第百六十九話 憤怒の炎
ヴァルターとグレアズは獣人とコボルトたちのちょうど中間の場所で対峙した。互いに武器は持っていない。ヴァルターは左手で右拳をさすり、グレアズは細い首をコキッと鳴らす。
「始めていい?」
ヴァルターが軽い調子で聞いた。
「いいからさっさと来いよ」
怠そうにしているグレアズがその返事を口にするやいなや、ヴァルターの目にもとまらぬ一撃が相手の頬を強打していた。殴られたグレアズはまったく反応できずに尻餅をつく。
次の瞬間、彼の目前に何かが迫ってきて視界を覆った。いつの間にか繰り出されたヴァルターの足が、その頭をボールのように蹴り飛ばす寸前でピタリと止まっていた。
「これで終わりでいい? それともまだやる?」
あまりに一瞬のことで場の誰もがシンとしてしまった。やられたグレアズもしばらく呆然としていたが、ようやく何をされたのかに気がつくと、ヴァルターを見上げるその目に屈辱と怒りの炎が宿った。
「殺す。燃やし尽くしてやる」
「馬鹿! 火は使わないって約束しただろ! ただ元の姿に戻って力を見せつけるだけでいいんだ!」
歯を食いしばるグレアズの不穏な言葉にガディが何やら慌て始めた。
「知るかよ。俺はそんなこと約束した覚えはねー」
少し距離を取って相手の出方を見守っていたヴァルターの前で青年の体が変化した。それは一瞬にして見上げんばかりの巨大な赤竜の姿となっていた。
「これはいかんな。全員逃げろ!」
竜の姿を見たヴァルターの判断とそれに従う獣人たちの動きは極めて迅速だった。ルドルフも一目散に村へと駆けていく彼らの後を追って走り出す。
ボウっと何かが勢いよく燃えるような音に振り向くと、そこには竜の吐いた炎によって焼けている森と、炎の中で咆哮する赤竜の姿があった。「やめろー!」と言うガディの声が逃げる背後にかすかに聞こえた。
物凄い速度で坂を駆け下りながら、ヴァルターと一人の獣人が何やら相談をしている。
「どうします村長」
「ただの人間じゃないとは思っていたが、まさか竜だったとはねえ。ひとまず万一を考えて女子供を山の中に逃がしとけ。だが村を燃やされちゃたまらん。腕っぷしに自信のある奴らはおのおの武器を持って集合だ。なんとかあいつを食い止めるぞ」
「なんとかって具体的にはどうするんで?」
「なんとかはなんとかだよ。俺だって竜と戦ったことなんてねえ」
横でその会話を聞きながら黙って駆けるルドルフは、これはどうしたものかと考えていた。自分には竜と戦った経験はある。倒せる手段もある。しかしそれでも竜が危険な相手であることに違いはない。うかつに矢面に立ちたくはなかった。
村まで逃げてくると、人々は遥か山中に上がる炎と煙を何事かと見上げていた。その山火事の範囲は徐々に広がり、どうやらこちらに近づいてきている。
ともに逃げてきた獣人の一人が「竜が来るぞ」と叫ぶと場は騒然となり、人々の間に混乱が広がった。その混乱のうちに続いて飛ばした避難の指示はかき消されてしまう。
同行していた獣人たちが慌てて事態を収拾しようとするが、とても追いつかない。あの第一声は明らかに失敗だった。この調子だと村人たちが退避、あるいは迎撃の準備を完了する前に竜がここまで来てしまうかもしれない。もともと戦の備えなどない村なのだ。
「まずいな。ウーフ。なにかいい知恵はないか? きっとあるだろ? なあ」
さすがのヴァルターもいつもよりかは余裕がない。
回答を振られたルドルフはどこからともなく一振りの剣を取り出した。それは何の飾り気もない鞘に収まっていて、見事な装飾の施された柄との間でちぐはぐ感をかもしだしている。そしてその柄の端っこが欠けているのが妙に目立つ。
ルドルフがスラリとその剣を抜いて見せると、吸い込まれるような深紅の刀身が姿を現した。
「使え。これは竜殺しの剣だ。竜の硬い鱗をバターのように切り裂くことができる。竜はこいつを見ると怒り狂って向かってくるが、お前が使えば間違いなくあいつを殺せるだろう」
「……それはガディがかわいそうというか。いきなり殺すまではしたくないんだが」
「村と秤にかける気か」
「うーむ。たしかに。成り行き次第では仕方ねえか。しかしさすが面白い物を持ってるな」
ヴァルターが受け取った赤い剣を鞘に納めつつ言うのに、ルドルフは忠告した。
「ただ赤竜の本気のブレスはお前を一瞬で蒸発させる威力を持つ。そこだけは絶対に注意しろ。あれは魔術でも防ぐのは無理だ」
「あの炎はそんなにヤバいのか」
「いや、さっきのはただの炎だった。本気の赤竜はあれよりももっとすごいブレスを吐いてくる」
「なるほど。普通の炎で辺りを火の海にして、獲物の動きを封じたところで本命の一撃を放つといったところか。ウーフ、普通の炎はお前さんがなんとかしてくれるんだろうな」
そこでルドルフは考え込んだ。矢面に立ちたくなくてヴァルターに竜殺しの剣を渡したのだが。しかしたしかに炎に巻かれればヴァルターも力を発揮するどころではない。
「何かあったのか。ずいぶんと騒がしいようだが」
そこに騒ぎを聞きつけたアクィラがヴァルターを見つけてやってきた。すぐ後ろにラエルとルカもいる。
ヴァルターから赤竜のことを聞いたアクィラとラエルはにわかに表情を引き締めた。かつてのギギゼラとの戦いが脳裏をよぎったのだろう。赤竜は彼らにとっても容易な相手ではない。
だがルドルフにとってはアクィラとラエルがこの場に来たのは渡りに船だった。できるだけさりげなくつぶやいた。
「炎さえなんとかできれば、ヴァルターが竜を倒せるんだがな~」
アクィラが思わずヴァルターを見る。
「ああ、まあそういうことなんだ。たぶん倒せると思うんだが、その前に炎に巻かれちゃ俺も丸焼けだ。それをどうしようかと考えていたのさ」
それを聞いたアクィラは不敵な笑顔で応じた。
「炎を防ぐことならアタシに任せてくれ」
もしあのグレアズなる赤竜が白熱する必殺の炎を吐いて来れば、ルドルフもかわすくらいしか凌ぐ手立てはない。
だが業火の神子であるアクィラならば、いかなる炎もその身で受け止め無傷で耐える。
「僕も行く! 森の火事は僕が消すから」
「踏み潰されんように離れて見とけよ。あんまりチョロチョロすんな」
挙手したラエルにアクィラはそれだけ注意した。仕方なさそうに言うが、戦場に来ることを止めはしない。
この二人がいれば炎への守りは万全だ。
二人の能力を聞いたヴァルターが改めて助太刀を依頼すると、アクィラたちも一宿一飯の恩ということで快諾した。ルドルフはどうやら自分が働かずにすみそうな流れにほくそ笑んだ。
それから間もなく、預けていた槍を返してもらったアクィラは、同じく剣を取り戻したルカとともに、大きな白煙の上がる方向へと向かった。その後ろにはラエル、それにヴァルターとルドルフの姿もある。
村の外れまで来たところでアクィラがヴァルターに聞いた。
「そこいらの木、邪魔だしあらかじめ燃やしてもかまわねえか?」
「ああ、どうせ竜が来れば同じことだ。むしろ先に焼いといてもらえると村の方に火が回らなくて助かる」
アクィラが槍を向けると前方の木々が次々と炎を上げて物凄い勢いで燃え始め、辺りはたちまち焼け野原と化した。十分な広さの空間ができたところで彼女はラエルに声をかける。
「そろそろいいか。おい、ラエル。消してくれ」
「お任せあれ」
ラエルが気取って答えると、勢いよくさらに広がっていこうとしていた炎はパッと消えてしまった。あとには燃えカスとなった木々がわずかに白い煙を上げるのみだ。
彼は火の精霊に働きかけることでたちまち火を消すことができる。アクィラは様々な炎を出すことができるが、消すことは不得意だ。そこをラエルがカバーする。なかなかいいコンビネーションである。
その不思議を目の当たりにしたヴァルターは見世物を見るかのように驚き感心している。
それから一同が戦い方について軽く打ち合わせをしていると、森の中からようやく件の赤竜が姿を現した。まずは打ち合わせの通りにアクィラが突出してその正面に立ちはだかった。ほかの者は十分な距離を取ってそれを見守っている。
改めて見ればかつて対峙した赤竜ギギゼラよりもだいぶスリムで細い竜だ。相対的には背もだいぶ小さい。それでも人間にとっては見上げるサイズではあるが、まだ若い竜なのかもしれないな、とルドルフは考えた。
『逃げずにわざわざ出てくるとはね。まあいい。この村の奴らはしらみつぶしにして皆殺しにしてやると決めたからな。どこで誰を殺そうと同じことだ』
赤竜が舌なめずりをしてアクィラを見下ろした。その竜の言葉を理解できるのはこの場ではルドルフだけだが、その明確な殺意は次の行動で誰にも伝わった。
赤竜が大きく息を吸い、真っ赤な炎のブレスを吐いたのだ。その炎は大きく広がり一気にアクィラを呑み込んだ。
「ああああアァァァァーーーーーーッッ!」
炎に包まれたアクィラが悲鳴を上げる。
全然大したことない普通の炎なのに? とルドルフがその悲鳴にびっくりしていると、やがて炎が消えたあとにすっかり無惨な姿となったアクィラが姿を現した。
「クッソ! 服が!」
耳をつんざくような悲鳴をあげたにもかかわらず、アクィラのその身はまったくダメージを受けた様子がない。
しかし一方で身に着けていたものほとんどは焦げた残骸を残して燃え落ちていた。そのことを失念していたのだ。無傷で残っているのは下着代わりに胸と腰にきつく巻いた耐火布とブーツ、それに手にしていた槍ぐらいだ。
グレアズは目を丸くしている。ヴァルターは感心してあごをさすっている。ラエルは半裸となったアクィラを真剣なまなざしでまじまじと見つめていた。
『てめえ、いったい何者だ!』
詰問するグレアズの声にはややうろたえがにじみ出ている。竜語はわからないはずだがその様子から意味を悟ったのか、アクィラが言い返す。
「てめえこそ何様のつもりだ。よくもやってくれたなぁ……」
『ひっ』
得体の知れない存在が憤怒とともにすごんできたことに怯え、赤竜は思わず後ずさった。




