第38話 基礎
冒険者になって、数ヶ月が過ぎていた。
最初に握った時は鉛のように重く感じた剣も、今では違和感なく手に収まっている。
掌には硬いマメがいくつもできていた。潰れ、血が滲み、やがて皮膚が分厚く変わる。
痛みはもうない。
それが当たり前になった。
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食堂でも、いつの間にか「新人」とは呼ばれなくなっていた。
「レオン、肉回してくれ!」
「スープ見といてくれ!」
名前で呼ばれる。
それだけのことが、少しだけ誇らしい。
だが——
(まだ足りない)
自分の位置は理解している。
駆け出しを抜けかけた程度。
本物には遠い。
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朝の訓練場は冷えていた。
吐く息が白い。
握った木剣が、ひやりと掌の熱を奪う。
向かいに立つのはグラード。
右脚をわずかに引きずっているというのに、その立ち姿には微塵の隙もない。
風に揺れる岩のようだった。
動かない。
だが、押せばこちらが砕けると分かる。
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「来い」
たった一言。
合図だった。
地面を蹴る。
距離を詰める。
踏み込みは鋭い。
以前の自分とは違う。
振り下ろす——
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その瞬間。
視界が揺れた。
木剣が滑る。
足元が消える。
次に見えたのは空だった。
背中に衝撃。
肺の空気が一気に押し出される。
倒されていた。
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「……前より悪くねぇ」
見下ろす声は静かだ。
悔しさが遅れて込み上げる。
手を取らず、自力で立ち上がる。
砂を払う。
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「今の、何が悪かったか分かるか」
呼吸を整えながら考える。
速さはあった。
力も乗せた。
だが——
「踏み込みが大きすぎた。避けられた後、止まれない」
グラードが小さく頷く。
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「突っ込みすぎだ」
木剣を軽く振る。
「剣は振るもんじゃねぇ」
一歩。
そして——落ちた。
風が遅れて鳴る。
「落とすもんだ」
無駄が一切ない。
ただ最短でそこにあった。
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「もう一度来い」
踏み込む。
打つ。
弾かれる。
崩される。
また地面。
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「力むな。流せ」
「腕で振るな。全身を使え」
「見るな。感じろ」
短い言葉が飛ぶ。
だが理解できる。
料理に似ている。
火加減を誤れば台無しになる。
力任せでは味は整わない。
剣も同じだ。
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何度倒されたか分からない。
肩で息をする。
腕が重い。
足が震える。
だが——
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「立て」
低い声。
それだけで、体が動く。
歯を食いしばり、立ち上がる。
倒れている時間が一番無駄だと、もう知っている。
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再び踏み込む。
今度は半歩で止める。
軸を残す。
逃げ道を消さない。
打つ。
止められる。
だが——
崩れない。
初めてだった。
木剣越しに衝撃が腕へ走る。
それでも立っている。
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グラードの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……悪くねぇ」
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
たった一言。
それだけで十分だった。
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「覚えとけ」
木剣を肩に担ぐ。
「強い奴は、基礎を飽きるまでやる」
一拍。
「弱い奴ほど、すぐ技を欲しがる」
風が抜ける。
言葉だけが残る。
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「料理も剣も同じだ」
レオンの視線が上がる。
「基礎を舐めた奴から消える」
静かな断言だった。
経験が滲んでいる。
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さらに打ち込もうとした時だった。
「今日はここまでだ」
肩が大きく上下していることに気づく。
いつの間にか汗が背中を伝っていた。
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グラードが建物を顎で指す。
「昼が来るぞ」
その一言で現実へ戻る。
剣の時間は終わり。
次は火の前だ。
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厨房の扉を押し開けた瞬間、熱が全身にまとわりついた。
朝の冷気が嘘のようだった。
炎の揺らぎ。
鉄鍋のぶつかる音。
刻まれる野菜の乾いたリズム。
すでに戦いは始まっている。
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「レオン!遅いぞ!」
「悪い!」
腕が重い。
木剣の感触がまだ掌に残っている。
だが立ち止まる暇はない。
包丁を握る。
その瞬間、不思議と呼吸が整った。
(……大丈夫だ)
火の前に立つと、体が勝手に動く。
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玉ねぎを刻む。
刃が落ちるたび、リズムが生まれる。
トン、トン、トン。
修行で乱れた呼吸が、その音に合わせて整っていく。
料理は呼吸だ。
焦れば乱れる。
乱れれば味も崩れる。
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「肉行くぞ!」
振り向く。
投げられた塊肉を受け取る。
重い。
だが迷わず筋へ刃を入れる。
断つべき場所が見える。
修行と同じだ。
無駄を削ぐ。
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火に落とす。
脂が爆ぜる。
熱が腕を焼く。
それでも鍋を振る。
手首だけじゃない。
腰で振る。
(全身を使え)
グラードの言葉が蘇る。
剣も鍋も同じだった。
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「いい匂いしてきたぞ!」
「次の皿まだか!」
食堂の圧が押し寄せる。
注文が飛ぶ。
皿が消える。
補充が追いつかない。
昼の戦争が始まった。
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汗が顎を伝う。
腕が悲鳴を上げる。
それでも止めない。
止まれば崩れる。
厨房とはそういう場所だ。
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視界の端にグラードが立つ。
腕を組み、何も言わない。
だが見ている。
あの視線があるだけで、不思議と背筋が伸びた。
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「レオン!スープ任せていいか!」
「ああ!」
鍋を覗く。
沸騰寸前。
火を落とす。
塩をひとつまみ。
味を見る。
わずかに足りない。
骨出汁を足す。
整う。
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「……動きが軽くなったな」
いつの間にかグラードが隣にいた。
「毎朝転がされてるからな」
鼻で笑う。
「まだまだ転がすがな」
短いやり取り。
だがそれが妙に嬉しい。
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怒号。
笑い声。
皿の山。
そして——静寂。
気づけば、戦争は終わっていた。
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「はぁ……終わった……」
誰かが壁にもたれる。
別の料理人が床に座り込む。
達成感と疲労が混ざった空気。
嫌いじゃない。
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桶の水で顔を洗う。
冷たさが心地いい。
腕はまだ震えている。
だが悪くない震えだった。
積み上げた疲労。
それはつまり、今日も前に進んだ証だ。
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グラードがぼそりと言う。
「剣の後にこれだけ動けりゃ上等だ」
視線が合う。
「倒れねぇ奴は強くなる」
一拍。
「覚えとけ」
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短い休息の後、ギルドのホールへ向かう。
午後の光が差し込み、掲示板を照らしていた。
無数の依頼書が揺れている。
討伐。採取。護衛。
冒険者の生きる場所だ。
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紙を一枚取る。
灰青草の追加採取。
難度は高くない。
だが、その時——
違和感に気づく。
似た依頼が多い。
森の上層から外縁部ばかりだ。
さらに目を滑らせる。
群れの目撃情報。
縄張りの変化。
小型魔物の増加。
(……何か動いている?)
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
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「依頼選びか」
振り向くとグラードが立っていた。
「焦るな」
「まだ採集にしておけ」
「採集は森の地形を把握するのに一番良い依頼だ」
低い声。
「討伐依頼をしたがる奴は、強くなるのは早い——大抵、早死にする」
一拍。
「長く生きろ」
それだけ言って背を向ける。
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依頼書を握る。
基礎を積む。
一歩ずつ。
剣も。
料理も。
冒険者としても。
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ギルドの扉を押し開ける。
午後の風が頬を撫でた。
街の喧騒の向こうに、森が見える。
静かだった。
だが——
どこか、不自然なほどに。
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(悪くない)
小さく呟き、歩き出す。
次の戦場へ。
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