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 湯川ゆかわ軍は、ついに全面撤退した。

 塩尻しおじりぐちでの湯川軍の敗退から二日後のことである。兵站線を切られ、さらに、塩尻口からの敗報で、岡谷おやかぐちの部隊が孤軍となったことを知ったのだろう。撤退せざるをえないと考えたようであった。

 今回の戦で、湯川軍は、黒井くろい領周辺と崎枝さきえだ領南方の広大な土地を占領していたが、これらもすべて放棄した。


 湯川軍の全面敗北と言っていい。

 とはいえ、湯川家も大国である。すぐに軍を再編し、再侵攻することは十分に考えられた。

 今後も、警戒は続けるべきだろう。それが、崎枝さきえだ夕維ゆい当麻とうま十兵衛じゅうべえの一致した見方だった。


 湯川軍の撤退を確認後、高坂こうさか軍も引き上げた。

 役目が終わったから当然ではあるし、左近さこん平蔵へいぞうとしても、黒井家で四面楚歌といえる高坂こうさか師直もろなおが、心配でもあった。

 彼らを率いてきた俊介しゅんすけも、当然、一緒である。

 もはや当然というべきか、夕維と十兵衛は、俊介を引き止めた。


「軍を師直殿に返したら、また戻ってきたらいいじゃねえか」


 と当たり前のように十兵衛は言う。その隣で、夕維と雪之丞ゆきのじょうが頷いている。


「そうもいかんよ。村に田畑もあるし、さつきも待っているからな」

「うわ。俊さんがのろけやがった」


 十兵衛は天を仰ぎ、雪之丞はがっくりと肩を落とした。

 めげないのは夕維だった。


「では、今度、遊びにきてくださいね。さつき姉さまと一緒に!」


 夕維の満面の笑みに、俊介は苦笑した。本人の知らない間に、さつき人気が急上昇してしまっている。


「ああ。いずれ」


 俊介は答えた。本当に遊びに来ることができるだろうか。そんな疑念は、顔には出さない。

 崎枝領周辺の情勢が、急にきな臭くなっている。湯川軍の再侵攻もいつあるか分からない。隣国であり盟友の黒井家も果たしてどうなるか。

 そんなことは夕維も分かっているだろう。それでもなお、笑っている。

 十兵衛と雪之丞も、笑っている。

 だから俊介も、笑って別れた。




「ご苦労であった」


 屋敷で俊介を出迎えた、師直の言葉がそれであった。


「師直殿のおかげで、目的を果たすことができました」


 俊介は頭を下げた。


「それにしても、我が軍と崎枝軍合わせて八千で、湯川軍の精鋭三万を一蹴したか」


 師直は苦笑した。


「どうだ。左近、平蔵。俊介殿の軍略と用兵の神髄、しかと見たか」

「夢のような一時でありました」


 と左近は夢見心地に言う。


「真似はできそうにありませんが」


 平蔵は困ったように答えた。


「師直殿」


 俊介は口を開いた。一度後ろを振り返り、言う。


「お預かりした子供を、お返しします」


 俊介の後ろで、涼宮すずみや一之進いちのしんは憮然としていた。俊介の側にいるのが、面白くないのだろう。

 しかし。

 師直は、目を細めた。


「一之進。面構えが変わったな」

「は」


 反射的に、一之進は頭を下げた。


「よほど、俊介殿に搾り上げられたか」


 師直は言う。

 一之進の表情から、影がなくなっていた。父親の涼宮すずみや正孝まさたかが死ぬ前の、真っ直ぐな目だった。

 左近が言う。


「随分と逞しくなりました。一之進は」

「いえ。そんなことは………」


 一之進は、首を振った。

 謙遜というより、俊介のおかげで鍛えられたというのを、認めたくないのだろう。その一方で、内心では認めざるをえない。そんな複雑な心境が、顔に出ていた。


 一之進が俊介を認めるなど、一週間前には考えられないことだった。

 父親が死んで、一之進は憎悪と復讐心に囚われていた。師直は、それに心を痛めていた。一之進は父親を尊敬していたから、仕方のないことではあった。しかし、憎悪に目を曇らせ、周りが見えなくなるのは、一之進の将来を歪めることになりかねない。


 俊介に一之進を託したのは、師直の思いつきだった。

 一之進は、言って聞かせられる心理状態ではなかった。ならばいっそ、極限状態に立たせ、憎む余裕もなくしてしまえば。

 柏原俊介は、苛烈な戦をやる。その戦の中に放り込めば、一之進は余計なことを考える余裕もなくなり、目を覚ましてくれるのではないか。

 極めて乱暴で、危険な考えではあったが、俊介の目を見て、決めた。俊介になら、友の子である一之進を託せる。そう思ったのだ。


 そして俊介は、本当に一之進を立ち直らせてくれた。

 それどころか、一之進は、武士として、一回りも二回りも大きくなったようであった。

 師直には、多くの心残りがあった。

 友であった涼宮正孝の子である一之進も、その一つだった。

 しかし、一之進は、もう心配はいらないだろう。

 師直はそう思った。




「またお立ち寄りください、俊介殿。またお会いしましょう。きっと、是非!」

「あ、ああ。世話になった。左近殿」


 前のめりに言う左近に、俊介が苦笑交じりに答えた。

 それを平蔵が呆れながら見ている。

 高坂屋敷を発つ俊介を見送るため、左近と平蔵は門の外まで出ていた。一之進と大治郎だいじろうも、当然のように左近に連れ出された。

 もう従者でもないのに、なんで俺まで。

 一之進はそう思ったが、目上の左近には逆らえない。

 だが、気になってもいた。柏原俊介が立ち去る。心が落ち着かない

 柏原俊介は仇だ。一之進にとって、それは変わらない。だが、俊介と行動とともにした一週間で、武士として、俊介に鍛え上げられた。育てられた。そんな自覚も、今、一之進にはある。

 心の整理がつかないまま、一之進はこの場にいた。


「平蔵殿。あなたにも世話になった」


 俊介が口を開いた。


「いや。それはこちらも同じことだ、俊介殿」


 平蔵は答えた。俊介と視線を交わし、互いに笑みを浮かべた。言葉は少ないが、互いに認め合っているのが、一之進にも分かった。

 俊介は、次に大治郎に声をかけた。


「大治郎。急に俺の従者などさせて、すまなかったな。だが、助かった」

「いえいえ、とんでもない」


 大治郎は慌てて首を振った。


「武士として、良い経験をさせていただきました。こちらこそ、感謝していますよ」

「そうか。それならば、良かった」


 頭を下げる大治郎に、俊介は穏やかに笑った。

 そして俊介は、一之進に向き合った。

 思わず一之進は、俊介を睨みつけた。しかし俊介は、何も言わない。穏やかな視線を返すだけだった。

 沈黙に耐え切れず、一之進は口を開いた。


「俺は、迷惑だったぞ。柏原俊介の従者などさせられて」

「させたのは師直殿だ。文句は師直殿に言うのだな」


 なんだ、その言い草は。さらりと返す俊介に、一之進は腹が立った


「だが、まあ」


 と、俊介は腕を組んだ。


「俺もまだ甘かったかな。俺の従者をして、そんな文句を言う余裕がまだあるのだからな」


 俊介の言葉に、一之進は唖然とした。

 柏原俊介が甘かった? どこが? あれほど凄まじい戦も、苛烈な立ち合いも、普通であるはずがない。

 思わず一之進が振り返ると、左近、平蔵、大治郎も苦笑いを浮かべている。うん。やっぱりおかしいのは柏原俊介だ。

 そう思って一之進が俊介を睨むと、俊介が口を開いた。


「まあ、悔やんでも仕方ない。後は己自身で鍛えるのだな、一之進」

「ふざけるな。お前に言われるまでもない」


 憤然と一之進は言い返すと、俊介は、一之進の左肩に手を置いた。


「お父上に恥じない武士になれ、一之進。すべては、それからだ」


 一之進を見る俊介の目は、厳しく、それでいて温かかった。

 一之進は、言葉を失った。

 ぽんっと俊介は一之進の肩を叩き、左近らに向き直った。


「では。世話になった」


 俊介はそう言って、背を向けた。

 左近らは名残惜しそうに俊介を見送っている。一之進は無言だった。

 小柄な俊介の背中が遠ざかる。


 あまり大きくないんだな。


 今更ながら、一之進は思った。一見するとその背は、どこにでもいる浪人だが、戦で見る柏原俊介の背は、とてつもなく大きかった。認めたくはないが、とても恐ろしく、とても頼もしかった。


 自分の左肩に、一之進はそっと触れた。俊介の温もりが残っているような気がした。

 俊介は、自身の村の所在を、一之進に伝えていた。


「いつでも来ていい」


 崎枝領からの帰還途中だった。そう言う俊介の声がひどく優しく、そのとき、一之進は何も言えなかった。

 仇として、いつでも立ち会う。出会ったときの俊介のそんな言葉も、嘘偽りなどないと信じられた。

 柏原俊介は優しい人だったのだ、と一之進は思う。仇なのに。憎しみをぶつけ続けたのに。

 憎んでいいのだろうか。憎み続けていいのだろうか。

 一之進は、分からなかった。


「憎しみには囚われないでください」


 崎枝夕維の言葉が、ふと思い出された。あの人も、何の縁もない自分を、心配してくれていた。

 師直や左近ら、高坂家の人々も、自分を心配し、気遣ってくれた。優しい人ばかりだと思う。

 

 もういい。

 一之進は不意に思った。

 どのみち、少なくとも今は、俊介を斬れるはずもないのだ。今の自分の力量は、俊介に遠く及ばない。

 俊介の言葉に従うのは癪だが、今は自分自身を鍛える時だと思う。

 父に恥じることのない立派な武士になろう。

 一之進がそう思い定めたとき、柏原俊介の背は、もう見えなくなっていた。

 それでも一之進は、俊介が歩み去った街道の先をずっと見続けていた。

 父に恥じない武士になろう。

 そして。

 柏原俊介と立ち合えるだけの武士になろう。

 一之進は心に誓う。

 立ち合ったときに、きっと答えが分かる。

 一之進はそう思った。


 ありがとうございます。

 更新がかなり遅れてしまい、誠に申し訳ありません。

 もう少しだけ続く予定ですが、気長にお待ちいただければ幸いです。

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