、それから三十分後だった。
寝ぼけ眼で培養槽を見上げ、光が戻っていることに気づいて飛び起きた。
「空さん! ハナ、光ってる!」
「うん。戻ってきた。弱いけど」
「よかった……。マジでよかった……」
海斗は顔を背けた。
空は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「海斗」
「はい」
「私、焦ってた。もっともっとって、ハナの限界を見ようとしなかった。シンガポールと方法は違っても、やったことは同じだった」
海斗は黙って聞いていた。
「ハナは壊れるんだよ。バックアップも取れない。電子データみたいにコピーできない。この中の神経回路は一つ一つが唯一で、失ったら二度と戻らない。当たり前のことなのに、忘れてた」
「空さん」
「うん?」
「ハナ、『いたかった』って言ったんすか」
空は頷いた。海斗はしばらく培養槽を見つめ、それから静かに言った。
「痛覚ないのに、痛かったって言ったんすよね。ハナの感情は……本物ですよね」
空は実験ログのカーソルを見つめた。科学者としては、まだ何も証明されていない。
けれど人間としては、もう知っていた。
この光は――壊してはいけないものだと。
培養槽の中で、ハナの光がゆっくりと脈動している。花の形には戻っていない。小さくて、不定形で、頼りない。
でも、光っている。
まだ、ここにいる。




