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欠けた契約を読む令嬢は、水路都市で居場所を結び直す  作者: 銀細工ナギ


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偽造文書の責任を負わされた日

 その朝、ミレアは自分の名前が、見知らぬ筆跡の下にあるのを見つけた。


 商会の帳場には、まだ夜明けの冷気が残っていた。窓の外では荷車の車輪が石畳を打ち、倉庫からは乾いた紙と蝋の匂いが漂っている。ミレアはいつものように、昨夜届いた契約書の束を机へ運んだ。欠けた文字を読み取り、薄くなったインクを確かめ、商人たちが見落とした条文を拾い上げる。それが彼女の仕事だった。


 だが、一番上の文書を開いた瞬間、指が止まった。


 羊皮紙の中央に、王都の印章が押されている。商会が北方の鉱山主と結んだ輸送契約。その末尾に、本来なら空白であるはずの一行があった。


 ――遅延が生じた場合、損害の全額を商会の文書係ミレア・エルナが負担するものとする。


 文字はミレアの筆跡に似せてあった。けれど、彼女はこの契約を書いていない。そもそも、彼女が任されていたのは古い原本の読解であって、新しい条文を加える権限などなかった。


「見つけたか」


 背後から声がした。


 振り向くと、婚約者のサーヴェンが立っていた。仕立てのよい灰色の上着を着て、いつも通り穏やかな顔をしている。その穏やかさが、今日は刃物のように見えた。


「これは……違います。私が書いたものではありません」


「署名がある」


「署名だけなら、誰でも真似できます」


「だが、商会の印章も押されている。君が帳場の鍵を預かっていたことは、皆が知っている」


 サーヴェンの後ろには、商会長である父親と、数人の役員がいた。誰もミレアの目を見ようとしない。机の上には、別の書類が何枚も並べられていた。どれも彼女の署名があり、どれも見覚えがなかった。


「鉱山主との契約を改ざんし、商会に莫大な損害を負わせた」


 商会長が低い声で告げた。


「本日付で解雇する。さらに、損害の弁済を求める。サーヴェンとの婚約も解消だ」


 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


 婚約が惜しいわけではなかった。サーヴェンが彼女を愛していないことなら、とっくに知っていた。彼が欲しがっていたのは、ミレアの目だった。


 ミレアには、欠落した文字が読める。


 紙が破れ、焼け、削られ、上から別のインクを塗られていても、失われたはずの一画が、かすかな影として見えるのだ。幼い頃はその力を奇妙な癖だと思っていた。だがサーヴェンは、それを商売になる才能だと言った。彼女を商会に招き、古い契約を読み解かせ、眠る時間さえ惜しんで働かせた。


 ミレアは信じていた。役に立てば、いつか対等に扱われると。


 けれど、目の前の書類に隠された文字を見た瞬間、その考えが崩れた。


 表面の条文の下に、薄い線が残っている。誰かが一度、別の文章を削り取っていた。


 ――ミレア・エルナに読解を依頼し、確認を受けた後にのみ、契約を確定する。


 その一文を削り、代わりに責任を負わせる条文を書き足したのだ。


「この書類は偽造されています」


 ミレアは震える声で言った。


「削られた文字が見えます。元の条文は、私に責任を負わせるものではありません」


 役員の一人が鼻で笑った。


「また、その妙な力の話か」


「妙な力ではありません。証拠です」


「証拠なら、目に見える形で出せ」


 サーヴェンが初めて表情を変えた。唇の端に、わずかな苛立ちが浮かぶ。


「ミレア、もうやめろ。君が余計なことを言えば、偽造だけでなく窃盗の疑いもかけられる」


「脅しているのですか」


「忠告だ」


 彼は声を落とした。


「君は文書の中身を読むだけで、世の中の仕組みを知らない。誰が勝つかは、正しいかどうかでは決まらない」


 その言葉を聞いたとき、ミレアの中で最後の糸が切れた。


 彼女は机の上の書類を一枚ずつ見た。どれも欠落した文字を抱えている。助けを求めるように、紙の奥で消された言葉が揺れていた。


 だが、ここにいる誰も、それを聞く気はない。


 ミレアは帳場の鍵を外し、机の上に置いた。私物の小さな鞄を取り、唯一自分で買った青い外套を肩にかける。


「弁済はしません」


 商会長が眉をひそめた。


「何だと」


「偽造した人間の責任を、私が負う理由はありません。必要なら、王都の文書院で調べてもらいます」


 強がりだった。文書院へ行く旅費も、宿代もない。彼女の名前には、すでに偽造者という汚名が貼りつけられている。どこへ行っても、扉が開くとは限らない。


 それでも、サーヴェンの前で頭を下げることだけはできなかった。


 店を出ると、冷たい雨が降り始めていた。通りを歩く人々が、彼女の顔と鞄を見てひそひそ話している。誰かが、商会の娘婿候補に捨てられた女だと言った。別の誰かは、文書を偽造した女だと言った。


 ミレアは聞こえないふりをして歩いた。


 橋のたもとまで来たとき、濡れた外套のポケットに硬いものが触れた。取り出すと、見覚えのない封筒だった。封蝋には、水路を模した青い印が押されている。


 中には短い手紙と、銀貨が三枚入っていた。


 ――水路都市ラーデンより。古い運河協定書の調査を依頼したい。失われた文字を読める方を探している。報酬は、あなた自身の名で支払う。


 差出人の名は、測量士ユハン・レイス。


 ミレアは雨の向こうを見た。故郷には、もう居場所がない。けれど、失われた文字を必要としている場所がある。


 彼女は手紙を胸元へしまい、初めて自分の足で、知らない町へ向かう道を選んだ。

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