表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/27

24

 塩尻しおじりぐちを見下ろす小高い丘の上に、崎枝さきえだ夕維ゆいはいた。

 少数ながら、護衛の兵が後方に控えている。


 塩尻口の狭い渓谷の入り口には、安井やすい正重まさしげが率いる崎枝軍一千が陣を構えていた。

 そこを湯川ゆかわ軍一万が攻めている。


 狭い渓谷という地形上、一万の兵で崎枝軍を包囲することはできないが、その代わり湯川軍は、大軍を数個部隊に分け、交代で繰り返し崎枝軍の陣を攻め上げるという戦法をとっていた。

 それを日中、間断なく続け、日が暮れてからも頻繁に夜襲をかけていたという。

 湯川軍は十分な休息を取りながら、しかし崎枝軍には休息の間を与えない。塩尻口の安井隊一千は、そんな攻撃に、この一か月、さらされてきた。


 塩尻口が未だ破られていないのが、不思議なほどだった。

 将兵の疲労は限界に達しているだろう。夕維はそう思う。

 しかし、崎枝の領地と領民を守るため、安井隊の将兵は、誰も不満を口にすることもなく、戦い続けている。


 指揮官である安井正重が、よく兵をまとめていた。

 彼の指揮がなければ、とうに塩尻口は破られ、崎枝領に湯川軍の侵入を許していただろう。そうなれば、岡谷口の崎枝軍も挟撃を受けて全滅し、崎枝領は湯川軍に占領されていたに違いない。


「ありがとうございます」


 夕維は、言葉を漏らしていた。

 安井正重も、その配下の兵たちも、傷つきながら、ボロボロになりながら、よく歯を食いしばり、耐えてくれたと思う。ただただ頭が下がる思いだった。


「そして、ごめんなさい」


 自分にもっと力があれば、そんな苦労をさせることもなかったのに。自責の念とともに、そうも思う。

が、彼らの苦労も、今日で終わる。


「皆の苦労は、今日で報われます」




 柏原かしわら俊介しゅんすけの策は、地形と時間を利用した各個撃破だった。

 湯川軍は岡谷おかやぐちと塩尻口で軍を二つに分けたが、その間には険しい山脈が横たわっている。この二つの軍がお互いに連絡を取ろうとした場合、山脈を南から迂回するしかなく、早馬を乗り継いでも丸一日以上はかかる。

 ところが崎枝領内からは、渓谷を抜け、岡谷口と塩尻口の間は平地が広がっている。岡谷口から塩尻口へは、半刻もあれば行軍が可能だった。


 湯川軍の主力である岡谷口の二万が敗退したのは、昨日の午後から夕刻のことであり、塩尻口の湯川軍がそれを知るのは、早くても今日の夕刻か夜であろう。

 今はまだ昼前である。

 塩尻口の湯川軍は、自軍の主力部隊が敗れ、孤軍となったことをまだ知らない。

 そして、湯川軍が孤軍と思い込んでいる崎枝軍一千の後方には、今、当麻とうま十兵衛じゅうべえ率いる四千と柏原俊介らの率いる三千。合わせて七千の軍が既に配置を完了していることも、湯川軍は知らない。


 昨日までは、一万対一千という圧倒的な劣勢下にあった。

 それが、一夜明ければ、一万対八千。

 今やほぼ互角の形勢である。


「まるで、魔法使いみたいです」


 夕維はため息とともにつぶやく。

 そう。まるで魔法のようだった。

 五年前も今も、柏原俊介はそうだった。本当に困ったとき、どこからともなく現れ、どんな苦境でもたちまち勝利に変える。

 鮮やかな勝利をもたらしてくれる。


 無論、それが魔法や奇跡などではないことは、夕維も知悉している。

 俊介の凄まじいまでの豪剣もあるが、それを上回る俊介の真価は、その軍略と言っていい。

 敵の弱点を見抜く眼力と、先を見通す洞察力。それに裏付けられた軍略は、戦場の局面を劇的に一変させる。

 今回の戦など、わずか一夜にして局面をひっくり返そうとしている。

 その鮮やかすぎる手腕が、魔法のように思えてしまうのだ。


「あ」


 戦場が動いた。

 ついに、塩尻口の陣の柵が、一部破れた。

 破れたところから、湯川軍の兵が押し寄せる。安井隊一千は、抵抗するが、徐々に押される。

 それを見た湯川軍は、全軍が動き始めた。

 勝機と見たのだろう。総勢一万で安井正重の陣に総攻撃をしかけてきた。


 無論、狙い通りである。

 俊介の策は、既に安井正重に伝えている。その上で、湯川軍を誘い込むため、わざと負け、退却するよう命じていた。

 安井正重は巧妙だった。当初、湯川軍の交替部隊のみを相手にしていたが、いきなり退却したりせず、徐々に崩れてみせ、ついに湯川軍の全軍を引っ張り出すことに成功した。


 とうとう塩尻口の陣の柵が、全て倒された。

 湯川軍一万が、そこに殺到する。

 それを見た安井隊一千の反応は早かった。すぐさま転進し、退却した。脱兎のごとく逃げ出したと言っていい。


「やった」


 夕維は思わず力こぶしを握っていた。

 この戦では、湯川軍一万を誘い出すことが一番難しいと思っていた。誘い出しても、上手く逃げなければ、大軍に飲み込まれ、安井隊一千は全滅してしまう。

 しかし安井正重は、絶妙な頃合いで兵を退却させた。この間合いなら、たぶん、逃げ切れる。もう少し、頑張ってほしい。


 湯川軍一万が、塩尻口から崎枝領に続々と雪崩れ込んできた。

 逃げる安井隊一千を、湯川軍一万が追う。

 湯川軍にしてみれば、一か月も猛攻をかけ続け、ようやくこじ開けた扉だ。はやる心を抑えきれないのだろう。安井隊の背を追い、湯川軍の兵は、我先にと駆けている。


 湯川軍の隊列は、伸び切っていた。

 それを見極めてから、夕維は、用意した旗を振らせた。


 戦場が、再び一転した。


 湯川軍に対し、その両側から、空を覆うほどの矢の雨が降り注いだ。

 殺到する湯川軍に対し、その左側に当麻十兵衛、前田まえだ雪之丞ゆきのじょうの隊四千が伏せ、右側には、柏原俊介、沢村さわむら左近さこん村田むらた平蔵へいぞうの隊三千が伏せていたのだ。

 思わぬ攻撃に、湯川軍の騎馬兵が幾人も落馬し、混乱する。


 その直後、右から沢村左近の騎馬隊一千が、左から前田雪之丞の騎馬隊百が、湯川軍に襲いかかった。左近の一千騎が湯川軍の隊列を真ん中から断ち割り、分断された湯川軍の前衛に、雪之丞の百騎が突入した。

 雪之丞の百騎は、混乱に陥った湯川軍の前衛五千など物ともしない。あっさりと左から右に切り裂き、駆け抜ける。しかし、すぐに急転し、今度は右から左に突撃した。

 左近と雪之丞の騎馬隊の突撃に、湯川軍の隊列は乱れに乱れた。

 そこに、今度は歩兵を主力とした部隊が、湯川軍の前衛に突撃した。左から十兵衛の四千が、右から俊介と平蔵の二千が襲い掛かったのである。

 もはや湯川軍は、安井隊を追いかけるどころではなかった。




 全力で逃げていた安井隊は、安井正重の命令で、足を止めた。

 混乱する湯川軍に向かい、隊列を整える。

 指揮官である安井正重の手が上がった。


「今こそ、この一月、たまりにたまった鬱憤を晴らすときだ!」


 戦場の喧騒の中でも、正重の声はよく通った。


「そして、夕維さまからの御恩を幾ばくかでも返せる、絶好の機会と思え!」

「おう!」


 安井隊一千が唱和した。


「夕維さまの土地を汚す不埒者どもを打ち払え! 突撃!!」

「おおっ!!」


 雄たけびとともに、安井隊一千は、湯川軍の正面から突っ込んだ。


 崎枝夕維さまに、恩返しがしたい。

 安井正重は、ずっとそう思っていた。

 それは、父である安井やすい村重むらしげの思いでもある。


 泉田いずみだ道寛どうかんが謀反を起こしたとき、安井家は、崎枝夕維を裏切った。見殺しにしようとした。

 しかし、崎枝夕維は、それを咎めようともしなかった。

 それどころか、黒井くろい景隆かげたかによって安井家が滅ぼされようとしたとき、真っ先に立ち上がり、安井家を救ったのが、崎枝夕維だった。


 安井家は、崎枝夕維に返しきれないほどの恩がある。

 安井村重も、子の正重もそう思っている。

 崎枝家危急のとき、安井家はその盾とならねばならない。父である村重は家中にそう諭し、自らは夕維のために真っ先に死ぬと、覚悟を決めてしまっている。

 村重が子の正重に家督を譲ったのも、そして、夕維の傍近くに仕えるのも、夕維の盾となって死ぬためと言っていい。


 もっとも、村重の決意は夕維にも知られているようであり、夕維は村重をむしろ戦場から遠ざけようとしているらしい。無論、年老いた村重への夕維の気遣いであろう。

 夕維のために死ぬことが武士の本懐。父である村重は、そう考えている。子として、正重は、父に本懐を遂げさせたい気持ちはあるが、一方で、夕維の気遣いは、胸を打つものがあった。


 そういう人であればこそ。

 正重は、夕維を得難い主君だと思った。

 この人になら、命を預けることができる。家族と領地を託すことができる。後顧の憂いなく戦える。

 崎枝夕維のもとでなら、安心して死ねる。


 だからこそ、湯川軍侵攻という崎枝家の危機にあって、守りの要である塩尻口を任されたことは嬉しかった。多少なりとも夕維に恩返しができる。そうも思った。

 一か月もの湯川軍の猛攻は、苦しくはあったが、正重は、つらいとは思わなかった。

 崎枝夕維は、父が泉田道寛に殺されてから、数年間にわたり、命を狙われ続けた。何度も、命を落としかけたという。それがどれだけ苦しく、つらい日々だったか、想像に難くない。

 それに比べれば、大したことはないのだと思える。いくらでも耐えられる。


 たぶん、夕維は、安井正重とその麾下の兵に対し、大変なことを命じたと心を痛めているのだろう。

 崎枝夕維という人は、そういう人だ。夕維を心配させてしまっていることが、正重にはむしろ申し訳なく、情けないとも思う。


 正重のそんな思いは、実のところ、麾下の兵一千のほぼ共通の思いでもある。

 崎枝夕維がどれほどの苦難の道を歩んできたか。崎枝の家中の者であれば、誰もが知っている。

 崎枝夕維がどれほど民と家臣を慈しむ人であるか。崎枝の領内の者であれば、誰もが知っている。

 崎枝夕維のために何かしたい。崎枝の家臣や民の多くがそう考えるのは、だから、ごく自然なことなのだ。


 夕維さまのために。

 安井隊一千がその思いで一致しているからこそ、塩尻口を守り通せたのだろう。

 そして今日。やっと夕維さまに安心してもらえる。

 正重はそう思った


ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ