第39話 森の異変
午後の光は柔らかかった。
だが街道を外れ、森へ続く細道に足を踏み入れた瞬間——空気が変わった。
湿っている。
重い。
土と草と、わずかに混じる獣の匂い。
街の空気とはまるで違う。
レオンは無意識に呼吸を浅くした。
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背後では街のざわめきがまだ微かに聞こえる。
だが数歩進むごとに、それも遠ざかっていった。
代わりに耳に入るのは——風。
枝を揺らす乾いた音だけ。
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(静かすぎる)
思わず足を止める。
本来、森とはもっと騒がしい場所だ。
鳥の声。
虫の羽音。
小動物が落ち葉を踏む気配。
だが今は違う。
音が、薄い。
まるで森そのものが息を潜めているようだった。
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腰の剣に触れる。
意識してではない。
体が勝手にそうしていた。
朝の訓練が、まだ体に残っている。
「見るな。感じろ」
グラードの声が脳裏をよぎる。
視界より先に、空気を読む。
それが生き残る術だ。
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ゆっくりと歩を進める。
踏み出す前に地面を見る。
枝を避ける。
音を立てない。
村にいた頃は気にも留めなかった動作だった。
だが今は違う。
一歩の音が、生死を分けることもある。
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しゃがみ込む。
土に刻まれた跡を見る。
足跡。
いくつも重なっている。
小型魔物のものだ。
だが——向きが妙だった。
森の奥から、外へ。
逃げるように。
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(何から逃げている)
視線を上げる。
木々の間は暗い。
昼だというのに、奥は夜のようだった。
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風が止まる。
葉が揺れなくなる。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
見られている。
そんな錯覚。
いや——本能だった。
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レオンはゆっくりと立ち上がる。
剣を抜くほどではない。
だが、いつでも抜ける位置に親指をかける。
半歩だけ重心を落とす。
逃げ道を残す。
基礎。
叩き込まれた動き。
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数秒。
何も起きない。
だが緊張だけが残る。
息を吐く。
肩の力をわずかに抜く。
(……気にしすぎか?)
そう思った時だった。
遠くで何かが走る音。
速い。
こちらへは来ない。
逃げている。
間違いなく。
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森は弱肉強食だ。
だが今のこれは——偏っている。
捕食者がいる側の静けさだった。
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それでも依頼は依頼だ。
無理はしない。
だが引き返す理由もまだない。
慎重に進む。
視線を巡らせながら。
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森の外縁から上層付近まで慎重に足を運んだ。
やがて開けた森の所まで来た。
森の木陰になっている隅の方に、見慣れた葉を見つける。
灰色がかった緑。
細く、鋭い葉先。
灰青草だ。
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周囲を見る。
気配はない。
だが油断はしない。
しゃがむ前にもう一度だけ森を見渡す。
静寂。
それが逆に怖い。
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膝を折る。
根元に指を入れる。
ゆっくりと引き抜く。
土がほぐれる。
香りが立つ。
薬草特有の、少し苦い匂い。
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一本。
保存袋へ。
また一本。
だが手を動かしながらも、意識の半分は周囲に向いている。
耳。
風。
影。
すべてを感じ取ろうとする。
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その時。
ぱきり、と枝が折れた。
体が跳ねるように動いた。
振り向く。
剣を半分抜く。
——森鹿だった。
だが様子がおかしい。
こちらを見ることすらない。
脇を全速力で駆け抜けていく。
目が恐怖に見開かれている。
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(やっぱりだ)
何かがいる。
この森に。
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剣を押し戻す。
呼吸を整える。
焦るな。
基礎を思い出せ。
視野を広く。
逃げ道を確保。
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それでも、採取の手は止めない。
止まる方が危険な時もある。
手早く抜く。
袋に入れる。
あと少しで規定量だ。
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風が戻る。
葉が揺れる。
だが胸の奥のざわめきは消えない。
むしろ強くなる。
何かが近い。
理由はない。
だが分かる。
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最後の一本を抜こうとした、その瞬間。
ぞわり、と空気が震えた。
背筋に氷を流し込まれたような感覚。
本能が叫ぶ。
——動け。
---——
来る。
そう理解するより早く、地面が震えた。
最初は錯覚かと思った。
だが違う。
一定の間隔で、足元に鈍い衝撃が伝わってくる。
重い。
何か巨大なものが地を踏み鳴らしている。
直後——
森の奥から爆ぜるような音。
バキィン!!
太い幹が横からへし折られる。
枝が裂け、葉が宙に舞う。
静寂だった森が、一瞬で破壊された。
反射的に剣へ手が伸びる。
呼吸が浅くなる。
逃げるか?
判断しろ。
だが——遅い。
もう近い。
藪が弾けた。
−−−
現れたのは、巨体。
猪。
しかし、ただの猪ではない。
脚の高さはレオンの胸に届きそうだった。
盛り上がる筋肉。
泥に覆われた分厚い皮膚。
そして——牙。
腕ほどもある白い牙が左右に突き出している。
記憶が跳ね上がる。
−−−
薄暗い講義室。
机に広げられた魔物図鑑。
ダリオの落ち着いた声。
「いいか、ボアとグランザを見間違えるな」
「死ぬぞ」
ページに描かれていた挿絵が脳裏に浮かぶ。
「グランザは中層域の魔物だ」
「外縁に出ることは滅多にない」
(……グランザ)
間違いない。
背筋が冷える。
−−−
(なんでこんな場所にいる)
森の中層に近い上層ならまだしも、ここは新人でも入れる外縁部だ。
本来なら遭遇しない。
つまり——
(何かに押し出されている?)
嫌な考えが浮かぶ。
グランザが鼻を鳴らす。
土が削れる。
小石が跳ねる。
赤黒い目がレオンを捉えた。
完全に、獲物を見る目だった。
−−−
ダリオの声が再び蘇る。
「いいか、グランザと正面から力比べをするな」
「人間が勝てる相手じゃない」
「突進を受けたら終わりだ」
「避けろ。必ず横へ流せ」
逃げ道を探す。
左は倒木。
右は藪。
後ろ——開けている。
走れば逃げられる。
だが。
突進の方が速い。
理解できた。
逃げるなら——タイミングがすべて。
−−−
グランザの前脚が地面を叩く。
一瞬の静止。
来る。
爆発。
巨体が弾丸のように突っ込んできた。
速い。
重い。
地面が抉れる。
(横へ流せ!)
思考ではない。
反射だった。
体を捻る。
半歩では足りない。
大きく跳ぶ。
風圧が体を叩いた。
直後——
背後で轟音。
振り向く。
太い木が、根元から折れていた。
(まともに受けたら即死だ…!)
恐怖が、逆に頭を冷やす。
−−−
ダリオの講義が続く。
「狙うなら牙だ」
「突進の軌道を作っているのはあれだ」
グランザが向きを変える。
小回りは利かない。
今だ。
踏み込む。
剣を胴体目掛けて落とす。
剣が弾かれる……硬い。
皮膚が厚すぎる。
怒号のような咆哮。
牙が振り上がる。
(受けるな!)
剣を滑らせる。
流す。
衝撃が腕を貫く。
骨が軋む。
だが折れない。
(正面は無理だ)
−−−
狙うのは——武器。
牙。
再び突進。
だが今度は読める。
半歩。
さらに半歩。
軸を残す。
すれ違いざま——
剣を振る。
いや。
全身を使って踏み込む。
——手応え。
硬質な何かが砕ける感触。
白い破片が宙を舞った。
−−−
牙だ。
片方が、根元から斬り落とされていた。
絶叫。
森が震える。
グランザが暴れる。
だが突進は来ない。
距離を取っている。
警戒している。
血が滴る。
赤い目が揺れる。
数秒。
睨み合う。
心臓の音がやけに大きい。
やがて。
グランザは後退した。
一歩。
二歩。
そして巨体を翻し、森の奥へ消えた。
−−−
逃げた。
追わない。
追える相手ではない。
剣を下ろす。
肩が大きく上下する。
遅れて汗が噴き出した。
(……ダリオの言う通りだ)
正面からやっていたら、死んでいた。
知識が命を救った。
地面に転がる牙を見る。
重い。
これだけで危険が伝わる。
拾い上げ、袋へ括る。
証拠だ。
報告しなければならない。
森を見つめる。
静寂が戻っていた。
だがもう分かる。
これは自然な静けさじゃない。
強い何かが——奥にいる。
−−−
(薄影豹……グランザ……)
偶然じゃない。
胸の奥に、不穏な予感が沈む。
剣を収める。
息を整える。
決めた。
今日は帰る。
深追いはしない。
生きることが最優先だ。
---
森を抜けた瞬間、空がやけに広く見えた。
肺いっぱいに息を吸う。
風が軽い。
生きている実感が戻る。
振り返る。
木々は何も語らない。
だが確信していた。
あそこはもう、安全圏ではない。
---
「……次は、もっと上手くやる」
小さく呟く。
恐怖はあった。
だが逃げなかった。
知識が、自分を生かした。
レオンは街へ向かって歩き出した。
牙の重みを肩に感じながら。
冒険者として、確かな一歩を刻みながら。
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