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塩尻口を見下ろす小高い丘の上に、崎枝夕維はいた。
少数ながら、護衛の兵が後方に控えている。
塩尻口の狭い渓谷の入り口には、安井正重が率いる崎枝軍一千が陣を構えていた。
そこを湯川軍一万が攻めている。
狭い渓谷という地形上、一万の兵で崎枝軍を包囲することはできないが、その代わり湯川軍は、大軍を数個部隊に分け、交代で繰り返し崎枝軍の陣を攻め上げるという戦法をとっていた。
それを日中、間断なく続け、日が暮れてからも頻繁に夜襲をかけていたという。
湯川軍は十分な休息を取りながら、しかし崎枝軍には休息の間を与えない。塩尻口の安井隊一千は、そんな攻撃に、この一か月、さらされてきた。
塩尻口が未だ破られていないのが、不思議なほどだった。
将兵の疲労は限界に達しているだろう。夕維はそう思う。
しかし、崎枝の領地と領民を守るため、安井隊の将兵は、誰も不満を口にすることもなく、戦い続けている。
指揮官である安井正重が、よく兵をまとめていた。
彼の指揮がなければ、とうに塩尻口は破られ、崎枝領に湯川軍の侵入を許していただろう。そうなれば、岡谷口の崎枝軍も挟撃を受けて全滅し、崎枝領は湯川軍に占領されていたに違いない。
「ありがとうございます」
夕維は、言葉を漏らしていた。
安井正重も、その配下の兵たちも、傷つきながら、ボロボロになりながら、よく歯を食いしばり、耐えてくれたと思う。ただただ頭が下がる思いだった。
「そして、ごめんなさい」
自分にもっと力があれば、そんな苦労をさせることもなかったのに。自責の念とともに、そうも思う。
が、彼らの苦労も、今日で終わる。
「皆の苦労は、今日で報われます」
柏原俊介の策は、地形と時間を利用した各個撃破だった。
湯川軍は岡谷口と塩尻口で軍を二つに分けたが、その間には険しい山脈が横たわっている。この二つの軍がお互いに連絡を取ろうとした場合、山脈を南から迂回するしかなく、早馬を乗り継いでも丸一日以上はかかる。
ところが崎枝領内からは、渓谷を抜け、岡谷口と塩尻口の間は平地が広がっている。岡谷口から塩尻口へは、半刻もあれば行軍が可能だった。
湯川軍の主力である岡谷口の二万が敗退したのは、昨日の午後から夕刻のことであり、塩尻口の湯川軍がそれを知るのは、早くても今日の夕刻か夜であろう。
今はまだ昼前である。
塩尻口の湯川軍は、自軍の主力部隊が敗れ、孤軍となったことをまだ知らない。
そして、湯川軍が孤軍と思い込んでいる崎枝軍一千の後方には、今、当麻十兵衛率いる四千と柏原俊介らの率いる三千。合わせて七千の軍が既に配置を完了していることも、湯川軍は知らない。
昨日までは、一万対一千という圧倒的な劣勢下にあった。
それが、一夜明ければ、一万対八千。
今やほぼ互角の形勢である。
「まるで、魔法使いみたいです」
夕維はため息とともにつぶやく。
そう。まるで魔法のようだった。
五年前も今も、柏原俊介はそうだった。本当に困ったとき、どこからともなく現れ、どんな苦境でもたちまち勝利に変える。
鮮やかな勝利をもたらしてくれる。
無論、それが魔法や奇跡などではないことは、夕維も知悉している。
俊介の凄まじいまでの豪剣もあるが、それを上回る俊介の真価は、その軍略と言っていい。
敵の弱点を見抜く眼力と、先を見通す洞察力。それに裏付けられた軍略は、戦場の局面を劇的に一変させる。
今回の戦など、わずか一夜にして局面をひっくり返そうとしている。
その鮮やかすぎる手腕が、魔法のように思えてしまうのだ。
「あ」
戦場が動いた。
ついに、塩尻口の陣の柵が、一部破れた。
破れたところから、湯川軍の兵が押し寄せる。安井隊一千は、抵抗するが、徐々に押される。
それを見た湯川軍は、全軍が動き始めた。
勝機と見たのだろう。総勢一万で安井正重の陣に総攻撃をしかけてきた。
無論、狙い通りである。
俊介の策は、既に安井正重に伝えている。その上で、湯川軍を誘い込むため、わざと負け、退却するよう命じていた。
安井正重は巧妙だった。当初、湯川軍の交替部隊のみを相手にしていたが、いきなり退却したりせず、徐々に崩れてみせ、ついに湯川軍の全軍を引っ張り出すことに成功した。
とうとう塩尻口の陣の柵が、全て倒された。
湯川軍一万が、そこに殺到する。
それを見た安井隊一千の反応は早かった。すぐさま転進し、退却した。脱兎のごとく逃げ出したと言っていい。
「やった」
夕維は思わず力こぶしを握っていた。
この戦では、湯川軍一万を誘い出すことが一番難しいと思っていた。誘い出しても、上手く逃げなければ、大軍に飲み込まれ、安井隊一千は全滅してしまう。
しかし安井正重は、絶妙な頃合いで兵を退却させた。この間合いなら、たぶん、逃げ切れる。もう少し、頑張ってほしい。
湯川軍一万が、塩尻口から崎枝領に続々と雪崩れ込んできた。
逃げる安井隊一千を、湯川軍一万が追う。
湯川軍にしてみれば、一か月も猛攻をかけ続け、ようやくこじ開けた扉だ。はやる心を抑えきれないのだろう。安井隊の背を追い、湯川軍の兵は、我先にと駆けている。
湯川軍の隊列は、伸び切っていた。
それを見極めてから、夕維は、用意した旗を振らせた。
戦場が、再び一転した。
湯川軍に対し、その両側から、空を覆うほどの矢の雨が降り注いだ。
殺到する湯川軍に対し、その左側に当麻十兵衛、前田雪之丞の隊四千が伏せ、右側には、柏原俊介、沢村左近、村田平蔵の隊三千が伏せていたのだ。
思わぬ攻撃に、湯川軍の騎馬兵が幾人も落馬し、混乱する。
その直後、右から沢村左近の騎馬隊一千が、左から前田雪之丞の騎馬隊百が、湯川軍に襲いかかった。左近の一千騎が湯川軍の隊列を真ん中から断ち割り、分断された湯川軍の前衛に、雪之丞の百騎が突入した。
雪之丞の百騎は、混乱に陥った湯川軍の前衛五千など物ともしない。あっさりと左から右に切り裂き、駆け抜ける。しかし、すぐに急転し、今度は右から左に突撃した。
左近と雪之丞の騎馬隊の突撃に、湯川軍の隊列は乱れに乱れた。
そこに、今度は歩兵を主力とした部隊が、湯川軍の前衛に突撃した。左から十兵衛の四千が、右から俊介と平蔵の二千が襲い掛かったのである。
もはや湯川軍は、安井隊を追いかけるどころではなかった。
全力で逃げていた安井隊は、安井正重の命令で、足を止めた。
混乱する湯川軍に向かい、隊列を整える。
指揮官である安井正重の手が上がった。
「今こそ、この一月、たまりにたまった鬱憤を晴らすときだ!」
戦場の喧騒の中でも、正重の声はよく通った。
「そして、夕維さまからの御恩を幾ばくかでも返せる、絶好の機会と思え!」
「おう!」
安井隊一千が唱和した。
「夕維さまの土地を汚す不埒者どもを打ち払え! 突撃!!」
「おおっ!!」
雄たけびとともに、安井隊一千は、湯川軍の正面から突っ込んだ。
崎枝夕維さまに、恩返しがしたい。
安井正重は、ずっとそう思っていた。
それは、父である安井村重の思いでもある。
泉田道寛が謀反を起こしたとき、安井家は、崎枝夕維を裏切った。見殺しにしようとした。
しかし、崎枝夕維は、それを咎めようともしなかった。
それどころか、黒井景隆によって安井家が滅ぼされようとしたとき、真っ先に立ち上がり、安井家を救ったのが、崎枝夕維だった。
安井家は、崎枝夕維に返しきれないほどの恩がある。
安井村重も、子の正重もそう思っている。
崎枝家危急のとき、安井家はその盾とならねばならない。父である村重は家中にそう諭し、自らは夕維のために真っ先に死ぬと、覚悟を決めてしまっている。
村重が子の正重に家督を譲ったのも、そして、夕維の傍近くに仕えるのも、夕維の盾となって死ぬためと言っていい。
もっとも、村重の決意は夕維にも知られているようであり、夕維は村重をむしろ戦場から遠ざけようとしているらしい。無論、年老いた村重への夕維の気遣いであろう。
夕維のために死ぬことが武士の本懐。父である村重は、そう考えている。子として、正重は、父に本懐を遂げさせたい気持ちはあるが、一方で、夕維の気遣いは、胸を打つものがあった。
そういう人であればこそ。
正重は、夕維を得難い主君だと思った。
この人になら、命を預けることができる。家族と領地を託すことができる。後顧の憂いなく戦える。
崎枝夕維のもとでなら、安心して死ねる。
だからこそ、湯川軍侵攻という崎枝家の危機にあって、守りの要である塩尻口を任されたことは嬉しかった。多少なりとも夕維に恩返しができる。そうも思った。
一か月もの湯川軍の猛攻は、苦しくはあったが、正重は、つらいとは思わなかった。
崎枝夕維は、父が泉田道寛に殺されてから、数年間にわたり、命を狙われ続けた。何度も、命を落としかけたという。それがどれだけ苦しく、つらい日々だったか、想像に難くない。
それに比べれば、大したことはないのだと思える。いくらでも耐えられる。
たぶん、夕維は、安井正重とその麾下の兵に対し、大変なことを命じたと心を痛めているのだろう。
崎枝夕維という人は、そういう人だ。夕維を心配させてしまっていることが、正重にはむしろ申し訳なく、情けないとも思う。
正重のそんな思いは、実のところ、麾下の兵一千のほぼ共通の思いでもある。
崎枝夕維がどれほどの苦難の道を歩んできたか。崎枝の家中の者であれば、誰もが知っている。
崎枝夕維がどれほど民と家臣を慈しむ人であるか。崎枝の領内の者であれば、誰もが知っている。
崎枝夕維のために何かしたい。崎枝の家臣や民の多くがそう考えるのは、だから、ごく自然なことなのだ。
夕維さまのために。
安井隊一千がその思いで一致しているからこそ、塩尻口を守り通せたのだろう。
そして今日。やっと夕維さまに安心してもらえる。
正重はそう思った
ありがとうございます。




