第三章 喉喰い 第一話 「言わなくてもいい」
「あの時、言えばよかった」
何度そう思ったかわからない。
たった一言でよかった。
“やめなよ”
それだけで、あの子は――
……いや、違う。
本当は、もっとわかっていた。
あの時のあの子は、もう止まれないところまで来ていたことも。
それでも。
それでも私は、何も言えなかった。
空気を壊すのが怖かった。
嫌われるのが怖かった。
そして、ほんの少しだけ――
羨ましいと思っていた。
だから、見て見ぬふりをした。
その結果が、これだ。
あの子は消えた。
理由もわからないまま。
ただ、“いなくなった”。
昨日まで、隣で笑っていたのに。
今はもう、どこにもいない。
「ねえ、最近さ」
昼休み。
友達が話しかけてくる。
何気ない会話。
いつも通りの時間。
「……」
返事をしようとして。
やめた。
別に、今返さなくてもいい気がした。
少し考えてからでもいいし、
聞いてるだけでもいい。
それに。
なんとなく、話す気になれなかった。
「聞いてる?」
「あ、うん」
短く返す。
それだけで、十分だった。
それ以上、言葉を続ける必要はない気がした。
「今日の放課後どうする?」
「……」
少しだけ考える。
行くかどうか。
どうでもいい。
どっちでもいい。
「どっちでもいいかな」
自分でも驚くくらい、淡々とした声だった。
前は、こんな言い方しなかった気がする。
でも。
別にいいか、と思った。
それ以上、会話を広げる気にもならない。
無理に話す必要もない。
「そっか」
友達は少しだけ不思議そうな顔をしたけど、すぐに別の話題に移った。
それでいい。
問題はない。
誰も困っていない。
だから。
これでいい。
――そう思った。
その時だった。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
教室の後ろ。
誰もいないはずの場所に――
立っていた。
黒いスーツの男。
その隣に、若い女。
少し離れて、俯いた老婆。
三人とも、こちらを見ている。
何も言わない。
ただ、見ている。
まるで。
“そのままでいい”とでも言うように。
瞬きをした。
次の瞬間には、もういなかった。
「……今の」
声に出そうとして。
やめた。
言う必要はない気がした。
説明するのも面倒だし、
どうせ気のせいだ。
そう思った。
自然に。
違和感すらなく。
それからだ。
少しずつ、話すことが減っていったのは。
最初は、ほんの些細なことだった。
「おはよう」とか。
「ありがとう」とか。
「またね」とか。
言わなくても、困らない。
だから、言わない。
ただ、それだけ。
でも。
気づけば。
私はほとんど、話さなくなっていた。
教室の中で、みんなが笑っている。
会話が飛び交っている。
その中に、私もいる。
でも。
私は何も言っていない。
頷いて、笑って。
“そこにいるフリ”をしているだけ。
それでも、誰も気づかない。
誰も、困らない。
だから。
これでいいんだと思った。
――そう思ってしまった。
けれど。
胸の奥に、ずっと残っているものがある。
あの時、言えなかった言葉。
あの子に向けて、言うべきだった言葉。
それだけが、ずっとそこにある。
出す必要はない。
出さなくてもいい。
そう思っているはずなのに。
なぜか、それだけは消えない。
喉の奥に、何かが残っているような感覚。
言葉にならないままの何か。
それを、見ないふりをするように。
私はまた、口を閉じた。
そして気づかなかった。
その瞬間。
教室の後ろで。
あの三人が、静かにこちらを見ていたことに。




