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安井正重は、部隊の先頭に立って湯川軍に斬りこんだ。
正重は馬上から槍を振るう。麾下の一千が続く。
正重の視界の先に広がるのは、敵の大軍勢。
しかし、今、その圧力をあまり感じない。
崎枝軍に三方から攻めたてられ、湯川軍の前衛五千は、それでも崩れない。なお陣形を保っているのは、湯川軍が精鋭であればこそと言っていい。
とはいえ、その反発はそれほど強くない。浮足立っているのがわかる。
もう一押しで崩せる。そう正重は思った。
敵兵の群れのはるか向こうに、味方の武将の姿が見える。
湯川軍の右側から攻める崎枝軍の先頭に立ち、指揮をしながら、凄まじいまでの豪剣を振るっている。
柏原俊介だ。
五年前、崎枝領に現れ、崎枝夕維を救った人。
崎枝家と安井家を救い、突然、姿を消した人。
崎枝夕維と当麻十兵衛に、絶対の信頼を寄せられている人。
正重は、俊介と会ったことがある。
五年前、黒井景隆との戦のとき、父の村重とともに、二、三、言葉を交わしただけである。
しかし、印象は悪いものではなかった。
声は意外に温かく、優しかった。瞳は涼し気で、真っ直ぐだった。
結局、柏原俊介とは何者なのか、未だによくわからない。
だが、好ましい人物と思えた。正重にはそれで十分だった。
今回の策も、柏原俊介が立てたものだという。
軍略に優れ、剣は、途方もない腕前だ。武人として自分などとは格が違う。
そんな人が、またどこからか来てくれた。手を貸してくれている。
負けるわけがない。
「!」
湯川軍の右側面が、大きく崩れた。
柏原俊介が、敵中深く斬り込んだのだ。湯川軍の兵は、俊介を包囲するどころか、あっという間に蹴散らされる。
正重は、開いた口がふさがらない。
呆れるほどの強さだった。
「崎枝夕維の守護神」
俊介のことをそう呼ぶ者は、崎枝領内に多い。
本当にそうかもしれない。正重は思った。むしろ、ただの人ではないと思えば、納得もいくというものだ。
俊介の動きの呼応するように、今度は湯川軍の左側面が押される。
当麻十兵衛だ。
十兵衛が麾下四千の先頭に立ち、湯川軍の左側面を蹴散らすのが見えた。
今こそ、好機であろう。正重は気を引き締めた。
「夕維さまの守護神、俊介さまが敵を崩した!」
正重は声を張り上げた。
「俊介さまに続け! 敵を突き崩せ!!」
「おおおっ!!」
麾下の一千の士気がさらに上がるのが分かる。武神と見まがうほどの俊介と戦えるのだ。これほど心強く、戦意を高揚させるものはない。
安井正重が率いる安井隊一千は、湯川軍をさらに押し、突き崩した。
しくじった。
前田雪之丞は、思わず舌打ちした。
油断したつもりはないが、敵にしてやられた。
湯川軍を前後に分断した。そのうち前衛五千を、当麻十兵衛と柏原俊介、村田平蔵の隊で叩く。その間、敵の後衛五千を抑え、時間をかせぐのが、沢村左近と雪之丞の役目だった。
当然、湯川軍の後衛は、それを許そうとはしない。後衛五千のうち二千ほどが、孤立した前衛を救おうと猛攻をかけてきた。左近隊一千騎がそれを遮るが、敵の二千は、密集隊形で遮二無二攻めかかり、左近隊は押される。
雪之丞は、左近隊を援護すべく、麾下百騎で、敵の側面を攻め、突き崩した。
その隙をつかれた。
湯川軍後衛のうち残り三千が、素早く密集隊形を組み、後退したのだ。
味方の退路を確保するためであろう。
眼前で窮地に立った味方を慌てて救おうとしない。冷静な判断と言っていい。そして、崎枝軍にとっては最も厄介な動きだった。
雪之丞は、麾下百騎を率い、敵の三千に急行した。
しかし、敵の三千は、雪之丞隊の百騎が接近すると、後退を止め、密集陣で槍ぶすまをつくった。
幾重にも連ねられた槍の穂先。
雪之丞は突入を断念した。こうなると、兵力差がものをいう。敵の陣の前で隊を旋回させる。
雪之丞隊が離れると、敵の三千は、すぐに後退を再開した。
まずい。
雪之丞は歯ぎしりした。
敵の歩兵に密集隊形でしっかりと陣を組まれると、騎馬隊の威力は半減する。そうさせないように、湯川軍の後衛を攪乱し続けなければならなかったのだ。
ひとたび三千もの兵力で密集陣を組まれてしまうと、百騎という寡兵では厳しい。無理に突撃すれば、全滅しかねない。
だが、この後退は、何としても阻止しなければならない。
湯川軍に退路を確保されるだけではない。
このまま塩尻口まで退かれ、狭い渓谷内で湯川軍に陣を構えられてしまうと、撃退が難しくなる。
昨日までは、崎枝軍の守りに利用してきた峻険な地形。それが今度は、湯川軍を利することになるだろう。
今回の策の狙いは、岡谷口の敵を撃退した間に、塩尻口の敵を各個撃破することにあった。
そうなれば、湯川軍の戦意は挫ける。全面撤退に追い込める。
そんな柏原俊介の軍略は、全て水泡に帰す。
逆に、戦は長期化する。
一度は退けた岡谷口の敵も、いつまた軍を立て直し、攻撃を再開するか分からない。
援軍に駆け付けた沢村左近、村田平蔵率いる高坂軍三千も、いつまでも崎枝領内にとどまるわけにもいかない。
湯川軍のほうは、逆に、本国から増援を送ってくるかもしれない。それだけの国力はある。
崎枝家はじり貧である。
そんなことは、絶対に容認できない。
雪之丞は、全滅を覚悟で、敵の三千への突入を決意した。
そのとき。
視界の端を、少数の騎馬隊が横切った。
先頭で馬を駆けさせるのは、柏原俊介。
兵数は、おおよそ百騎。左近隊の一部を引き抜いてきたらしい。歩兵隊は、村田平蔵に預けてきたのか。
雪之丞の肌が泡立った。
五年ぶりの、柏原俊介の騎馬隊の復活。
その俊介は、麾下の百騎を率いて、敵の三千の前を斜めに駆ける。
敵は、俊介の急行にも反応し、即座に迎撃する態勢を整えた。
その敵の前で、俊介は騎馬隊を急旋回させた。
敵の槍ぶすまに、俊介は自ら先頭に立って突入した。
「危ないっ!」
思わず、雪之丞は声を上げた。が。
俊介の刀が一閃。敵の前列が蹴散らされるとともに、俊介とその騎馬隊は、敵陣に斬りこんだ。
俊介隊は、突入したときの速度のまま、敵の三千の密集陣の中を駆けた。駆けながら、敵を蹴散らす。
そのまま俊介隊は、一直線に敵陣を駆け抜けた。
俊介隊が駆け抜けた後、あれほど固い密集陣を組んでいた湯川軍は、もつれた糸がほどけるように、崩れた。
雪之丞は、唖然とした。
俊介の鮮やかすぎる剣と用兵。そして。
湯川軍の隙。
俊介が突入して、初めて気が付いた。
固いと思われた敵の陣に、あの一点、わずかに隙があった。俊介は、それを一瞬のうちに見抜き、敵を崩した。
「やはり、俊介さまは、凄い」
雪之丞は、身体を打ち震わせた。
俊介の前では、どれほどの大軍であろうと敵ではない。そう思える。
雪之丞は、手を上げた。
馬腹を蹴る。雪之丞とその麾下百騎が、一斉に駆けだした。
崩れた敵の三千の真っ只中に、雪之丞は先頭で突っ込んだ。二度と敵兵をまとまらせない。もう俊介さまに無様な姿は見せられない。
俊介隊と交差する。
俊介と、一瞬、目があった。
俊介がかすかに頷く。
そのまま俊介は駆け抜け、まとまりかけた敵の一隊を打ち破った。
喜びのあまり、雪之丞は震えた。
俊介さまに頼られた。
ともに戦おう。俊介さまの目はそう言っていた。
高揚する心を止められない。
雪之丞は、麾下の百騎とともに、戦場を駆けた。
ありがとうございます。




