第五話 知らなかった名前
第二章、第五話です。
今回は、澪が初めて聞く人物について触れていきます。
老術師との話を終えた翌日も、澪の胸には疑問が残っていた。
薄桜。
繋ぐ術。
黒焔との関係。
どれも曖昧なままで終わってしまった。
老術師は何かを知っている。
けれど、それを話そうとはしなかった。
「……薄桜とは何なのでしょう」
自室で一人、小さく呟く。
窓の外では春風が揺れていた。
ふわり、と花弁が舞う。
澪はそれを見つめる。
最近、自分の力が少しずつ変わっている気がした。
けれど理由は分からない。
その時、襖が叩かれる。
「澪様」
女性使用人が頭を下げる。
「老術師様がお呼びです」
「私を……?」
「書庫へお越しいただきたいとのことでした」
◇
東雲家の書庫は静かだった。
高い棚に古い書物が並び、独特の紙の香りが漂っている。
老術師は既に奥の机に座っていた。
「お待ちしておりました」
澪は頭を下げる。
「昨日は申し訳ありませんでした」
「え?」
「貴女は知りたかったのでしょう。ご自身の力について」
澪は少しだけ俯く。
図星だった。
老術師は穏やかに続ける。
「ですが、今はまだお話しできることが多くありません」
やはりそうなのか。
澪は小さく息を吐いた。
すると老人は一冊の本を取り出した。
「その代わり、こちらをお見せしましょう」
古びた記録書だった。
家系や術師の記録がまとめられているらしい。
澪は恐る恐る頁をめくる。
歴代の術師たちの名前が並ぶ。
その中で、一つの名前が目に留まった。
『藤ヶ宮千鶴』
澪は首を傾げた。
「藤ヶ宮……?」
聞いたことのない名字だった。
だが。
その下に記された名前に目が留まる。
千鶴。
母と同じ名前。
偶然だろうか。
そう思った時だった。
「それが、貴女の母君です」
澪の目が大きく見開かれた。
「……え?」
老術師は静かに頷く。
「藤ヶ宮千鶴様。貴女のお母上の名前です」
澪は言葉を失った。
しばらく理解できなかった。
「母様の……名前……?」
「ええ」
「でも、母様は……」
九条家に近い人間ではなかったのか。
そんな言葉が喉まで出かける。
老術師は優しく言った。
「嫁がれる前のお名前です」
澪は再びその頁を見る。
藤ヶ宮千鶴。
母の名前。
自分の知らなかった名前。
知らなかった過去。
「私……知りませんでした」
思わず零れた声。
老術師は少しだけ目を伏せる。
「そうでしょうな」
その声には、どこか複雑な響きがあった。
「藤ヶ宮家という家も……私は知りません」
澪がそう言うと、老術師は一瞬だけ驚いたような顔をした。
けれどすぐに表情を戻す。
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
ただ。
何かを察したようだった。
◇
澪は頁を見つめる。
そこには若き日の千鶴の肖像画が描かれていた。
柔らかな微笑み。
穏やかな瞳。
自分の記憶と重ね合わせてしまう。
「綺麗な方だったのですね」
「ええ」
老術師は静かに頷いた。
「とても優しい方でした」
それは澪の記憶とも一致していた。
だから少しだけ安心する。
「どんな方だったのですか」
自然と問いかけていた。
もっと知りたい。
自分の知らない母のことを。
老術師は懐かしそうに目を細める。
「人を守ることを大切にされる方でした」
短い言葉。
けれど、それで十分だった。
それはきっと母らしい。
澪はそう思った。
その時。
ふわり、と。
薄桜色の花弁が舞う。
老術師は静かにそれを見つめた。
懐かしそうに。
愛おしそうに。
けれど何も言わない。
ただ小さく微笑むだけだった。
「母様……」
澪は肖像画を見つめる。
今まで考えたこともなかった。
母に、自分の知らない人生があったことを。
その事実が、不思議と胸に残った。
第二章、第五話を読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、澪が初めて母の旧姓を知る回でした。
まだ藤ヶ宮家についても、母の過去についても、澪は何も知りません。
ですが、少しずつ”母の足跡”を辿る物語が始まろうとしています。
次回は第二章の物語がさらに動き始めます。
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