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欠けた契約を読む令嬢は、水路都市で居場所を結び直す  作者: 銀細工ナギ


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7/20

元婚約者の取り戻し工作

 南岸倉庫から戻った翌朝、工房の扉の下に一枚の紙が差し込まれていた。


 紙には、見覚えのある青い封蝋が押されている。ミレアは封を切る前から、差出人の名を知っていた。


 ――サーヴェン・アーデル商会。


 開いた紙には、簡潔な文章が並んでいた。


『三日以内に、旧婚約者サーヴェン・アーデルと面会せよ。応じない場合、偽造事件に関する証拠を市庁舎へ提出する』


 署名の下には、古い契約書の断片が添えられていた。


 ミレアの喉が、ひどく乾いた。


 紙の右端には、かつて自分が働いていた商会の帳簿に使われる印がある。中央には黒く塗りつぶされた一行。だが、その周囲には文字の影が残っていた。


 ――契約改定の指示を受け、ミレアが書き換えを行う。


 あの事件のとき、法廷に提出された証拠と同じ文言だった。


「脅迫だな」


 ユハンが紙を受け取り、眉を寄せた。


「証拠があるなら、面会を求める必要はありません。最初から提出すればいい」


「私を呼び戻したいのだと思います」


 ミレアは自分の声が驚くほど冷静なのに気づいた。


「サーヴェンは、私がいなければ商会の契約を読めない。新しい水利事業に関わるなら、欠落文字を読める人間が必要です」


「だから、あなたを脅して連れ戻す」


「戻れば、証拠を消すと言うのでしょう」


 その日の午後、指定された場所へ向かうと、旧市街の空き店舗にサーヴェンは待っていた。


 以前より痩せていた。高価な外套も、磨かれた靴も変わらない。けれど、目の奥には焦りがあった。


「久しぶりだ、ミレア」


「呼び出した理由を聞かせてください」


「冷たいな。婚約者だった相手に対する態度とは思えない」


「婚約は、あなたが私を偽造犯にした時点で終わっています」


 サーヴェンの口元が引きつった。


「誤解だ。あのときは商会を守る必要があった」


「私を差し出して?」


「君なら、少し我慢すれば済むと思った。商会が落ち着けば、すぐに迎えに行くつもりだった」


 ミレアは返事をしなかった。


 サーヴェンは机の上に数枚の書類を広げた。すべて古い契約書の写しだった。中には、事件の直前に彼女が扱った記録もある。


「この中に、君が書き換えたと証明できるものがある。筆跡鑑定も済んでいる」


「私の筆跡に似せたものではなく?」


「そんな疑い深いところも、昔は可愛かった」


 ミレアの指先が冷えた。


「今、私を商会へ戻すなら、証拠は伏せる。身分も、婚約者の地位も取り戻せる。君の力があれば、今回の水利契約は必ず成功する」


「戻らなければ?」


「偽造犯として、もう一度裁かれる。今度は水路都市でだ。君がここで何をしているかも、住民たちに知られることになる」


 サーヴェンは、南岸倉庫から出た写しのことまで知っていた。


 ミレアは書類の一枚に目を落とした。黒く塗られた一行の下に、わずかな紙の膨らみがある。塗料を重ねた跡だ。文字を隠したのではなく、別の文を上から押しつけている。


 彼女は息を整えた。


「この証拠は、あなたが作ったものですね」


「何を根拠に」


「欠落した文字の影が、本文の流れと合っていません。ここに書かれていたのは、私が書き換えたという文ではない」


「読めるふりをするな」


「ふりではありません」


 ミレアは書類を裏返した。


「紙の繊維が途中で潰れています。上から別の紙を押し当てて、文字の跡を移した。しかも、この紙は事件後に作られたものです。保存油の匂いが新しい」


 サーヴェンの顔から血の気が引いた。


 ミレアは一枚ずつ書類を確認した。最後の紙の隅に、商会の古い記録番号がある。その番号は、事件の三か月後に廃棄された帳簿の番号と一致していた。


「この証拠を出せば、あなたも調べられます」


「脅すつもりか」


「違います。あなたが私にしたのと同じことを、事実として伝えているだけです」


 扉の外で足音がした。ユハンが約束どおり、少し離れた場所で待っている。入る気配はない。彼は、ミレア自身が決める時間を守っていた。


「戻る気はありません」


 ミレアは書類を机へ置いた。


「私はもう、あなたの商会のために文字を読むことはしない」


「君一人で何ができる」


「一人ではありません」


 ミレアは立ち上がった。


「私には、調べる契約があります。証言してくれる人もいる。あなたが隠した文字を、今度はあなたの都合で消させない人たちがいます」


 サーヴェンは椅子を蹴るように立った。


「ユハンに唆されたのか。あの測量士は、君を利用しているだけだ」


「その言葉を、彼の前で言えますか」


 ミレアが扉を開けると、ユハンは廊下の壁際に立っていた。手には、市庁舎の受付印が押された書類がある。


「調査記録の提出先を、市庁舎の正式な審査部に変更してもらいました」


 彼はサーヴェンを見た。


「ミレアへの脅迫状も、複写を取ってあります」


 サーヴェンは二人を睨みつけたが、何も言えなかった。


 外へ出ると、薄曇りの空から細い雨が落ち始めた。


「怖くなかったですか」


 ユハンが尋ねた。


「怖かったです」


 ミレアは正直に答えた。


「でも、戻る方がもっと怖い。あの人の言葉を聞いていると、私が一度失ったものを、まだ私の所有物だと思われている気がしました」


「あなたは誰の所有物でもありません」


「分かっています。今日、ようやく自分の口で言えました」


 ミレアは封蝋の割れた手紙を握った。サーヴェンは証拠を持っていると言った。だが、その証拠こそが、彼の手で作られた可能性を示している。


 工房へ戻る道の先で、水路の水面が雨粒に揺れていた。


 欠けた文字は、過去を変えない。けれど、隠されたものを隠されたままにしないことはできる。


 ミレアは濡れた紙を胸元にしまい、歩き出した。今度は、誰かに呼び戻されるためではなく、自分の選んだ場所へ帰るために。

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