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黒焔に咲く薄桜  作者: 日ノ澤しの
第一章 黒焔の婚約者

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第十二話 名前を呼ぶ声



第十二話です。


少しずつ距離が近づく澪と朔夜。

今回は、”名前”を呼ぶことが二人にとってどれほど特別かを描いていきます。




 東雲家へ来てから、澪の周囲には少しずつ変化が増えていた。


 朝餉の時間。


 庭を歩く時間。


 本を読む時間。


 そのどれにも、以前より穏やかな感情が混ざるようになっている。


 それがうれしいことなのだと、澪はまだ上手く認識できていなかった。


「……綺麗」


 鏡台の前で、小さく呟く。


 髪には、昨日贈られた簪。


 淡い薄桜色の石が朝の光を受けて揺れている。


 こんな風に、自分のために選ばれたものを身につける日が来るなんて思わなかった。


 その時。


 ふわり、と。


 薄桜色の花弁が舞う。


「わ……また」


 最近、本当に増えている。

 

 感情が揺れるたび、花弁が零れるようになっていた。


 澪は慌てて花弁を押さえようとする。


 だが、その時。


「朝から随分機嫌が良さそうですね」


「きゃっ……!?」


 突然聞こえた声に、澪は肩を跳ねさせた。


 振り返ると、襖の向こうに榊が立っている。


「さ、榊様……!」


「失礼しました。ですが、花弁が部屋の外まで飛んでいましたよ」


 澪は一気に顔を赤くした。


「も、申し訳ありません……!」


「最近、その謝罪ばかりですね」


 榊は苦笑する。


「別に悪いことではないと思いますが」


 澪は困ったように俯いた。


 東雲家の人たちは、誰もこの力を気味悪がらない。


 それが未だに不思議だった。

「朔夜様も、今日は朝から機嫌が良いですし」


 澪が顔を上げる。


「東雲様が……?」


「ええ。珍しく討伐も会議も入っておりませんので」


 榊は少し楽しそうだった。


「澪様が来てから、屋敷の空気が変わりましたね」


「私が来てから……?」


「はい」


 榊は真っ直ぐ頷く。


「以前はもっと静かでした。……いえ、冷えていた、の方が正しいでしょうか」


 澪は小さく目を伏せた。


 朔夜は、ずっと一人だったのだろうか。


     ◇


 昼頃。


 澪は中庭で洗濯物を畳む使用人たちを手伝っていた。


 本来なら、婚約者がする必要はない。


 けれど何もしないでいる方が落ち着かなかった。


「澪様、本当に大丈夫ですよ?」


「いえ、私も何かしたくて……」


 使用人たちは顔を見合わせ、少し困ったように笑う。


 その時だった。


「……何をしている」


 低い声が響く。


 澪が振り返る。


「東雲様」


 朔夜が立っていた。


 黒い着物姿のまま、静かにこちらを見ている。


 使用人たちが慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません、朔夜様。澪様がどうしても、と……」


 朔夜は洗濯物を抱えた澪を見る。


「お前がやる必要はない」


 澪は少し困ったように笑った。


「ですが、皆さん働いていらっしゃるので……私だけ何もしないのは落ち着かなくて」


 朔夜は黙る。


 それから、小さく息を吐いた。


「……好きにしろ」


 怒っているわけではなさそうだった。


 澪は少しだけ安心する。


 すると、使用人の一人がふっと笑った。


「本当に仲がよろしいですね」


 その瞬間。


 澪の手から布が落ちた。


「え……!?」


 顔が熱くなる。


 朔夜は一瞬だけ目を細めた。


「そう見えるか」


「はい。朔夜様がこうして穏やかに話されるの、珍しいので」


 使用人たちは楽しそうに笑う。


 澪は恥ずかしくて俯いた。


 すると。


「澪」


 不意に名を呼ばれる。


 澪はびくりと肩を震わせた。


「……っ」


 朔夜が、澪の名前を呼んだ。


 ”九条”でも、”お前”でもなく。


 ただ、”澪”と。


 澪は呆然と朔夜を見る。


 紫紺の瞳が静かにこちらを見ていた。


「洗濯物を落としている」


「あ……」


 澪は慌てて拾おうとする。


 だが、その瞬間。


 ふわり、と。


 大量の薄桜色の花弁が舞った。


「わ……!」


 使用人たちが驚きながらも、どこか微笑ましそうに花弁を見上げる。


 朔夜はその中心で、静かに目を細めた。


「……随分分かりやすいな」


「ち、違っ……!」


 何が違うのか自分でも分からないまま、澪は真っ赤になる。


 朔夜は息を吐いた。


 その横顔が、ほんの少しだけ笑って見えたことに、澪は気づかなかった。





第十二話を読んでくださり、ありがとうございました。


今回は、”名前を呼ぶ”との距離感を中心に描きました。


澪にとって、自分を優しく呼んでくれる存在はほとんど初めてです。

そして朔夜もまた、無意識に澪へ特別な接し方をし始めています。 


少しでも楽しんでいただけましたら、


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