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黒焔に咲く薄桜  作者: 日ノ澤しの
第一章 黒焔の婚約者

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第五話 東雲家からの迎え



第五話です。


東雲家との婚約が正式に進み始め、澪の日常にも少しずつ変化が現れます。




 東雲家からの正式な迎えが来たのは、それから数日後のことだった。


 朝早くから、九条家の使用人たちが慌ただしく動き回っている。


 玄関先には黒塗りの大きな自動車が停まっていた。


 澪は離れた廊下から、その様子を静かに見つめる。


「あれが、東雲家の……」


 九条家の車よりも大きい。


 艶のある黒い車体には、東雲家の紋が刻まれている。


 まるで、そのまま”黒焔”を形にしたみたいだった。


「澪様」


 侍女の声に、澪は振り返る。


「綾乃様がお呼びです」


「……はい」


 澪は急いで頭を下げ、客間へ向かった。


 襖を開けると、綾乃と華鈴が座っている。


 二人ともどこか機嫌が悪そうだった。


「失礼いたします」


「座りなさい」


 綾乃の声は硬い。


 その前へ、一枚の書状が置かれる。


「東雲家からです」


 澪は目を伏せた。


 達筆な文字。


 東雲家当主、東雲朔夜の名。


「本日より、お前は東雲家本邸へ移ることになります」


 澪は顔を上げた。


「……え?」


「婚約者としての教育と警護を兼ねるそうよ」


 綾乃は面白くなさそうに言う。


「随分と丁重な扱いね」


 華鈴が扇を強く握った。


「どうしてそこまで、お義姉様なんですの」


 澪は言葉を失う。


 東雲家へ移る。


 つまり。


 この家を出るということ。


 それは澪にとって、想像したこともない話だった。


「返事は?」


 綾乃の声に、澪ははっとする。


「……承知いたしました」


 断る理由などない。


 いや。


 断れる立場ではない。


 けれど胸の奥では、説明できない感情が静かに揺れていた。


 怖い。


 不安。


 それなのに。


 ほんの少しだけ、この家を離れられることへ安堵している自分がいた。


     ◇


 荷物は驚くほど少なかった。


 着物が数着。


 本が数冊。


 そして、母の形見の簪。


 それだけだ。


 澪は小さな荷箱を抱え、自室を見回した。


 長く過ごした部屋。


 けれど思い出は、あまりない。


 苦しくて、静かで、寒い場所だった。


「……お世話になりました」


 誰もいない部屋へ、小さく頭を下げる。


 その時だった。


「お義姉様」


 背後から声がする。


 振り返ると、華鈴が立っていた。


 華やかな着物姿。


 けれどその瞳には、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。


「東雲様に気に入られたからって、勘違いしないでくださいね」


 澪は目を伏せる。


「そんなつもりは……」


「どうせすぐ捨てられますわ」


 華鈴は吐き捨てるように言った。


「あの東雲朔夜様ですよ?お義姉様みたいな陰気な女を、本気で選ぶはずありませんもの」


 澪の指先が僅かに震える。


 けれど反論はしなかった。


 反論しても意味がない。


 ずっとそうしてきた。


 華鈴は鼻を鳴らし、踵を返す。


「せいぜい、九条家の恥にならないようにしてくださいませ」


 襖が閉まる。


 静寂だけが残った。


 澪は小さく息を吐き、荷箱を抱え直した。


 その瞬間。


 ふわり、と。


 薄桜色の花弁が舞う。


 澪は目を見開いた。


 花弁はまるで、”行っておいで”と言うみたいに優しく揺れていた。


     ◇


 玄関前には、東雲家の使用人たちが並んでいた。


 その中央に立つ青年を見て、澪は息を止める。


 黒い外套。


 長い黒髪。


 紫紺の瞳。


 東雲朔夜。


 本人が来るとは思っていなかった。


「東雲様……」


 朔夜は静かに澪を見る。


 数日前と変わらない、感情の読めない表情。


 けれど。


「荷物はそれだけか」


 低い声は、不思議と冷たく感じなかった。


「……はい」


「少ないな」


 澪は困ったように俯く。


「必要なものは、あまり……」


 そこまで言って、言葉を止めた。


 朔夜の視線が僅かに鋭くなる。


 けれど彼は何も聞かなかった。


 代わりに、澪の手から荷箱を取る。


「え……」


「乗れ」


 それだけ言って、自動車へ視線を向ける。


 澪は戸惑いながら車へ近づいた。 


 後ろでは、綾乃と華鈴が複雑そうな顔で見送っている。


 澪は小さく頭を下げた。


「行ってまいります」


 返事はない。


 けれど澪は、それ以上何も求めなかった。


 自動車の扉が閉まる。


 低い振動。


 ゆっくりと車が動き出す。


 九条家の門が遠ざかっていくの見ながら、澪はそっと膝の上で手を握った。


 自分の人生が、大きく変わり始めている。


 そんな予感がしていた。





第五話を読んでください、ありがとうございました。


今回は、澪が九条家を離れ、東雲家へ向かうまでを描きました。

少しずつですが、澪の環境も変わり始めています。


次話からは、東雲家での新しい生活が始まります。


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