最終話 怒喰い
音は、戻らなかった。
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世界は、
切り離されたまま、
止まっている。
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男だけが、
そこに立っていた。
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そして、
“それ”も。
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背後にあるはずの“それ”は、
すでに境界を失っていた。
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外なのか、
内なのか、
分からない。
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ただ、
そこにある。
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男は、
ゆっくりと息を吸う。
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何も聞こえない。
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何も感じない。
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なのに、
一つだけ分かる。
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“それ”は、
自分の中にあった。
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ずっと前から。
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押し込めてきたもの。
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飲み込んできたもの。
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言えなかったもの。
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怒れなかった、
すべて。
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それが、
形を持っている。
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男の口元が、
わずかに歪む。
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笑っている。
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だが、
その笑みは、
もう人間のものではなかった。
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そのとき、
喉が、
ひくりと震えた。
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「――っざけんなよ」
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声が、
漏れる。
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小さく。
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だが、
止まらない。
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「なんで俺が」
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歯が、
軋む。
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「全部、俺がやってたやろが」
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呼吸が、
乱れる。
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「なんで、あいつが」
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視界が、
歪む。
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「なんで俺が責められてんねん」
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言葉が、
止まらない。
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抑えていたはずのものが、
一気に溢れ出す。
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顔が、
歪む。
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笑っているのか、
怒っているのか、
分からない。
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その瞬間。
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何かが、
弾けた。
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音は、
なかった。
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だが、
“世界が割れた”感覚だけがあった。
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“それ”が、
動く。
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男の体に、
ゆっくりと重なっていく。
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背中から。
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腕から。
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胸から。
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侵食する。
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溶ける。
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境界が、
消える。
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男の思考が、
ほどけていく。
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名前が、
曖昧になる。
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記憶が、
崩れていく。
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怒りだけが、
残る。
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黒く、
濃く、
歪んだ感情だけが。
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男は、
気づく。
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いや、
気づいたのかすら、
分からない。
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自分が、
“どちら側”なのか。
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分からなくなる。
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人間なのか。
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“それ”なのか。
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境界は、
すでに、
消えていた。
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その瞬間。
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“男だったもの”の中で、
何かが、
完全に切り替わる。
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音が、
わずかに戻る。
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会議室。
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誰も、
何も気づいていない。
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上司が、
何かを言っている。
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部下が、
下を向いている。
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すべて、
さっきまでと同じ光景。
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ただ一つ、
違うことがあった。
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そこに、
“男”はいなかった。
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立っているのは、
同じ姿をした、
別の何かだった。
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それは、
ゆっくりと、
顔を上げる。
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目は、
黒かった。
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底のない、
黒。
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視線の先で、
三人が、
静かに見ている。
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スーツの男。
若い女。
老婆。
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何も言わない。
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ただ、
見ている。
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それで、
十分だった。
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“それ”は、
理解する。
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――次は、
誰だ。




