元婚約者の取り戻し工作
南岸倉庫から戻った翌朝、工房の扉の下に一枚の紙が差し込まれていた。
紙には、見覚えのある青い封蝋が押されている。ミレアは封を切る前から、差出人の名を知っていた。
――サーヴェン・アーデル商会。
開いた紙には、簡潔な文章が並んでいた。
『三日以内に、旧婚約者サーヴェン・アーデルと面会せよ。応じない場合、偽造事件に関する証拠を市庁舎へ提出する』
署名の下には、古い契約書の断片が添えられていた。
ミレアの喉が、ひどく乾いた。
紙の右端には、かつて自分が働いていた商会の帳簿に使われる印がある。中央には黒く塗りつぶされた一行。だが、その周囲には文字の影が残っていた。
――契約改定の指示を受け、ミレアが書き換えを行う。
あの事件のとき、法廷に提出された証拠と同じ文言だった。
「脅迫だな」
ユハンが紙を受け取り、眉を寄せた。
「証拠があるなら、面会を求める必要はありません。最初から提出すればいい」
「私を呼び戻したいのだと思います」
ミレアは自分の声が驚くほど冷静なのに気づいた。
「サーヴェンは、私がいなければ商会の契約を読めない。新しい水利事業に関わるなら、欠落文字を読める人間が必要です」
「だから、あなたを脅して連れ戻す」
「戻れば、証拠を消すと言うのでしょう」
その日の午後、指定された場所へ向かうと、旧市街の空き店舗にサーヴェンは待っていた。
以前より痩せていた。高価な外套も、磨かれた靴も変わらない。けれど、目の奥には焦りがあった。
「久しぶりだ、ミレア」
「呼び出した理由を聞かせてください」
「冷たいな。婚約者だった相手に対する態度とは思えない」
「婚約は、あなたが私を偽造犯にした時点で終わっています」
サーヴェンの口元が引きつった。
「誤解だ。あのときは商会を守る必要があった」
「私を差し出して?」
「君なら、少し我慢すれば済むと思った。商会が落ち着けば、すぐに迎えに行くつもりだった」
ミレアは返事をしなかった。
サーヴェンは机の上に数枚の書類を広げた。すべて古い契約書の写しだった。中には、事件の直前に彼女が扱った記録もある。
「この中に、君が書き換えたと証明できるものがある。筆跡鑑定も済んでいる」
「私の筆跡に似せたものではなく?」
「そんな疑い深いところも、昔は可愛かった」
ミレアの指先が冷えた。
「今、私を商会へ戻すなら、証拠は伏せる。身分も、婚約者の地位も取り戻せる。君の力があれば、今回の水利契約は必ず成功する」
「戻らなければ?」
「偽造犯として、もう一度裁かれる。今度は水路都市でだ。君がここで何をしているかも、住民たちに知られることになる」
サーヴェンは、南岸倉庫から出た写しのことまで知っていた。
ミレアは書類の一枚に目を落とした。黒く塗られた一行の下に、わずかな紙の膨らみがある。塗料を重ねた跡だ。文字を隠したのではなく、別の文を上から押しつけている。
彼女は息を整えた。
「この証拠は、あなたが作ったものですね」
「何を根拠に」
「欠落した文字の影が、本文の流れと合っていません。ここに書かれていたのは、私が書き換えたという文ではない」
「読めるふりをするな」
「ふりではありません」
ミレアは書類を裏返した。
「紙の繊維が途中で潰れています。上から別の紙を押し当てて、文字の跡を移した。しかも、この紙は事件後に作られたものです。保存油の匂いが新しい」
サーヴェンの顔から血の気が引いた。
ミレアは一枚ずつ書類を確認した。最後の紙の隅に、商会の古い記録番号がある。その番号は、事件の三か月後に廃棄された帳簿の番号と一致していた。
「この証拠を出せば、あなたも調べられます」
「脅すつもりか」
「違います。あなたが私にしたのと同じことを、事実として伝えているだけです」
扉の外で足音がした。ユハンが約束どおり、少し離れた場所で待っている。入る気配はない。彼は、ミレア自身が決める時間を守っていた。
「戻る気はありません」
ミレアは書類を机へ置いた。
「私はもう、あなたの商会のために文字を読むことはしない」
「君一人で何ができる」
「一人ではありません」
ミレアは立ち上がった。
「私には、調べる契約があります。証言してくれる人もいる。あなたが隠した文字を、今度はあなたの都合で消させない人たちがいます」
サーヴェンは椅子を蹴るように立った。
「ユハンに唆されたのか。あの測量士は、君を利用しているだけだ」
「その言葉を、彼の前で言えますか」
ミレアが扉を開けると、ユハンは廊下の壁際に立っていた。手には、市庁舎の受付印が押された書類がある。
「調査記録の提出先を、市庁舎の正式な審査部に変更してもらいました」
彼はサーヴェンを見た。
「ミレアへの脅迫状も、複写を取ってあります」
サーヴェンは二人を睨みつけたが、何も言えなかった。
外へ出ると、薄曇りの空から細い雨が落ち始めた。
「怖くなかったですか」
ユハンが尋ねた。
「怖かったです」
ミレアは正直に答えた。
「でも、戻る方がもっと怖い。あの人の言葉を聞いていると、私が一度失ったものを、まだ私の所有物だと思われている気がしました」
「あなたは誰の所有物でもありません」
「分かっています。今日、ようやく自分の口で言えました」
ミレアは封蝋の割れた手紙を握った。サーヴェンは証拠を持っていると言った。だが、その証拠こそが、彼の手で作られた可能性を示している。
工房へ戻る道の先で、水路の水面が雨粒に揺れていた。
欠けた文字は、過去を変えない。けれど、隠されたものを隠されたままにしないことはできる。
ミレアは濡れた紙を胸元にしまい、歩き出した。今度は、誰かに呼び戻されるためではなく、自分の選んだ場所へ帰るために。




