欠けた文字を読む力
ラーデンに着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を降りたミレアは、まず水の匂いを感じた。故郷の井戸や雨だまりとは違う。長いあいだ石壁の内側を流れ、陽に温められ、幾つもの橋をくぐってきた水の匂いだった。
街は運河を中心に広がっていた。道の代わりに水路が走り、家々の玄関先には小さな桟橋がある。荷を積んだ平底船がゆっくりと進み、船頭たちが声を掛け合っていた。その一方で、いくつかの水路は泥と藻に覆われ、底の見えない緑色の水をたたえている。
手紙にあった待ち合わせ場所は、東門近くの古い水門だった。
ミレアは通りすがりの人に尋ねながら、石造りの橋を三つ渡った。水門のそばには、崩れかけた監視小屋と、半ば倒れた標識があった。標識には「第二運河・南岸水門」と刻まれている。
だが、水門は閉じたままだった。
鉄の鎖が錆びつき、歯車には泥が詰まっている。水門の向こう側では細い水流がせき止められ、淀んだ水面に枯れた葦が浮かんでいた。
「ミレア・エルナさんですか」
背後から声がした。
振り向くと、濃い灰色の外套を着た男が立っていた。年は二十代後半ほどに見える。日に焼けた顔に、細い傷がひとつ、左の眉からこめかみにかけて走っていた。手には巻いた地図と、長い木の定規を持っている。
「はい。あなたは?」
「ユハン・レイス。ラーデンの測量士です」
彼は名乗ったあと、すぐに頭を下げた。商会の人間がする、相手を値踏みするような礼ではなかった。簡潔で、仕事の始まりを告げるための礼だった。
「依頼の手紙をくださった方ですか」
「手紙を書いたのは私です。来てくださって助かりました」
助かった、と言われて、ミレアはわずかに戸惑った。これまで彼女は、必要だと言われたことはあっても、来たことそのものを喜ばれた覚えがなかった。
ユハンは水門へ目を向けた。
「ラーデンの南側には、昔から三つの運河があります。雨の少ない年でも畑へ水を引けるよう、百年以上前に水利協定が結ばれました。ところが、十年ほど前から流れが変わり、今では上流の二つの地区しか水を使えません」
「協定書が残っているのですね」
「市庁舎の地下に原本があります。ただ、湿気で紙が傷み、何か所も文字が抜けている。読めない箇所を補えば、水門を開く順番と、各地区の負担が分かるはずです」
ユハンはそう言いながら、ミレアの顔を見た。
「あなたの力について、詳しくは聞いていません。失われた文字を読める、とだけ」
「私にも、どうして読めるのかは分かりません」
「理由を尋ねるつもりはありません。読めるかどうかを、記録に残してほしいのです」
その言葉に、ミレアは少しだけ肩の力を抜いた。
市庁舎は水門から歩いてすぐだった。石造りの建物の地下には、古い記録を収めた棚が並んでいる。湿気を避けるための窓はなく、壁際に置かれた炭がかすかに煙っていた。
ユハンは一番奥から、革紐で綴じた書類を取り出した。
「これです。ラーデン水利協定、暦年四百十二年の写し」
表紙はひび割れ、革の一部が剥がれていた。紙も端から茶色く変色している。ミレアは手袋をつけ、机の上に布を敷いた。
「原本ではなく、写しですか」
「原本は火事で失われました。これは当時の書記官が作った控えです。少なくとも、そう伝えられています」
ミレアは最初のページを開いた。
条文は古い書式で書かれていたが、読みづらいのは文体のせいではなかった。ところどころに、紙そのものが欠けたような空白がある。虫に食われた跡とも、湿気で剥がれた跡とも違った。文字の列が途中で切れ、周囲の紙だけが不自然に残っている。
彼女は拡大鏡を取り出した。
紙に顔を近づける。空白の向こうには、いつものように淡い影があった。消された文字は、ただ見えなくなったのではない。そこにあった意味だけが薄い光となって、紙の繊維の中に沈んでいる。
第一条。水門の開閉は、上流地区の申し立てを優先する。
第二条。干ばつの際は、すべての地区に均等に分配する。
第三条――。
ミレアはそこで指を止めた。
第三条の半ばが、大きく抜け落ちている。残っている文章は、「南岸水門を閉じる場合、下流の農地に対し……」までだった。
彼女は息を整え、消えた部分を追った。
水門を閉じる場合、下流の農地に対し、三日の猶予を通知すること。通知を怠った場合、閉鎖を命じた者は、損失の補償を負う。
その文字が浮かび上がった。
だが、ミレアはすぐには口にしなかった。
「何かありますか」
ユハンの声が低くなる。
「第三条に、通知について書かれています。水門を閉じる前に、下流へ三日の猶予を知らせること。知らせなかった場合は、命じた者が損失を補償する、と」
ユハンは黙って紙を見つめた。
「その一文は、現在の写しにはありません」
「はい。けれど、消された文字として残っています」
「読める内容を、推測ではなく記録できますか」
「できます。ただし、私が読んだものと、紙に残っている文字は分けて書く必要があります」
ミレアは筆を取り、別紙に二列の表を作った。左には現存する文、右には欠落部分から読み取った文を書く。自分の判断を混ぜないよう、見えた順に、意味を変えずに記していく。
ユハンはその手元をじっと見ていた。
「商会では、こういう記録を作っていたのですか」
「いいえ。商会では、依頼主が望む形にまとめました」
「望む形に?」
「読めたものが不都合なら、読めなかったことにしました」
言ってから、ミレアは自分の声が思ったより平らなことに気づいた。
ユハンはしばらく黙っていた。それから、机の端に置かれた別の紙を取り上げた。
「では、こちらも見てください。十年前に、南岸水門が閉じられたときの記録です」
そこには、下流地区への通知が「済」とだけ記されていた。
ミレアは記録の横に残る薄い空白へ目を向けた。
消された文字は、今度は一行ではなかった。誰かの署名の下に、短い但し書きが沈んでいる。
――通知は口頭のみ。農地代表、不在。
ミレアは顔を上げた。
「これは、通知していません」
ユハンの指が、紙の上で止まった。
「本当に?」
「代表が不在だった、とあります。口頭で伝えたことにしたようですが、受け取った人の署名がありません」
地下室の炭が、ぱちりと音を立てた。
ユハンは記録を取り戻すように手を伸ばさなかった。ただ、ミレアの書いた文字を見ていた。
「このことで、あなたを疑う人もいるでしょう」
「慣れています」
「私は疑いません」
あまりに早い返事だった。
ミレアが顔を上げると、ユハンは気まずそうに視線を逸らした。
「少なくとも、あなたが何を見たかは、あなた自身の記録として扱います。都合の悪い部分を消す理由が、私にはありません」
その言葉は、契約書よりも簡素だった。だからこそ、ミレアの胸にまっすぐ届いた。
彼女は再び紙へ目を戻した。
欠けた文字の奥に、まだ多くの事実が眠っている。水門を閉じた者の名も、失われた水の行き先も、十年前に誰が利益を得たのかも、これから明らかになるかもしれない。
けれど、すべてを一人で背負う必要はないのだと、初めて思えた。
「ユハンさん」
「はい」
「この協定書、最後まで調べます。読めた部分と、残っている文字を分けて、正確に記録します」
ユハンは短くうなずいた。
「では、仕事を始めましょう」
地下室の小さな窓のない空間で、二人は向かい合って座った。
水の流れを止めた古い文字を、ひとつずつ拾うために。




