26
戦の決着は、それほど時間はかからなかった。
湯川軍も粘りを見せたが、一刻ほどの戦いで、ついに全面潰走した。
そのまま追撃戦に移行した。
崎枝軍としては、ここで湯川軍に致命的な打撃を与え、戦意を喪失させる狙いもあったため、追撃戦は徹底的に行われた。
夕暮れまでの二刻ほどの間、崎枝軍と高坂軍の連合軍で追いに追い、湯川軍の塩尻口部隊は、大きすぎる犠牲を出して敗走した。
もはや、湯川軍に塩尻口の攻略を再開する余力はないことは、明らかだった。
その夜。
「湯川軍は、少なくとも、塩尻口方面から全面的に撤退することは、まず間違いないでしょう」
崎枝夕維は、口を開いた。
塩尻口陣地に帰還した崎枝軍、高坂軍の兵たちは、今日の勝利を祝い、酒宴を開いていた。元々両軍は、黒井景隆公の頃、ともに戦うことが多かったから、お互い、知己も多い。両軍の兵たちは、軍の隔てなく、あちこちから笑い声が上がり、踊りだす者もいるようだった。
まだ戦が終わったわけではないが、特に、崎枝軍全ての将兵は、この一か月、激戦に耐え続けていた。そして高坂軍の兵も、崎枝家のために死力を尽くしてくれた。こんな日は、少しくらい羽目を外してもいい。そう思う夕維だった。
「そして、たぶん、岡谷口方面も、全面撤退するしかないと思います」
夕維の言葉に、諸将が頷く。
主だった指揮官だけを集めた、軍議の場である。顔ぶれは、柏原俊介、当麻十兵衛、安井正重、前田雪之丞、沢村左近、村田平蔵、そして夕維である。
軍議とはいえ、酒と食事を、夕維は許している。そのまま、なし崩し的に戦勝の祝宴になりそうだが、たまには、こういう日があってもいいだろう。
「岡谷口の湯川軍は、兵糧不足で戦どころじゃなさそうだしな」
と十兵衛は、酒を旨そうに飲みながら、言う。
十兵衛は、塩尻口に転戦しながら、岡谷口には物見を出し続け、警戒を怠っていない。
湯川軍の岡谷口部隊は、兵の犠牲もさることながら、兵站線を俊介らに破壊されたことが大きいようだった。後方拠点を焼き払われ、手持ちの兵糧もすぐに尽きそうな状況らしい。大軍が仇とあり、兵糧の確保は容易ではない。
「兵站は致命傷でしょう。俊介殿のご命令で、徹底的に焼き払いましたので。米一粒たりと残していませんし、武具の補充もできないはずです」
と、左近は言う。
「その上、二方面から攻めるという湯川軍の軍略が、根底から崩れましたな」
と言うのは、安井正重である。
正重の言葉に、雪之丞が頷く。
「そうですね。湯川軍は、もはや占領地の維持どころではないはずです。軍の再編と軍略の見直しが急務だと思います。今の湯川軍にとって、戦を続けるのは、百害あるばかりで利は少ないでしょう」
「湯川軍の首脳陣も無能ではない」
と杯を手にしながら応えるのは、平蔵である。
「夕維殿の見立てどおり、早々に全面撤退を決断すると、俺も思う」
「そうしてほしいよな。でないと、またしばらく酒が飲めねえ」
そう言うのは十兵衛である。
十兵衛らしい物言いに、一同は苦笑した。
「警戒は続けるべきですが、湯川軍の攻勢も、これが限界でしょう」
そう口を開く夕維に、一同の視線が集まる。
「それも、ここにいる皆さんと、崎枝、高坂両軍の兵の皆さんのおかげです。本当にありがとうございました」
そう言って、夕維は深々と頭を下げた。
十兵衛は笑い、雪之丞は黙って首を振った。
「何ほどのこともありません」
と言い、頭を下げるのは正重。
「黒井家は、夕維殿に大きな借りがあります。それを思えば、大したことではありません」
そう左近は答え、平蔵は黙って頷いた。
この間、俊介は、静かに笑みをたたえながら、杯を傾けている。
戦の勝利の後、俊介は、自分の出番は終わったとばかりに、口数が少なくなる。自らの戦功を主張しようとしない俊介らしいと、夕維は思う。
「俊さま」
夕維の呼びかけに、俊介は顔を上げた。
「何であろう。夕維さま」
穏やかな声で、俊介は答えた。
「この度の戦。助けていただき、ありがとうございました。俊さまのお力がなければ、今回の勝利はありませんでした。改めてお礼を言わせてください」
夕維の言葉に、俊介以外の一同は大きく頷いた。
「本当だよ。俊さん様々だ」
と嬉しそうに言うのは、十兵衛である。
「全くです。俊介殿の変幻自在の采配。間近で拝見させていただき、目から鱗が落ちる思いでした」
と左近は、あふれんばかりの笑顔でそう言う。
しかし。
「それは違う」
俊介は、そう言いながら首を横に振った。
「俺は、皆とともに刀を振るっただけだ。俺に功があるとすれば、それは皆とともに立てた功だ」
「俊さまなら、そう言うと思いました」
そう言って夕維は苦笑する。
「でも、本当にありがとうございました」
「気にすることではない。友なら、助けるのは当たり前のことだ」
俊介はさらりとそう答えた。
照れ隠しでもなく、気負うでもなく、自然体で。俊介の心からの言葉と分かる。
ああ。俊さまは、何も変わらない。
それが夕維には何より嬉しい。
「でも。今回、湯川軍に攻められていたとき。ひょっとして、俊さまが助けに来てくれるのでは、と思いました。ですけど」
と、夕維は言う。
「俊さまには、助けに来てほしくはない、とも思っていました」
夕維の言葉に、俊介の目が見開かれた。
「………迷惑であった、か?」
俊介は驚き、あからさまに動揺している。俊介が動揺する姿を初めて見たような気がする。そう夕維は思いながら、慌てて否定した。
「ああ、違います。俊さま、違うんです。そういう意味ではありません」
「あー、夕維さま。今のはちょっとひどくない?」
十兵衛の言葉に、夕維はすぐに言い返す。
「だから、違います。夕維は、俊さまが来てくれて、本当に嬉しいんですってば!」
「来てほしくないって、はっきり言ってたよな」
十兵衛の物言いは、遠慮がない。というより、容赦がない。
「だから、そうではなくって。俊さまには、本当に感謝しているんです。ずっと大好きだったんですってば!」
「いや。聞いてないし。というか、何気に重いよ、夕維さま」
「ああ、もう。十兵衛は黙ってください!」
「あ、はい」
混ぜ返す十兵衛を黙らせてから、夕維は俊介に向き直る。
「とにかくですね、俊さま」
「ああ」
そう答える俊介は、困惑した表情を浮かべながら、安堵した様子もうかがえる。誤解は解けたようで、夕維もほっとする。
それにしても。
俊さまって、こんなかわいいところもあったんだ。
五年前には見られなかった俊介の一面が見られ、夕維は密かに喜んでいると。
「夕維さま?」
「ああ、すみません」
俊介に声をかけられ、夕維は気を取り直す。
「えっと、俊さま。俊さまって、祝言、あげられましたよね?」
「は? あ、ああ」
予想外の問いだったのか、俊介は目を二、三度またたかせてから、頷く。
「祝言などと立派なものではないが、嫁は迎えた」
「おお!」
と声を上げたのは十兵衛である。
「五年前、幼馴染のとこに帰るって、俊さん、言ってたもんな。名前は?」
「さつきだ」
「おお、さつき姐さん!」
「は? 姐さん?」
俊介は首をかしげるが。
「とにかくですね。俊さま」
「あ、ああ」
夕維は、強引に話を引き戻す。十兵衛に付き合っていたら、いつまでたっても話が前に進まない。
「俊さまは、きっとお嫁さんをお迎えしていると、夕維は思っていたので。そうだとすると、お嫁さんのさつき姉さまが、一人残されるのは可哀そうだなって思って」
夕維は言う。
「だから、俊さまは、夕維たちを助けてくれるよりも、さつき姉さまの側にいたほうがいいのかなって。さつき姉さまに寂しい思いさせるのは嫌だなって、そう思ったんです。でも」
と、夕維は言葉に力を込めた。
「でも。俊さまが来てくれて、嬉しかったというのも本当なんです」
「そうか」
俊介は、ほっとしたようにため息を漏らす。
「よかった。来ては迷惑だったかと思ったが」
「そんなこと、あるはずないです。ずっと、お会いしたかったです」
夕維の言葉に、俊介は穏やかに頷いた。
「ありがとう。俺も、夕維さまや皆にまた会えて、嬉しい」
温かな俊介の言葉。
「はい!」
「嬉しいこと言ってくれるぜ」
夕維と十兵衛は表情をゆるめて答え、雪之丞は、感激のあまり言葉も出ないようだった。
一緒にいる左近と平蔵、正重は、酒を飲みながら、温かく見守っているようだった。若干、視線が生温かい。
「それと」
と俊介は言う。
「さつきのことを気遣ってくれてありがたいが、今回は、さつきに叩き出されたのだ。友人を早く助けて来いと」
「おー。さつき姐さん、男前だなあ」
と十兵衛は声を上げた。
「そうだな。十年ぶりに俺が村に帰ったら、張り倒すような奴だからな」
「………さつき姉さまに、張り倒されたんですか? 五年前?」
夕維は目をまたたかせて尋ねると、俊介は苦笑した。
「ああ。意識が飛んだよ」
「おお。本気ですげえ、さつき姐さん」
十兵衛は感心して言う。
「それよりも」
俊介は、口を開く。
「姐さんや姉さまなどというのは、なんのことだ?」
「え。さつき姐さんのことか? 当たり前だろう」
十兵衛は答える。
「だって、俊さんって俺たちの兄貴分みたいなもんだろ。兄貴分の奥さんだから、姐さんじゃないか」
十兵衛はさも当然のように言い、夕維はその隣でにっこりと笑う。
「だから、さつき姉さまです」
「だからと言われてもな」
俊介は呆れたように言う。
「それよりもさ。さつき姐さん、腕も立つの?」
十兵衛の問いに、俊介は頷いた。
「ああ」
「おおー。俊さんがそう言い切るって、なんか凄くない?」
十兵衛は感心した。
「どのくらい強いの、さつき姐さんって?」
「いや、お前のほうが強いはずだ、十兵衛」
「ええっと、それは当たり前ですよね?」
と夕維は言った。さつき姉さまは女性なのだから、それは当然すぎること。そう夕維は思ったのだが。
「まあ、そうだな。雪之丞とならば、面白いと思う」
俊介は平然と答えた。
「え?」
「へ?」
驚きの声を漏らしたのは、夕維と十兵衛。
「は?」
思わぬところで名前が出て、雪之丞は目を丸くする。
何気なく話を聞いていた左近や平蔵、正重も思わず目を見張った。
「あの、俊さん」
と十兵衛は言う。
「雪之丞って、この五年で、随分と腕を上げたけど?」
十兵衛の言葉に、夕維も頷く。
雪之丞は、剣士としても、飛躍的に腕を上げた。崎枝家では十兵衛に次ぐほどの腕前だろう。正重も、多分、左近と平蔵も、雪之丞には及ばないのではないか。
「そうだな」
と、俊介は目を細めて雪之丞を見た。
「本当に、強くなった。雪之丞」
「あ、ありがとうございます」
顔を上気させ、喜ぶ雪之丞。だが。
「今の雪之丞なら、さつきといい勝負ができるだろう」
俊介の言葉に、雪之丞は愕然とする。
「………マジ?」
呆れたように言う十兵衛。
「女性の身で、どれほどの強さなのだ。さつき殿は」
と、左近は、冷や汗を流しながら言う。
「本当に、人か?」
と失礼なことを呟くのは平蔵である。
「さすがは守護神さまの奥方さまだな」
と、正重は、よく分からない感心の仕方をしている。
「さつき姉さま、すごーい!」
と、夕維は思わず手を叩いて喜んでいた。
本当に凄い。夕維はそう思った。
さつきのことは少し話を聞いただけだが、優しい人柄は察せされた。俊介の選んだ人なのだから、良い人だろうとは思っていたが、情に厚く、武勇にも秀でているとは。
これはもう、憧れるしかないではないか。
「さつき姉さまに、お会いしたいです。俊さま、きっと会わせてくださいね!」
身を乗り出して言う夕維に、俊介は苦笑した。
「ああ。さつきも、夕維さまにお会いしたいと言っていたから。いずれ」
「わあ。本当ですか」
夕維は、跳び上がらんばかりに喜んだ。
さつき姉さまは、夕維の友達になってくれるだろうか。お姉さまになってほしいと言ったら、なんて言うだろうか。
会って、いろんなことをお話ししたい。夕維はそう思った。
ありがとうございます。




