止まった水門の契約
翌朝、ミレアはまだ薄暗いうちに市庁舎へ向かった。
地下室には、昨夜のまま協定書が開かれていた。炭は消えかけ、机の上には細かな灰が積もっている。ユハンはすでに来ており、窓のない部屋で地図を広げていた。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「私もです」
ユハンは苦笑した。地図の上には、ラーデンを縦横に走る運河と、十二か所の水門が描かれている。そのうち、南岸水門を含む三つには赤い印がつけられていた。
「昨夜、記録を照合しました。第三条の通知規定が守られていないなら、十年前の閉鎖は協定違反です。ただ、それだけでは今の流れを戻せません」
「水門そのものが壊れているのですか」
「完全に壊れたわけではありません。動かす方法が分からないのです」
ユハンは別の紙を取り出した。古い水門の構造図だった。歯車と鎖の位置、その脇に小さな文字で開閉の手順が書かれている。
けれど、肝心の最後の一行が欠けていた。
ミレアは紙を受け取り、灯りを近づけた。欠落部分には淡い影が沈んでいる。文字は古いが、協定書よりもはっきりしていた。
「歯車を三度回し、鎖を一尺緩める。その後、南側の留め金を外す……」
そこで影が途切れた。
「続きは?」
「水位が一定になるまで、門を半分だけ開く」
ユハンはすぐに地図へ視線を落とした。
「半分だけ。全開にしてはいけないのですね」
「そのようです。急に水を流すと、下流の土手が崩れる、と」
「それなら、今日試せます」
市庁舎の役人に許可を求めると、年配の書記官が不安そうに眉をひそめた。南岸水門は長く使われていない。もし土手が崩れれば、責任を負う者が必要になる。
「失敗した場合は、誰が責任を取るのですか」
「私が測量します。手順は協定書と構造図に基づいています」
ユハンが答えると、ミレアも続けた。
「私は読んだ内容を記録します。二人の作業として、すべて残してください」
書記官は二人を見比べたあと、渋々と許可証に印を押した。
水門の前には、すでに何人かの住民が集まっていた。下流の農家らしい女や、荷船を止めた船頭が、期待と警戒の入り混じった顔で鉄の門を見つめている。
ユハンは水路の両岸に杭を打ち、水位を測る道具を据えた。
「合図をしたら、歯車を回します。ミレアさんは記録を」
「分かりました」
錆びた歯車は、最初の一回で大きく軋んだ。二回目には、地下から響くような音がした。三回目を回すと、固まっていた鎖がわずかに動いた。
水門の前に、ざわめきが広がる。
「鎖を一尺」
ユハンが言った。
ミレアは目盛りを確かめた。鎖を緩めると、門の隙間から黒い水が細く流れ出した。泥と腐った草の匂いが押し寄せる。誰かが息をのんだ。
「南側の留め金です」
ユハンが水門脇へ回った。留め金は石壁の奥に埋まり、表面を厚い錆が覆っていた。彼が金具を叩くたび、赤茶色の粉が落ちる。
やがて、金属の音がひとつ響いた。
留め金が外れた。
水門は、ほんの少しだけ持ち上がった。せき止められていた水が、細い銀色の帯となって下流へ走っていく。淀んでいた水面に波が生まれ、枯れた葦が揺れた。
住民の間から、低い歓声が起こった。
「まだ半分です」
ユハンは水位計を見ながら言った。「これ以上は動かしません。今は流れを安定させます」
ミレアは記録用紙に、時刻と水位、門の開いた幅を書き込んだ。手が震えていた。欠けた文字が、紙の上だけでなく、現実の水を動かしたのだ。
だが、喜びは長く続かなかった。
水門の柱に、見慣れない金具が打ち込まれているのをユハンが見つけた。古い石に新しい傷があり、その金具から細い鎖が水路の脇へ伸びている。
「これは協定の構造図にありません」
ユハンは鎖をたどった。行き先は、南岸水門の脇に建つ倉庫だった。倉庫の裏手には、細い分水路があり、そこへ水を引き込む仕組みが隠されている。
ミレアは分水路の入口に取り付けられた板を見た。板には新しい文字で、「私有地につき立入禁止」と刻まれている。
「水門を閉じていた理由は、下流の水不足だけではありません」
彼女が言うと、ユハンは黙って鎖を見つめた。
ミレアは倉庫の壁に貼られた古い管理票へ近づいた。紙の端は破れていたが、欠けた文字の影が残っている。
――水門閉鎖後、余剰水は北岸倉庫へ移送する。
その下には、管理者の名が書かれていた。けれど名前の一部が削り取られ、別の紙片で覆われている。
ミレアが指をかざすと、消えた文字が浮かび上がった。
――レイヴァン商会。
その名を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
故郷で彼女を雇い、彼女の読んだ文字を商売に使い、最後には偽造の罪を負わせた商会。偶然とは思えなかった。
ユハンが彼女の表情を見た。
「知っている名ですか」
「はい。私がいた商会の名です」
水門から流れた水が、下流の石を濡らしていく。ようやく動き始めた水の先に、古い不正の影が伸びていた。
「レイヴァン商会が、この町にも関わっているのでしょうか」
「分かりません。でも、記録にはそうあります」
ミレアは管理票を取り外さず、その場で写し取った。現存する文字と、欠落部分から読めた文字を分けて書く。筆先はもう震えていなかった。
「ユハンさん」
「はい」
「この水門は、誰かが止めたのではなく、誰かが止め続けていたのだと思います」
ユハンは流れる水を見た。
「なら、止めた理由も、止めた人も、記録から探しましょう」
二人は開きかけた水門の前で、新しい調査の始まりを見つめていた。水はまだ細い。けれど、止まってはいなかった。




