第二章 第一話 妬喰い
通夜の帰りだった。
夜なのに、街がやけに白く見えた。
街灯の光が滲んで、足元のアスファルトが濡れているように光っている。
雨は降っていない。
それなのに、どこか湿っている気がした。
黒いワンピースの裾が、足にまとわりつく。
私は一度も振り返らなかった。
振り返っても、もうそこにはいない。
——翔太。
名前を思い浮かべるだけで、胸の奥がきしむ。
事故だった、とみんなは言った。
運が悪かった、とも。
でも、そんなはずがない。
あの夜、翔太は“消えた”。
そうとしか言いようがなかった。
存在ごと、どこかへ抜け落ちたみたいに。
スマホが震えた。
画面を見ると、クラスのグループラインだった。
『ほんまに急すぎるよな…』
『まだ信じられへん』
『あのさ、翔太ってさ、最近誰かとよく一緒おらんかった?』
そのメッセージを見た瞬間、指が止まった。
誰かと。
たしかに、そんな気がした。
でも——
「……誰やっけ」
口に出して、自分で驚いた。
思い出そうとすると、頭の奥がざらつく。
翔太の隣に、誰かいた。
笑っていた気がする。
よく話していた気がする。
でも顔が浮かばない。
名前も出てこない。
空白だけが、そこにある。
なのに。
胸の奥だけが、妙にざわついていた。
駅へ向かう道を歩きながら、私は何度もその“空白”に触れようとした。
思い出せない。
でも確かに“いた”。
そして、翔太はその誰かを見ていた。
私じゃない、誰かを。
足が止まる。
信号待ちの交差点だった。
向こう側に、カップルがいる。
女の子が笑って、男の腕を軽く叩いている。
ただそれだけの光景なのに、息が詰まる。
喉の奥が、じわりと熱くなる。
私は視線を逸らした。
コンビニのガラスに、自分の顔が映っていた。
泣いていない顔だった。
通夜で泣いていた他の子たちとは違って、私の顔には涙の跡がない。
薄情なのかもしれない。
でも違う。
私は、泣けなかっただけだ。
泣く理由が、はっきりしなかっただけだ。
だって私は、ただの友達だから。
ただ——
ただの、友達。
その言葉を頭の中で繰り返した瞬間、胸の奥で何かがきしんだ。
悠斗……じゃない。
翔太。
あの人は、優しかった。
誰にでも同じように優しくて、だから残酷だった。
私が転んだとき、真っ先に手を差し伸べてくれたのも。
夜遅くまで残ったとき、「送るよ」と笑ったのも。
進路で悩んでいたとき、「お前なら大丈夫だろ」って何気なく言ったのも。
全部、覚えている。
全部、私の中に残っている。
でもそれは——
たぶん、特別じゃなかった。
あの人は、誰にでもそうだった。
それでも。
それでも私は。
コンビニのガラスに映る自分の顔が、少し遅れて瞬きをした気がした。
背筋が冷たくなる。
もう一度見る。
やっぱり、そこには私がいる。
でも——
口元だけが、妙に歪んで見えた。
笑っているみたいに。
「……気のせい」
小さく呟いて、信号が青に変わるのと同時に歩き出す。
振り返らない。
振り返ったら、なにかがいる。
そんな確信があった。
駅のホームは空いていた。
ベンチに座り、ようやく息を吐く。
スマホがまた震えた。
『翔太ってさ、誰か好きな人おらんかった?』
別の友達からのメッセージだった。
私は画面を見つめたまま、動けなくなる。
好きな人。
いた。
いた、はずだ。
翔太は、誰かを見ていた。
私じゃない、誰かを。
でもその“誰か”が分からない。
顔も、名前も、何も。
ただ——
ただ、その存在だけが、胸の奥に刺さっている。
まるで、最初からそこにあった傷みたいに。
電車がホームに入ってくる。
窓に映る自分の顔を、ぼんやりと見つめた。
その奥に、誰かが立っていた。
長い髪。
濡れたように張り付いた黒い髪。
顔は見えない。
でも口だけが見えた。
耳の近くまで裂けた、大きな口。
その口が、ゆっくりと開く。
私は反射的に振り返った。
誰もいない。
ホームには、数人の乗客がいるだけ。
喉がひゅっと鳴る。
電車のドアが開く。
私は逃げるように乗り込んだ。
車内の隅に立ち、窓ガラスに映る自分を見る。
……いない。
さっきの女はいない。
なのに。
耳元で、声がした気がした。
湿った、ひどく不快な声。
『どうして』
心臓が強く鳴る。
『どうして、あなたじゃないの?』
私は目を閉じた。
やめて。
それ以上は言わないで。
違う。
私はそんなこと思ってない。
親友に対して、そんな——
『なぜ私じゃないの?』
目を開けた。
窓に映る自分の顔の上に、女の顔が重なっていた。
崩れた皮膚。裂けた口。
黒く濁った目。
その顔が、にたりと笑う。
「ちが……う……」
『あなたも、そう思ってる』
「違う……!」
『なぜ私じゃないの?』
その言葉が、胸の奥に刺さる。
否定できなかった。
だって私は——
私は、あの人のことを。
次の瞬間、窓に映る女の手が、私の頬に触れた。
冷たい。
ガラス越しなのに、ぬるりとした感触が走る。
私は思わず顔を押さえた。
指先に、妙な違和感があった。
皮膚が、少しだけ浮いているような感覚。
そこにあった何かが、一枚だけ剥がれたような軽さ。
電車が揺れる。
誰かが何かを話している。
でも、何も聞こえない。
ただひとつだけ、頭の中で反響していた。
顔も知らない。
名前も知らない。
それでも確かにいた“誰か”。
そして、翔太はその誰かを見ていた。
私は、見られていなかった。
その事実だけが、はっきりと残る。
気づいた瞬間、胸の奥で何かが壊れた。
小さく。
でも確実に。




