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黒焔に咲く薄桜  作者: 日ノ澤しの
第一章 黒焔の婚約者

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第六話 黒焔の屋敷



第六話です。


澪はついに東雲家へと足を踏み入れます。

九条家とはまったく違う空気の中で、少しずつ彼女の心も揺れ始めます。




 東雲家の本邸は、まるで別世界だった。


 黒鉄の門を抜け、自動車が敷地へ入った瞬間、澪は思わず息を呑む。


 広い。


 それが最初の感想だった。


 整えられた石畳。


 静かな庭園。


 黒を基調とした重厚な屋敷。


 けれど威圧感ばかりではない。


 どこか澄んだ空気が流れている。


「……すごい」


 小さく零れた声に、隣の朔夜が視線を向けた。


「珍しいか」


「は、はい……。このようなお屋敷、初めて見ました」


 正確には、”自由に見た”ことがない。


 華族の屋敷に招かれることも、外へ出ることも、澪にはほとんど許されてこなかった。


 朔夜はそれ以上何も言わない。


 やがて車が止まり、使用人たちが一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、朔夜様」


 澪は肩を震わせる。


 これほど大勢に迎えられたことなどない。


 しかも、その中に侮蔑の視線がないことが、逆に落ち着かなかった。


「降りろ」


「は、はい」


 澪は慌てて車を降りた。

 

 すると、一人の青年が歩み寄ってくる。


 柔らかな茶髪に、人懐こい笑み。


「お待ちしておりました。九条澪様」


 澪は目を瞬かせた。


「え……」


「私は榊と申します。朔夜様の補佐をしております」


 丁寧に礼をされ、澪は慌てて頭を下げ返す。


「九条澪です。よ、よろしくお願いいたします」


 榊は少し驚いたように目を丸くした後、ふっと笑った。


「噂通りの方ではなさそうですね」


「……噂?」


 澪が困ったように首を傾げる。


 榊はちらりと朔夜を見る。


「”陰気で何もできない娘”と聞いておりましたので」


 澪の表情が固まった。


 やはり、そう思われている。


 俯きかけたその時。


「榊」


 低い声が落ちる。


 榊は肩を竦めた。


「失礼しました」


 けれどその声音に悪意はなかった。


 むしろ、澪の反応を見て確かめていたようにも思える。


 朔夜は澪へ視線を向ける。


「部屋へ案内させる」


「……ありがとうございます」


「何か足りないものがあれば言え」


 澪は小さく目を見開いた。


 そんな言葉をかけられるとは思わなかった。


 九条家では、”必要なもの”を聞かれたことなど一度もない。


「……大丈夫、です」


 思わずそう答えてしまう。


 朔夜の眉が僅かに寄った。


「遠慮か」


「い、いえ……」


「必要なら言え。ここで無理に黙る必要はない」


 澪は言葉を失う。


 無理に黙らなくていい。


 その言葉が、妙に胸へ引っかかった。


     ◇


 案内された部屋を見て、澪は固まった。


「……え」


 広い。


 九条家で使っていた部屋の倍以上はある。


 大きな窓。


 柔らかな色の調度品。


 淡い灯り。


 そして、床の間には季節の花が飾られていた。


「こちらが澪様のお部屋になります」


 女性使用人が恭しく頭を下げる。


 澪は戸惑った。


「わ、私には、もったいないです……」


 使用人は困ったように笑う。


「そのようなことはございません」


 澪は部屋の中央で立ち尽くした。


 本当に自分の部屋なのだろうか。


 夢みたいだった。


「……落ち着かない」


 小さく呟く。


 静かすぎる。


 怒鳴り声もない。


 足音に怯えなくていい。


 それが逆に不安だった。


 澪は荷箱を開き、そっと簪を取り出す。


 その時。


 こんこん、と控えめなノック音が響いた。


「は、はい」


 襖が開く。


 そこに立っていたのは、朔夜だった。


 澪は慌てて立ち上がる。


「東雲様」


「朔夜でいい」


「え……」


「婚約者だろう」


 あまりにも自然に言われ、澪は言葉を失った。


 婚約者。


 改めて口にされると、実感が追いつかない。


 朔夜は部屋を見回す。


「問題はないか」


「は、はい……。とても立派なお部屋で……」


「そうか」


 短い返事。


 けれど帰る気配がない。


 静かな沈黙が落ちる。


 澪は落ち着かず視線を彷徨わせた。


 すると朔夜が、不意に口を開く。


「九条家では、ずっとああだったのか」


 澪の肩が揺れた。


「……え?」


「お前の扱いだ」


 澪は言葉に詰まる。


 否定するべきなのかもしれない。


 心配をかけないように。


 迷惑をかけないように。


 けれど。


 紫紺の瞳は、誤魔化しを許さないみたいに真っ直ぐだった。


「……慣れておりますので」


 それだけ答える。


 朔夜は少し黙った後、静かに目を伏せた。


 その横顔を見て、澪は不思議に思う。


 どうしてこの人は、まるで自分のことみたいな顔をするのだろう。





第六話を読んでくださり、ありがとうございました。


今回は、澪が東雲家へ移り、新しい環境へ足を踏み入れる回でした。

少しずつですが、朔夜の態度にも変化が見え始めています。


次話では、東雲家での生活と、澪の力についてさらに触れられていきます。


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