第二話 境目
その日から、何かがずれていた。
最初に気づいたのは、会話の中だった。
「翔太ってさ、ほんま急やったよな」
「びっくりしたわ」
教室の後ろで、いつものメンバーが話している。
何度も繰り返されたその話題に、私はようやく口を挟んだ。
「なあ……翔太って、最近誰かと一緒におらんかった?」
一瞬、空気が止まる。
「え?誰と?」
「いや……誰か」
「いやおらんやろ。そんなやつ」
笑われて、話は終わった。
あっさりと。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
私は何も言えなかった。
おかしい。
絶対にいた。
翔太は、誰かを見ていた。
私じゃない、誰かを。
でも、その“誰か”が分からない。
顔も、名前も、思い出せない。
空白だけが、そこにある。
なのに、その空白だけがやけに重かった。
⸻
放課後、私は一人で廊下を歩いていた。
夕焼けが窓から差し込んで、床を赤く染めている。
ガラスに、自分の顔が映る。
——一瞬だけ。
私の顔が、少しずれた気がした。
皮膚が、浮いたみたいに。
瞬きをすると、元に戻る。
「……は?」
思わず立ち止まる。
もう一度、ちゃんと見る。
何も変わっていない。
でも、さっきの感覚だけが残っている。
“そこにあるはずのものが、少しだけ薄い”。
そんな違和感。
そのときだった。
視界の端に、人影が映る。
廊下の奥。
窓際に、三人並んで立っている。
スーツの男。
若い女。
そして、老婆。
妙だった。
夕焼けがこれだけ強いのに、足元に影が落ちていない。
三人は、じっとこちらを見ていた。
瞬きもせずに。
私は動けなかった。
目が離せない。
逸らしたら、何かが終わる。
そんな確信があった。
スーツの男が、わずかに首を傾げる。
観察するように。
若い女が、ほんの少しだけ口元を歪める。
老婆は、ただ見ている。
変わらず。
動かず。
ただ——
観ている。
その視線に、意味があると分かってしまった。
関わらない。
助けない。
ただ、確認するだけの目。
私は一歩、後ずさる。
瞬間、三人は消えた。
最初から何もなかったみたいに。
⸻
帰り道。
頭の中が、ずっとざわついている。
さっきの三人のことじゃない。
もっと別のもの。
もっと内側の。
——翔太は、誰を見ていた?
その問いが、何度も浮かんでは消える。
答えは出ない。
出ないのに、考えるのをやめられない。
気づけば、足が止まっていた。
住宅街の細い道。
人通りはない。
街灯がひとつだけ、白く光っている。
その下で、私は立ち尽くしていた。
息が浅い。
喉が乾く。
頭の中で、何かが形になりかけている。
——私の方が。
その言葉が、浮かぶ。
「……違う」
すぐに否定する。
そんなこと、思ってない。
思うはずがない。
なのに。
言葉は消えない。
——私の方が、あの人を知っていた。
心臓が強く鳴る。
視界の端で、何かが揺れた気がした。
でも見ない。
見たら、何かが確定する。
そんな気がした。
——私の方が、あの人を見ていた。
呼吸が苦しい。
逃げろ、と体は言っている。
でも足が動かない。
——私の方が、あの人を好きだった。
その瞬間。
背後に気配が現れる。
分かる。
三人いる。
振り返らなくても分かる。
あの三人だ。
スーツの男。
若い女。
老婆。
何も言わない。
何もしない。
ただ、そこにいる。
そして——
観ている。
私を。
この瞬間を。
私は理解する。
これは、ただの感情じゃない。
ここが境目だ。
ここで止めれば、まだ戻れる。
なのに。
止められない。
言葉が、喉の奥から溢れてくる。
「……なぜ」
声が震える。
でも止まらない。
「なぜ、私じゃないの?」
言った。
はっきりと。
否定もなく。
迷いもなく。
その言葉を、“正しいもの”として。
認めてしまった。
その瞬間。
背後の気配が、わずかに動いた。
スーツの男が、ゆっくりと頷く。
若い女が、微かに笑う。
老婆が、ほんの少しだけ目を細める。
まるで——
“確認が終わった”みたいに。
そのとき。
風が、止まった。
ほんの一瞬、違和感が遅れて理解に変わる。
音が、ない。
遠くの車の音も。
電線の揺れる音も。
自分の呼吸すら。
何も聞こえない。
静寂じゃない。
違う。
“音が存在しない”
世界から、自分だけ切り離されたみたいに。
喉が動く。
でも、その音すら分からない。
存在が、曖昧になる。
その無音の中で。
頬に、違和感が走った。
冷たい。
ぬるりとした感触。
私は反射的に顔に触れた。
指先に伝わる、妙な軽さ。
そこにあった何かが、ほんの少しだけ剥がれたような。
ゆっくりと、視線を落とす。
足元に、自分の影がある。
街灯の光に照らされて、はっきりと。
でも。
その影の顔が、歪んでいた。
私じゃない。
裂けた口。
人間じゃありえない形。
その口が、ゆっくりと開く。
音は、しない。
何ひとつ。
私は理解する。
もう、戻れない。
これは——
始まっている。




