第十話 触れる温度
第十話です。
今回は、少しずつ近づき始めた澪と朔夜の距離感を描いていきます。
翌朝。
澪はいつもより少し早く目を覚ました。
障子越しに差し込むあさの光を見つめながら、昨夜のことを思い返す。
ーー帰ってきた時、誰かが起きているのは悪くないな。
朔夜の言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
「……変です」
小さく呟く。
たった一言なのに、何度も思い出してしまう。
澪はそっと胸元を押さえた。
すると。
ふわり、と。
薄桜色の花弁が舞う。
「わ……!」
慌てて両手で抑えるが、花弁は嬉しそうに澪の周囲を漂っている。
感情が揺れると、術が漏れる。
東雲家へ来てから、それが以前より増えている気がした。
「困りました……」
そう言いながらも、少しだけ花弁が柔らかく見えた。
◇
その日の昼頃。
澪は庭園の一角にある東屋で、本を読んでいた。
東雲家の蔵書は多い。
術式書だけでなく、歴史書や外国の本まで揃っている。
九条家では自由に本を読む時間などほとんどなかったため、澪にとっては新鮮だった。
ぱらり、と頁をめくる。
風が心地いい。
静かな時間だった。
だが。
「……っ」
突然、胸の奥がざわついた。
澪は本を閉じた。
空気が重い。
息苦しい。
まるで、あの日の呪具に近い感覚。
「どうして……」
視線を巡らせる。
すると庭の隅、石灯籠の近くに黒い靄が滲んでいた。
澪は息を呑む。
禍の気配。
小さい。
けれど確かにそこにある。
東雲家ほどの強い術家にも、こうして禍が入り込むことがあるのだろうか。
澪は恐る恐る近づいた。
黒い靄は、人の感情みたいに揺れている。
苦しい。
寂しい。
そんな気配がした。
「大丈夫……です」
思わず、そう声をかけていた。
その瞬間。
薄桜色の光がふわりと広がる。
花弁が舞い、黒い靄を包み込んだ。
すると靄は抵抗するように震えた後、ゆっくりと薄れていく。
澪はほっと息を吐いた。
けれど次の瞬間。
「何をしている」
低い声が響く。
澪は肩を震わせた。
「東雲様……!」
朔夜が立っていた。
紫紺の瞳が、消えかけた靄と澪を見ている。
澪は慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません……!勝手に……」
「近づいたのか」
声が少しだけ険しい。
澪は縮こまる。
「小さい禍の気配だったので……その……」
朔夜は小さく息を吐いた。
怒っている。
そう思った。
けれど。
「禍を甘く見るな」
その声は叱責というより、心配に近かった。
澪は目を瞬かせる。
朔夜は澪のすぐ近くまで歩み寄った。
「触れられたか」
「い、いえ」
「気分は悪いか」
「大丈夫です」
朔夜は数秒、澪を見つめる。
その距離が近くて、澪は少し落ち着かなかった。
「……ならいい」
低く呟く。
その時だった。
ぐらり、と。
澪の視界が揺れた。
「あ……」
力を使った反動だ。
小さな禍だったとはいえ、無意識に術を広げたせいで体力を消耗していた。
澪の身体が傾く。
次の瞬間。
ふわりと、身体を支えられた。
「っ……!」
澪は目を見開く。
朔夜の腕だった。
しっかりと肩を支えられている。
「立てるか」
すぐ近くで声がする。
低くて、静かな声。
澪の胸が大きく跳ねた。
「だ、大丈夫です……!」
慌てて離れようとする。
けれど足に力が入らない。
朔夜の眉が僅かに寄る。
「大丈夫には見えない」
「すみません……」
「だから謝るな」
まただ。
この人は、すぐそう言う。
朔夜は小さく息を吐いた後、そのまま澪を東屋の椅子へ座らせた。
「少し休め」
澪は俯いたまま、小さく頷く。
鼓動がうるさい。
触れられた肩が熱い。
すると朔夜が、不意に澪の手元を見た。
「……花弁」
澪ははっとする。
薄桜色の花弁が、二人の周囲を静かに舞っていた。
いつもより柔らかく。
穏やかに。
朔夜はそれを見つめた後、ぽつりと呟く。
「お前の術は、不思議だな」
澪は顔を上げる。
紫紺の瞳が、まっすぐ花弁を見えていた。
怖がるでもなく。
拒絶するでもなく。
ただ静かに。
その光景が、澪には少しだけ嬉しかった。
第十話を読んでくださり、ありがとうございました。
今回は、澪の力と、すこしずつ近づいていく朔夜との距離感を中心に描きました。
まだ自覚はありませんが、二人とも少しずつ互いを特別に感じ始めています。
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