第二話 怒らない人間
その男は、怒らない人間だった。
どれだけ理不尽なことを言われても、
どれだけ仕事を押し付けられても、
どれだけ馬鹿にされても。
「大丈夫です」
そう言って、笑っていた。
⸻
誰かがミスをすれば、代わりに謝る。
誰かがサボれば、その分を埋める。
誰かが責任を押し付ければ、受け入れる。
「すみません、やっておきます」
それが、当たり前だった。
⸻
周りは、それを“優しさ”と呼んだ。
⸻
「ほんまいい人やな」
「怒ったとこ見たことないわ」
「助かるわ〜」
⸻
男は、笑っていた。
いつも通りに。
⸻
だが、
ほんのわずかに、
ズレていた。
⸻
返事が、少し遅れる。
笑顔が、ほんの一瞬だけ遅れて浮かぶ。
目が、合わないことがある。
⸻
けれど、
誰も気にしなかった。
⸻
“いい人”だから。
⸻
その日も、同じだった。
⸻
無理な締切を押し付けられ、
終わらない量の仕事を渡される。
「これ今日中で頼むわ」
⸻
「……はい」
⸻
ほんの一瞬だけ、間があった。
⸻
「大丈夫です」
⸻
笑っていた。
⸻
昼休み。
一人でコンビニのパンをかじる。
スマホを見ているふりをしながら、
何も見ていない。
⸻
誰とも話さない。
誰にも話しかけられない。
⸻
それでも、
笑っていた。
⸻
帰り際、
上司に呼び止められる。
⸻
「これもやっといてくれへん?」
⸻
書類の束を渡される。
⸻
「……はい」
⸻
また、一拍遅れる。
⸻
「大丈夫です」
⸻
そのときだった。
⸻
胸の奥に、
何かが落ちた。
⸻
どす黒い。
⸻
言葉にできない、
重たいもの。
⸻
一瞬で、
広がる。
⸻
自分の感情のはずなのに、
どこか、違う。
⸻
掴めない。
形がない。
⸻
なのに、
確かに“ある”。
⸻
男は、
ほんのわずかに、
息を止めた。
⸻
押し込めるように、
もう一度、笑う。
⸻
「……大丈夫です」
⸻
その声は、
いつもと同じだった。
⸻
けれど、
その奥で、
何かが、
確かに、
蠢いていた。
⸻
男は歩き出す。
⸻
何もなかったように。
⸻
だが、
胸の奥に落ちた“それ”は、
消えていなかった。
⸻
むしろ、
ゆっくりと、
広がり続けていた。
⸻
気づかないふりをしながら、
男は、
笑っていた。
⸻
その笑顔は、
ほんのわずかに、
歪んでいた。




