呪いと呼ばれた才能
倉庫の扉は、三度目の呼びかけでようやく開いた。
現れたのは、灰色の髭をたくわえた男だった。南岸倉庫の管理者だと名乗ったが、ミレアとユハンが差し出した共同調査契約の写しを見るなり、顔をしかめた。
「商会の許可はあるのか」
「市庁舎から調査の承認を受けています。倉庫内の記録については、所有者であるあなたの同意が必要だと分かっているので、お願いに来ました」
ユハンが落ち着いて答える。
「お願いなら断る。ここは商会の倉庫だ」
「しかし、この倉庫へ水を引くために水路の流れが変えられた記録があります。住民の生活に関わることです」
「古い話だ。今さら掘り返して、何になる」
男はそう言って扉を閉めようとした。
その隙間から、ミレアの目に棚の上の帳面が見えた。革表紙は湿気で膨らみ、背に白い粉が浮いている。表紙に記された年号の最後の一文字が欠けていた。
けれど、欠けた部分の周りには、かすかな文字の影が残っている。
――水利変更、承認者……。
読めたのはそこまでだった。
ミレアは扉に手をかけたまま、静かに言った。
「その帳面に、承認者の名前があります」
管理者の顔色が変わった。
「見えているのか」
「見えているのは、欠けた文字の跡です。まだ、名前の全部は読めません」
「だったら、何も分からんだろう」
「分からない部分があることと、何もないことは違います」
ミレアが答えると、男はしばらく黙った。やがて扉を少しだけ開け、二人を中へ通した。
倉庫の中は、乾いた穀物と油の匂いがした。積まれた木箱の奥に、古い帳面が並んでいる。ミレアは許可を得て、一冊ずつ机の上へ運んだ。ユハンは帳面の置かれていた棚の位置を測り、背表紙の番号を地図に書き写していく。
作業を始めてしばらくすると、入口の方から声が聞こえた。
「本当に、あの女が文字を読んでいるのか」
「欠けたところを読むんだそうだ」
「そんなの、死者の声を聞くのと同じじゃないか」
誰かが笑った。
ミレアの指が止まった。
「気にしなくていい」
ユハンが小声で言う。
「気にしないようにしてきました」
ミレアは帳面から目を離さなかった。
「でも、こういう噂は、いつも誰かの都合で生まれます」
欠落した文字を読めること。それは以前、商会では便利な才能と呼ばれていた。契約の抜け道を探し、相手が見落とした条件を拾い、損をする側に不利な文面を整える。その仕事を断れば、恩知らずだと言われた。
そして、婚約者のサーヴェンが大きな取引を失敗したとき、同じ力は呪いと呼ばれた。
ミレアは帳面の端を撫でた。古い紙の繊維が、指先にざらついている。
「私が初めて欠けた文字を読んだのは、母の薬代を払うための契約書でした」
ユハンの筆が止まった。
「父は商人ではありませんでしたが、字を読めました。母の治療費を借りるため、村の地主と契約したんです。返済が遅れた場合、畑の一部を渡すという内容でした」
「それが違っていた?」
「文字が一行、削られていました。私には、その跡が見えた。畑を渡すのではなく、家屋と井戸も含む、と書かれていたはずでした」
ミレアは淡々と話した。
「父は契約を破棄しようとしました。でも、地主は削られた部分など最初からなかったと言った。私がそう読んだと話すと、父は娘に変な力を使わせるなと怒られました」
「誰に?」
「地主にです。そのあと、商会の人間が来ました。欠けた文字を読めるなら、働かないかと。私は母の薬が必要だったので、そこへ行きました」
そこで能力を利用された。
ミレアは言葉にしなかったが、ユハンには伝わったらしい。彼は何も尋ねず、帳面の横に水差しを置いた。
「商会では、私が読むたびに契約が有利になりました。けれど、失敗したときは、私が余計な文字を見たせいだと言われました」
「サーヴェンも?」
「彼は、最初は私を庇いました。少なくとも、そう見えました」
ミレアは苦く笑った。
「婚約の話が出てからは、私が商会に従うことを当然だと思うようになった。最後に偽造が発覚したとき、彼は私が勝手に文字を書き換えたと言いました」
帳面の上に、薄い沈黙が落ちた。
入口の外で、また誰かが囁いた。
「呪われた女を倉庫に入れるなんて」
今度は、ユハンが扉の方を振り返った。
「ミレアは呪いではありません」
声は大きくなかったが、倉庫の中にはっきり響いた。
「確かめる仕事をしているだけです。読めないものを読めるふりもしない。読めたものを、誰かの都合で隠しもしない」
管理者の男が、棚の前で息を呑んだ。
「……昔、同じような娘を見たことがある」
彼は低い声で言った。
「商会の書記だった。水路の協定書を見て、倉庫の権利は期限つきだと騒いだ。翌月には、偽造の罪で追い出された」
ミレアは顔を上げた。
「その人の名前は?」
「知らん。だが、協定書の写しを一枚だけ残していった」
男は棚の奥から、布に包まれた薄い紙を取り出した。紙の中央には、大きく裂けた跡がある。文字の一部は失われていたが、ミレアにはその周囲に残った影が見えた。
――倉庫への分水は、収穫期の……。
そして、削られた末尾に、別の条文が重ねられている。
――ただし、住民組合の承認なく変更してはならない。
ミレアは息を止めた。
「この条文は、後から削られています」
「読めるのか」
「はい。けれど、ここだけでは断定できません。別の写しが必要です」
ユハンはすぐに紙の寸法と裂け目の位置を測った。
「それでも、重要な手がかりです」
管理者の男は、しばらく紙を見つめていた。
「持っていっていい」
「預かるだけにします。写しを作り、原本はあなたに返します」
ミレアが言うと、男は驚いたように目を瞬いた。
「呪いだというなら、もっと欲しがるものじゃないのか」
「私は、誰かのものを奪うために読んでいるのではありません」
ミレアは欠けた文字の上に、そっと透明紙を重ねた。
「欠けたものを、欠けたまま記録するためです」
帰り道、水路沿いには噂を聞きつけた人々が集まっていた。視線はまだ好意的ではない。それでも、誰も「呪い」と叫ばなかった。
ユハンが隣を歩きながら言う。
「話してくれて、ありがとうございました」
「私の過去を?」
「話したくないことを、話してくれたことを」
ミレアは水面を見た。朝より流れは弱いが、濁りの底には確かな方向がある。
「過去を隠していると、誰かに勝手な意味をつけられます。だから、今日は私の言葉で話しました」
「これからも、あなたの言葉で決めてください」
ユハンはそう言って、歩調を合わせた。
ミレアは胸元の契約書に触れた。二人の名が並んだ紙は、まだ新しく、折り目も浅い。
噂は消えないかもしれない。けれど、欠けた文字を読む力を、誰かの呪いとして差し出すつもりはなかった。
それは、彼女が自分の人生を選び直すための、ただ一つの才能だった。




