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 黒井くろい軍は、大きな犠牲を出すこともなく撤退に成功した。

 懸念された寝返りが出ることもなかった。

 黒井軍は撤退の間、黒井くろい景隆かげたかの亡骸を運ぶため、急ぐことができなかったということもあるが、整然と隊伍を崩すことはなかった。

 撤退の総指揮をとる高坂こうさか師直もろなおは、内外に目を光らせて全軍の士気を引き締め、しんがりを務めた崎枝さきえだ・高坂連合軍は、追撃する湯川ゆかわ軍を一蹴した。

 黒井軍本隊はついに一度も窮地に立つことはなく、逆に湯川軍は大きすぎる犠牲を払った。寝返りを図る者があったとしても、即座に逆撃をうけ、壊滅させられたであろう。

 五万もの大軍の撤退としては、類を見ないほどの鮮やかな大成功といっていい。

 そして、それが、当麻とうま十兵衛じゅうべえが指揮した崎枝・高坂連合軍の功績であることは、誰の目にも明らかであった。




 それから、半年が経っていた。


 沢村さわむら左近さこんはため息を禁じ得ない。

 あのとき、黒井景隆公を失った悲しみの一方で、撤退を成功に導いたという確かにあった武将としての充実感も、すっかり消えてしまっている。


 今は、徒労感しかない。

 黒井家中は、あれから政争に明け暮れていた。

 黒井家の新体制に不満を持つ者。権力を得ようとする者。権力を維持しようとする者。陰に陽に権力闘争が続き、終わる気配がない。

 黒井くろい義隆よしたか公。

 景隆公の嫡男として後を継いだ彼がその原因であることは、明らかであった。


 湯川領内で景隆公が倒れた戦陣にあって、義隆公は父である景隆公を補佐する立場であったが、景隆公の死の直後の窮地にあったときの彼は、全てを高坂師直に委ね、何も指示することはなかった。

 しかし、黒井領内に帰還してから、義隆公はすぐに驕慢さを見せるようになった。

 黒井家最大の窮地に何もできなかった後ろめたさもあったのかもしれない。重臣たちの進言に耳を貸さず、独断で全てを決めようとした。黒井家当主としての傲慢なまでの振る舞いは、多くの家臣の不満を呼び、それが逆に義隆公を疑心暗鬼に陥らせたようであった。ますます独断専行になり、義隆公が相談するのは、身近な側近だけであった。


 いびつな状態の中で、義隆公に取り入ろうとする者も現れた。同僚の讒言をなす者まで出て、今や、誰を信用していいか分からない状態であった。

 醜聞。中傷。嘘とも真ともつかぬ様々な噂が家中を飛び交い、それが左近をうんざりとさせた。噂話に嫌気が差した村田むらた平蔵へいぞうなどは、最近、ますます無口になってしまった。


 左近にとって救いは、そんな黒井家中にあって、高坂師直だけが超然としていることだった。

 景隆公の片腕であり続けた師直の声望は今なお衰えず、義隆公といえども無視はできないが、政争を繰り広げるどの派閥にも組せず、中立の立場を貫いていた。

 義隆公は師直を明らかに疎んじていた。名目上は今も筆頭家老は師直だが、最近は師直が知らないうちに決まる政策も多い。

 しかし師直は、不満の色も見せず、黙って義隆公に従っていた。淡々と家老としての務めを果たし、ひたすら家中の仲裁に力を尽くし続けていた。


 左近は、師直の名代として家中の使者に立つことも多かった。

 しかし、左近がどれだけ師直の思いを伝え、家中で争う愚を説こうと、誰もが自らの保身と利益ばかりを言い立て、耳を貸そうとする者はいなかった。それどころか、師直の地位に嫉妬し、師直が保身のために動いていると非難する者もいて、師直の暗殺の噂まで聞こえてくる始末だった。

 左近からすれば、バカバカしい。師直が自らの保身に関心がないことは、側にいる左近が一番知っている。ひたすら無私を貫き、黒井家のために尽くしているというのに、主君からは疎まれ、家中から妬まれる。これでは師直も報われない。




 実際のところ、黒井家は、内輪もめをしているどころではなかった。

 あの湯川家が、急速に復興した。

 あれほどの敗北であったにも関わらず、わずか数か月で立ち直ったのは、東海の雄と呼ばれた湯川家の底力を感じさせた。

 そして、景隆公の死によって、天下の勢力図は一変した。

 景隆の侵攻に成す術もなかった機内の小田おだ家が、今や天下取りの筆頭に躍り出ていた。東方の脅威がなくなり、小田家は一挙に諸地域の制圧を進め、今度は、湯川家と組み、黒井家を攻める意図を隠そうとしない。


 その下準備とばかりに、湯川軍は、黒井家直轄領の周辺にあり、黒井家に従う小領主達の土地に、総勢三万の大軍で侵攻した。長年、黒井家の勢力圏であった地方の半分をまたたく間に併呑した湯川軍は、今、崎枝領に攻めかかっていた。


 湯川軍三万に対し、崎枝軍は総勢五千。

 黒井家にとって最大の盟友である崎枝家。その存亡の危機といっていい。

 崎枝さきえだ夕維ゆいは景隆公の覇業に力を貸し続け、あの景隆公の死後の撤退戦も、崎枝勢の奮闘がなければ成功はありえなかった。これまでの崎枝家の貢献を考えれば、黒井家は迷わず助けるべきであった。


 しかし、義隆公は無視した。

 景隆公は崎枝夕維を対等の盟友と扱い、敬意を払い続けていたが、子の義隆公は、格下として崎枝夕維を見下し、黒井家に従属する諸領主と同列にみなしているのは明らかだった。


 義隆公に黙々と従うことが多い師直が、このときだけは強く諫言した。

 曰く、これまで崎枝夕維は、何ら見返りを求めることなく、ただ友として黒井家のために力を尽くしてくれた。今、危地に陥る崎枝夕維を救わなければ、黒井家の信義は地に落ちる。直ちに援軍を送るべし、と。

 義隆公は不機嫌さを隠そうとはしなかったが、崎枝家の貢献を知らぬ者は家中になく、拒絶もしにくかったのだろう。今は黒井家中に余裕はなく、崎枝家から要請があれば、そのときに考える、と応じ、師直を追い返した。

 それ以上は師直も食い下がることはできなかった。それに、実際のところ、今の黒井家は他国に出兵できるような状態にはないのも事実だった。出兵しても、敵と戦う前に同士討ちをしかねない。


 そして、事実、崎枝家からは、援軍の要請はない。

 崎枝家は今、湯川軍の全面攻勢にさらされているはずだった。それでもなお、助けを請わない。

 崎枝夕維と当麻十兵衛は、いい意味でも悪い意味でも、面子に拘る性格ではない。城を枕に討ち死にするような悲壮な美学とは無縁であろう。

 ならば。


 困っている友に、迷惑かけるわけにいかないよな。


 そんなことを言う十兵衛の顔が、左近の頭に浮かぶ。戦国の世にまるで似つかわしくないが、いかにも十兵衛なら言い出しそうなことだと思う。


 崎枝勢と共に戦った撤退戦がなつかしい。

 景隆公指揮下の黒井軍の、ぴりっと身が引き締まるような空気とは、まるで違う。

 しんがりという死地にありながら、崎枝勢を包むのは、穏やかすぎるほどに、穏やかな空気。のん気といってもいい。食事時には和やかに笑い合い、悲壮感を漂わせることもなく、功名心にはやるでもない。かといって、だらけているでもない。そんな不思議な空気。

 はっきり分かったのは、十兵衛以下、将兵の誰もが、主君である崎枝夕維を心から慕っていること。


 左近は、崎枝夕維に会ったことはなかったが、彼女のひととなりと器量は、充分に察せられた。

 そして今、崎枝夕維は、盟友である黒井家を心配してくれている。自身が存亡の危機にあってなお。左近にはそんな気がしてならない。


 崎枝家は優しすぎる。

 黒井家は、それに甘えてきた。今こそ、その恩を返すべきではないのか。盟友を見捨てるのが黒井家の義か。武家として恥ずべきではないのか。

 いや、それよりも何よりも。

 優しすぎる戦友を、助けたい。

 歯ぎしりするほどに、左近は痛切に思う。




 左近の思いとは裏腹に、黒井家中の政争は止む気配を見せない。

 今も左近は、高坂師直の代理として調停の使者に立ち、帰ってきたところだった。またも徒労に終わり、足が重い。

 高坂家の屋敷の門の前が、騒がしい。

 旅の装いの浪人が、門番と言い争っている。というより、門番が追い返そうとし、浪人がそれに逆らっているらしい。

 また、仕官か。

 珍しいことではない。そう思いながら左近は近づく。


 ………いや、あれは。


 そして気が付いた。


 ………あれは、もしや。


 心の臓の鼓動が高まった。自然と、浪人のもとに歩み寄る足が早まる。


「ごめん」


 左近の声はわずかに緊張を帯びる。


「もしや、柏原かしわら俊介しゅんすけ殿ではありませんか」


 その声に、浪人が振り向いた。

 左近は、息をのむ。やはり。五年前、戦場で目にした雄姿が重なる。


「いかにも。柏原俊介は私です」


 意外に穏やかな声が返ってくる。が、その目には強い意志を感じる。

 やはり、そうだった。思わず左近の身が震える。


「それで、貴公は?」


 尋ねる俊介の言葉も、左近の耳に入らない。


「夢でした」

「は?」

「一度お目にかかれたら。ずっとそう願い続けてきました。柏原俊介殿」


 ずいっと左近は身を寄せ、俊介は半歩身を引く。


「憧れでした。柏原俊介殿こそ武士のかがみ。あなたのようになりたい。ずっとそう思ってきました」

「いや、だから」

「かなうなら、弟子にしていただければ。そうも願ってきたのですが、まさか」

「話を」

「そう、今日の俊介殿の用向きは、黒井家に仕官ということでしょうか。もしもそうなら、望外の喜び。俊介殿の指揮下で剣をとることができるなら、これはもう、末代までの栄誉!!!」

「だから」

「あ。しかし、我が主君は高坂師直様おひとり。ならば、せめて俊介殿門下で軍略の何たるかを御教授いただくだけでも。ああ、いや、もしも、俊介殿に御承知いただけるなら、我が殿にお仕えしていだければ、どちらの夢も………」


 左近のあふれる思いは、強引に遮られた。俊介に襟元を絞り上げられたのだ。


「おい」

「はい?」

「お前の………」


 話しかけて俊介は、気が付いたようにぱっと手を離す。


「………貴公の話もいいが、まず、聞かせてほしい」

「はい」

「貴公はどこのどなたなのだ?」

「あ」


 俊介の言葉に、左近はまだ名乗ってすらいないことに気が付いた。


「ああ、これは、誠に申し訳ありません。つい、舞い上がってしまって………」


 慌てふためく左近は、無論、俊介が自己嫌悪に陥っていることなど気が付かない。


 また、やってしまった。

 俊介のほうも頭を抱えたい思いだった。身分の高い人物の胸倉をつかむなどという下品な振る舞いは、十兵衛以来、二度とするまい、心に誓っていたのに。

 しかし、と俊介は内心で愚痴る。このバカバカしいノリは、十兵衛にそっくりだ、と。こいつら、気が合うのではないか。

 無論、俊介も、目の前の武士と十兵衛が既に戦友であることなど、知る由もない。




 半刻後、俊介は、高坂師直、そして左近を含む郎党五騎ともに馬を駆けさせていた。

 左近は、一行の最後尾で俊介と馬を並べている。

 高坂師直の屋敷前でひと悶着はあったものの、俊介は高坂家に歓迎された。俊介の来訪を知るや、師直自らが俊介を出迎えたほどである。


 が、折悪く、師直は主君である黒井義隆公に呼び出しを受けたところだった。

 そこで師直自ら申し出たのである。


「もしよければ、黒井城下の我が屋敷まで同行せぬか」


 俊介の用向きも火急と見て、今宵、黒井城下でなら俊介と面談の時間をつくろう、と師直はいったのである。


 俊介も迷わず応じた。

 俊介には決死の覚悟が見える。その用向きは、左近には分かる気がした。多分、師直もそうであろう。士官などと悠長な話ではないことは、俊介の目を見れば明らかだ。

 師直は、どうするつもりなのだろう。俊介の用向きは、容易に応じられるものではないはずだ。左近としては、俊介の力になりたいが。


 ふと馬で並走する俊介の顔が目に入る。穏やかだった表情に、緊張が走っている。

 どうしたのか。左近は声をかけようとして、不意に気づき、前方に視線を転じた。

 騎馬兵と足軽からなる軍勢が脇の森から飛び出し、街道を塞ぐ。兵数は三十か。


「!」


 ぱっと左近は振り返る。後方にも二十ほどの兵。囲まれた。

 師直暗殺の噂はあった。まさか、と思っていたのだが、甘かったらしい。

 そこまでするのか。左近は怒りに震えつつ、あの鉄の忠誠を誇った黒井家臣団もそこまで堕ちたのか、と虚しさも込み上げる。


「左近殿」


 俊介の声に、左近は振り向いた。


「時間をかければ、押し包まれる。今は考えるよりも動くべきだ」

「そのとおりですが、しかし」

「俺が突破口を切り開く。左近殿は、そこから師直殿を脱出させよ」

「え、あ、俊介殿………!」


 左近の声に構わず、俊介は馬腹を蹴り、一気に駆けさせ、馬を止めていた師直達をすぐに追い越す。

 逡巡を飲み込み、左近も決意した。俊介を見て驚く師直に、左近は馬を並べる。


「師直様。俊介殿が道をつくります。そこから脱出を」

「………相分かった」


 師直が頷くのを見て、左近は他の郎党にも命じる。


「皆も、俊介殿に続け。師直様を守り参らせよ!」

「おう!」


 師直とともに、郎党らが俊介を追って馬を駆けさせた。郎党らは師直を真ん中において縦列。左近はその最後尾につける。後方の敵兵二十に、誰かがしんがりを務めなければならない。見れば、後方の敵兵も、師直達が駆け出したのを見て、追いかけてくる。

 突破に時間はかけられない。

 しかし、前方には、道幅の狭い街道に、敵兵三十の縦深陣。悲観的にならざるをえない。

 決死の覚悟で左近は前方に視線を転じ、


 ………息をのんだ。


 鮮血が飛び散った。

 俊介が敵陣に正面から飛び込むや、先頭の二騎が血しぶきとともに斃れる。

 さらに二騎。

 俊介が馬で駆け抜けた後に、敵兵が次々と斃れ伏す。俊介の剣さばきすら見えない。俊介は単騎で敵の縦深陣をあっという間に斬り裂き、もはや突破は時間の問題と思えた。


 気配を感じ、左近は振り返った。同時に刀を一閃させる。

 敵兵が馬上から転落する。

 後方から敵の騎馬兵が、迫ってきていた。

 が、もう遅い。

 ほんのわずかな時。後方の敵兵をその間だけ防げば、師直は俊介が脱出させてくれる。


「おおおおおっ!!!」


 左近は馬首を返した。

 迫る敵の騎馬兵を一刀のもとに斬り落とす。

 あれが、柏原俊介だ。血が熱くなっている。

 敵兵が左近を取り囲む。

 左近は迷わず敵の一人に馬を寄せ、刀を振るった。一合の後、敵を頭頂部から斬り下げる。


 もはや後顧の憂いもない。主君たる師直と俊介に恥じぬ死に様を見せてやる。それだけを思った。

 背後からの白刃を、左近は振り向きざま弾く。が、さらに反対側から敵が迫る。

 左近は、死を覚悟した。


 そのとき。


 左近が敵の一人を袈裟懸けに斬って捨てるのと同時に、もう一人の敵も、鮮血とともに落馬した。斬ったのは、先頭を駆けているはずの柏原俊介。


「俊介殿!?」

「案ずるな。師直殿は無事脱出された」


 穏やかに応える俊介に、左近はさらに驚く。

 早すぎる。このわずかな間に、俊介は敵の縦深陣の中を突破し、さらに戻ってきたのか。

 が、敵がさらに迫る。

 驚くのは後だ、と左近が刀を構えると、無造作に俊介が馬を進めた。


 そう思った次の瞬間、敵の二騎が血しぶきをあげた。

 左近の肌が泡立つ。

 さらに三騎。敵の繰り出す刀や槍は、俊介には当たらない。一合すらできない。ただの一度の斬撃で斃す。

 まさに鎧袖一触。左近は身が震えた。

 俊介の凄まじいまでの豪勇を目の当たりにし、もはや敵は近づこうとしない。俊介と左近を遠巻きにしているが、明らかに怯える表情を見せている。


 俊介は馬首を返した。


「左近殿、行こう。師直殿を追わねば」

「は、はい」


 俊介は馬を駆けさせ、左近も続く。

 街道の前方を塞いでいた三十の敵兵も、いつの間にか立っている者は十名余りになっていた。

 その兵達も戦意を喪失していて、慌てて道を開ける。その中を俊介と左近は馬で駆け抜けた。

 これこそが、柏原俊介なのだ。

 まさに、鬼神。

 俊介の背中を追いながら、左近は、憧憬の眼差しを向けた。


ありがとうございます。

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