水路都市から届いた依頼
ミレアは、雨の中で手紙を何度も読み返した。
水路都市ラーデン。古い運河協定書。失われた文字を読める方。報酬は、あなた自身の名で支払う。
最後の一文だけが、何度読んでも胸に残った。
これまで彼女が受け取ってきた賃金は、いつも商会の帳簿に記されていた。働いた日数と読んだ文書の枚数が計算され、そこから食費や寝床代が差し引かれた。婚約者のために仕立てた衣服の代金まで、将来の生活費として処理されていた。
ミレア自身の名で支払われたものは、幼い頃に母からもらった青い髪飾りくらいだった。
手紙と銀貨を握りしめると、指先に冷たさが移った。三枚の銀貨があれば、ラーデンまでの乗合馬車に乗れる。途中で一度、安い宿に泊まることもできる。帰りの分まではないが、帰る必要がなければ問題にはならない。
そう考えた直後、胃の奥が縮んだ。
故郷を出るということは、知っている通りを捨てることだった。市場の角にあるパン屋も、夏になると白い花を咲かせる共同庭園も、子どもの頃から使ってきた井戸も、もう二度と見られないかもしれない。
それでも、商会へ戻る気にはなれなかった。
あの帳場には、彼女が長い年月をかけて積み上げたものがあった。古い契約書を読み、破れた紙を繕い、誰かの利益になるように条文を並べ替える仕事。必要とされていると思えば、眠れない夜も耐えられた。
けれど、必要とされていたのはミレアではない。
ミレアの目だけだった。
彼女は橋の欄干に背を預け、雨に濡れた町を見つめた。灰色の屋根の向こうで、商会の看板がぼんやり霞んでいる。サーヴェンは今頃、役員たちと次の手を相談しているだろう。彼女が逃げたと噂を流し、偽造の証拠をさらに作るかもしれない。
怖くないわけではなかった。
ラーデンの測量士が本当に依頼をするつもりなのかも、ミレアには分からない。罠かもしれない。商会が彼女を遠ざけるために仕掛けたものかもしれない。封筒に押された青い印は本物らしかったが、それだけで信用できる理由にはならなかった。
それでも、手紙には彼女を責める言葉がなかった。
能力を証明しろとも、商会のために働けとも書かれていない。ただ、失われた文字を読める人を探しているとあった。
それは初めて、彼女の力を彼女の人生から切り離さずに見てくれた言葉だった。
ミレアは雨宿りをしていた橋の下から出た。まずは部屋へ戻り、荷物をまとめなければならない。
借りていた小さな部屋には、古い寝台と木箱、それから母の形見の裁縫道具がある。持っていけるものは多くない。青い外套、替えの服、筆記具、母の髪飾り。そして、仕事で使っていた細い拡大鏡。
拡大鏡は商会から支給されたものだった。返すべきか迷ったが、ミレアは鞄へ入れた。道具を持ち出したと責められるなら、その分の代金をいつか自分で払えばいい。
部屋へ戻ると、扉の隙間から一枚の紙が差し込まれていた。
――無断で書類を持ち出した場合、窃盗として届け出る。
差出人の名はなかった。だが、誰が書いたのかは分かっていた。
ミレアは紙を拾い上げ、裏返した。表面には何もない。けれど、薄い光の中で目を凝らすと、消された文字の影が見えた。
――帳場の保管書類を持ち出すな。私物は除く。
脅しの文面からさえ、都合の悪い部分だけが削られている。
ミレアは小さく息を吐いた。かつてなら、消された一文を見つけたことに満足し、誰かに知らせようとしただろう。だが今は違う。この力を使っても、彼らは真実を受け取らない。受け取ったふりをして、自分たちの都合のよい形に変えるだけだ。
ならば、まず自分のために使う。
その決意は、思っていたより静かだった。怒りのように熱くもなく、悲しみのように重くもない。雨上がりの路地に残る水たまりのように、ただそこにあった。
ミレアは旅支度を終えると、大家の女性に部屋の鍵を返した。家賃は銀貨の一部で払い、残った銅貨を数える。女性は何か尋ねたそうにしていたが、ミレアの顔を見ると口を閉じた。
「遠くへ行くのかい」
「はい。仕事を探しに」
「うまくいくといいね」
それだけだった。
翌朝、雨はやんでいた。街道の乗合馬車は、町外れの宿場からラーデンへ向かう。ミレアは薄暗いうちに家を出た。橋を渡る前に、故郷を振り返る。
ここで生まれ、ここで働き、ここで自分の名前を奪われた。
けれど、奪われたまま出ていくつもりはなかった。
いつか戻るかどうかは分からない。サーヴェンの不正を明らかにできるかも分からない。それでも、彼女の名前を彼らの書類の余白に残されたままにはしない。
ミレア・エルナ。
その名を胸の中で確かめ、彼女は街道へ向かった。
馬車の荷台には、農具を積んだ老人と、籠を抱えた若い母親が乗っていた。ミレアが隅に腰を下ろすと、車輪が泥をはね、ゆっくりと町を離れ始める。
遠ざかる屋根を見ながら、彼女は鞄の中の手紙に触れた。
水路都市ラーデンで、何が待っているのかは分からない。
ただ、失われた文字を読む仕事を、今度は自分の名で引き受ける。
それだけは、誰にも書き換えさせないと決めていた。




