第十三話 薄桜の居場所
第十三話です。
第一章も終盤へ入り、澪にとっての”居場所”が少しずつ形になっていきます。
東雲家へ来てから、澪は時折、不思議な感覚を覚えるようになっていた。
朝になれば、自然と目が覚める。
誰かの機嫌を気にして飛び起きるのではなく、穏やかな朝の光の中で。
廊下を歩けば、使用人たちが頭を下げてくれる。
怯えた目でも、侮蔑でもなく。
普通に。
当たり前みたいに。
「……まだ、慣れません」
小さく呟きながら、澪は庭を歩く。
薄曇りの空。
風に揺れる藤。
東雲家の庭は静かだ。
けれど、その静けさは九条家とは違う。
冷たい静寂ではなく、穏やかな落ち着きだった。
「澪様」
声をかけられ振り返ると、数人の女性使用人たちが立っていた。
「お茶の準備が整っております」
「え……私に、ですか?」
「はい」
澪は目を瞬かせる。
自分のために用意されたもの。
未だにそれが信じられない。
「本日は新しい茶葉が届きましたので、ぜひ澪様にも味見を、と」
柔らかな笑顔。
澪は戸惑いながらも、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◇
東屋には、すでに茶器が並べられていた。
白磁の器から、ふわりと湯気が立ち上る。
「まあ……」
澪は思わず感嘆の声を漏らした。
女性使用人が嬉しそうに笑う。
「桜茶です。澪様が好きかと思いまして」
澪の胸がじんわり熱くなる。
好きなものを覚えられている。
それだけで、こんなにも嬉しいなんて。
澪はそっと茶器へ口をつけた。
優しい香りが広がる。
「……美味しい」
自然と零れた言葉に、使用人たちが顔を見合わせて微笑む。
その時だった。
「随分楽しそうだな」
低い声が響く。
澪が振り返る。
「朔夜様」
黒い着物姿の朔夜が立っていた。
紫紺の瞳が、澪の前の茶器を見る。
「桜茶か」
「はい、皆さんが用意してくださいました」
澪がそう答えると、使用人たちはどこか緊張した様子で背筋を伸ばした。
だが朔夜は何も言わず、ただ澪の向かいへ座る。
「東雲様?」
「飲んではいけないのか」
「い、いえ……!」
澪は慌てて首を振った。
使用人たちも少し驚いている。
朔夜がこうして仕事以外で庭へ現れること自体、珍しいのだろう。
朔夜は差し出された茶を一口飲む。
「……悪くない」
その一言だけで、使用人たちがほっとした顔になる。
澪はその様子を見て、少しだけ笑ってしまった。
すると朔夜が視線を向ける。
「何だ」
「い、いえ……」
澪は慌てて口元を押さえる。
「皆さん、東雲様のお言葉に安心していらっしゃるようでしたので」
「……そうか?」
朔夜は本当に分かっていなさそうだった。
澪は少しだけ目を細める。
怖がられている人。
けれど実際は、不器用なだけなのかもしれない。
そんなことを思った。
◇
その日の夕方。
澪は屋敷の廊下で、偶然使用人たちの会話を耳にした。
「本当に変わりましたね、この屋敷」
「ええ。前はもっと空気が張っていましたもの」
「澪様が来られてから、皆少し柔らかくなった気がします」
澪は思わず足を止める。
自分が、変えた?
そんなこと、考えたこともなかった。
「朔夜様も、最近は前ほど無茶をされなくなりましたし」
「帰宅も早くなりましたよね」
「きっと澪様が待っていらっしゃるからでは?」
くすくすと笑い声が響く。
澪は一気に顔が熱くなった。
「わ、私は別に……!」
思わず声が出てしまう。
使用人たちが慌てて振り返った。
「み、澪様…!」
「申し訳ありません、立ち聞きのようなことを……!
「ち、違うんです……!」
何が違うのか分からないまま、澪は真っ赤になって首を振る。
その時だった。
ふわり、と。
大量の薄桜色の花弁が廊下へ舞った。
「あ……!」
使用人たちが目を丸くする。
花弁は淡く光を帯びながら、優しく空気を包み込んでいく。
その様子はとても綺麗で。
まるで、春そのものみたいだった。
すると。
「……何を騒いでいる」
低い声が響く。
澪は固まった。
廊下の先に、朔夜が立っている。
紫紺の瞳が、舞う花弁と澪を見る。
数秒の沈黙。
そして。
朔夜は、小さく息を吐いた。
「本当に分かりやすいな、お前は」
「っ……!」
澪の顔がさらに赤くなる。
使用人たちは必死に笑いを堪えていた。
朔夜はそんな空気を見回した後、静かに澪へ手を差し出す。
「来い」
「え……?」
「夕餉の時間だ」
澪は目を瞬かせる。
その差し出された手を、しばらく見つめた。
そして。
恐る恐る、自分の手を重ねる。
朔夜の手は少し冷たかった。
けれど、不思議と安心する温度だった。
第十三話を読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、澪が少しずつ東雲家”居場所”を感じ始める回でした。
そして朔夜だけでなく、東雲家全体の空気も、澪によって少しずつ変わり始めています。
第一章も残りあと少し。
次話では、澪が初めて”九条家”を出た意味と向き合っていきます。
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