第二話 「言えない」
朝、目が覚めたとき。
最初に思ったのは――
静かだ、ということだった。
いつもと変わらないはずの部屋なのに。
音が、少ない。
カーテンの隙間から差し込む光も、
外を走る車の音も、
全部がどこか遠く感じる。
……いや。
違う。
音が遠いんじゃない。
“自分が遠い”。
そんな感覚だった。
「……」
何か言おうとして。
やめた。
別に、言うこともない。
誰かがいるわけでもないし、
独り言なんて、必要ない。
そう思った。
自然に。
違和感もなく。
顔を洗って、支度をして、家を出る。
その間、一度も声を出していないことに気づいたのは。
玄関のドアを閉めたあとだった。
「……あ」
声を出そうとしてみる。
問題なく出る。
普通だ。
いつも通り。
それなのに。
なぜか少しだけ、安心した。
――何に対してなのかは、わからなかった。
学校に着く。
教室に入ると、いつも通りの空気が流れている。
誰かが笑って、誰かが話して。
その中に、私も混ざる。
「おはよ」
声をかけられる。
私は、少しだけ間を置いて――
頷いた。
「……」
返事をしようとして。
一瞬だけ、言葉が浮かばなかった。
いや、浮かんではいる。
“おはよう”と返すだけ。
簡単なはずなのに。
なぜか、言葉にするまでに時間がかかる。
「どうしたの?無視?」
「あ……ごめん」
遅れて、声が出る。
少しだけ、掠れていた気がした。
「なんか今日、変じゃない?」
「……そんなことないよ」
そう答える。
ちゃんと、言えた。
でも。
ほんの一瞬だけ。
喉の奥に、違和感が残る。
引っかかるような。
何かが、そこにあるような。
気のせいだと思った。
気のせいでいい。
そう思った。
授業が始まる。
先生の声が、遠く聞こえる。
ノートを取る。
ペンが紙を滑る音だけが、妙に大きく感じる。
その途中で。
ふと、思い出す。
――あの時。
あの子に言えなかった言葉。
「やめなよ」
それだけでよかった。
たった、それだけで。
「……」
口を開く。
何もない教室の中で。
その言葉を、今さらでもいいから出してみようとする。
「やめ――」
そこで、止まる。
出てこない。
言葉は、頭の中にはっきりある。
でも。
それ以上、進まない。
喉の奥で、止まっている。
まるで。
そこから先に進むことを、拒まれているみたいに。
「……なんで」
小さく呟く。
今のは、出た。
普通に出た。
なのに。
あの一言だけが、出てこない。
何度も試す。
「や……」
「やめ……」
「……」
ダメだ。
出てこない。
言葉が、途中で消える。
“その言葉だけ”が、使えないみたいに。
背筋が、少し冷える。
その時だった。
「――」
視線を感じる。
ゆっくりと、顔を上げる。
教室の後ろ。
そこに。
いた。
黒いスーツの男。
その隣に、若い女。
少し離れて、俯いた老婆。
前よりも、近い。
確実に。
距離が、縮まっている。
三人とも、こちらを見ている。
何も言わない。
ただ、見ている。
その視線に。
“観察されている”というより――
“確認されている”ような感覚があった。
まるで。
「順調だね」とでも言うように。
「……っ」
声を出そうとする。
あの三人に向かって。
何かを言おうとして。
でも。
言葉が、出てこない。
さっきとは違う。
今度は――
何も出てこない。
喉が、動かない。
息だけが、漏れる。
「……っ、ぁ」
音にならない。
口だけが動く。
焦りが、一気に押し寄せる。
さっきまで、普通に話せていたのに。
どうして。
どうして今だけ。
言葉が、出ない。
喉の奥が、重い。
まるで。
そこに何かが“詰まっている”みたいに。
「……ぁ……」
必死に声を出そうとする。
でも。
出ない。
何も。
その様子を。
三人は、ただ見ていた。
何もせず。
助けることもなく。
ただ。
見ていた。
そして。
ゆっくりと。
――頷いた。
その瞬間。
喉の奥にあった“何か”が。
少しだけ。
確実に。
深く沈んだ気がした。




