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喰い譚-感情を喰う者-  作者: かさ


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最終話 なれなかったもの

音が、ない。


 最初に気づいたのは、それだった。


 風も。


 遠くの車の音も。


 自分の呼吸すら。


 何ひとつ、聞こえない。


 静寂じゃない。


 違う。


 音が存在していない。


 世界から、自分だけ切り離されたみたいに。


 その中で、私は立っていた。


 街灯の下。


 動けないまま。


 頬に触れた指先だけが、やけに鮮明だった。


 ぬるい。


 柔らかい。


 そこにあった何かが、少しだけ剥がれている。


 そんな違和感。


 ゆっくりと、手を離す。


 血は出ていない。


 でも、確実に“何か”が違う。


 前を見る。


 視界が、わずかに歪む。


 その歪みの奥に——


 女がいた。


 長い髪が、濡れたみたいに顔に張り付いている。


 顔の形は崩れている。


 でも、口だけははっきりと見えた。


 耳の近くまで裂けた、大きな口。


 その口が、ゆっくりと開く。


 音はしない。


 何も。


 それでも分かる。


 あれは、“私を見ている”。


 逃げなければいけない。


 そう思う。


 でも体は動かない。


 逃げる理由が、もう残っていないから。


 私は、分かっている。


 ここまで来たのは、私だ。


 誰のせいでもない。


 翔太は、私を見ていなかった。


 あの人は、誰かを見ていた。


 私じゃない、誰かを。


 顔も。


 名前も。


 思い出せない。


 でも確かにいた“誰か”。


 その存在が、ずっと胸の奥に刺さっている。


 比較する相手すら分からないのに。


 負けていると、はっきり分かる。


 その理不尽さが、何よりも許せなかった。


「……なんで」


 声は出ているはずなのに、聞こえない。


 それでも、口は動く。


「なんで……」


 女が、一歩近づく。


 音はない。


 ただ距離だけが、確実に縮まる。


 私は、逃げない。


 逃げられない。


 もう、その必要がないと分かっているから。


 言葉が、溢れる。


 抑えきれない。


「私の方が」


 止まらない。


「私の方が、あの人を見てた」


 胸が痛い。


 でも、それすらどうでもよくなる。


「私の方が、あの人を知ってた」


 視界の端が、歪む。


 世界が、少しずつ形を失っていく。


「私の方が、あの人を——」


 好きだった。


 その言葉は、もう言う必要がなかった。


 意味は、すでに完成している。


 私は、認めてしまった。


 その瞬間。


 女の顔が、目の前にあった。


 いつの間にか。


 距離が消えている。


 裂けた口が、さらに広がる。


 喜んでいる。


 それが分かる。


 私は、抵抗しない。


 ただ、見ている。


 自分の終わりを。


 女の手が、私の頬に触れる。


 冷たい。


 ぬるい。


 指じゃない。


 もっと柔らかくて、粘ついた何か。


 それが、皮膚の上をなぞる。


 そして。


 強く、掴む。


 逃がさないように。


 確実に。


 そのまま。


 ゆっくりと——


 剥がした。


 音はしない。


 何ひとつ。


 でも、分かる。


 自分の顔が、剥がれていく。


 視界が、歪む。


 崩れる。


 輪郭が消える。


 痛みはない。


 ただ、“自分がなくなる”感覚だけがある。


 女は、それを自分の顔に貼り付ける。


 一瞬だけ。


 “私”になる。


 でも。


 すぐに崩れる。


 ぐちゃりと。


 形を保てずに。


 また剥がす。


 また貼る。


 崩れる。


 繰り返す。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 私は、理解する。


 ああ。


 これは。


 “なりたかったもの”じゃない。


 違う。


 “なれなかったもの”だ。


 女は、止まらない。


 何度でも繰り返す。


 なれないものを、なろうとして。


 壊し続ける。


 その姿が。


 ひどく、滑稽で。


 そして。


 どうしようもなく、私だった。


 視界が、暗くなる。


 形が消える。


 輪郭がなくなる。


 世界がほどけていく。


 私は、最後に理解する。


 私は。


 最初から。


 誰にも、なれなかった。


その日、ひとり、いなくなった。


気づいていた。


それでも、私は。


……何も、言わなかった。




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