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欠けた契約を読む令嬢は、水路都市で居場所を結び直す  作者: 銀細工ナギ


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14/20

町じゅうの記録をつなぐ

 サーヴェンが去ったあと、集会所には重たい沈黙が残った。


 誰もが、自分の手元にある紙を見つめていた。受領書、借用証、修繕の見積書、村長の署名。どれも別々の出来事を記したものに見える。だが、ミレアには、それらが一本の糸でつながりかけているように感じられた。


「まず、南側三村の村長に話を聞きましょう」


 ミレアが言うと、ユハンが地図を机の上に広げた。


「俺は船頭たちと水門管理所へ行く。商会が本当に修繕費を払ったなら、運び込まれた資材の記録があるはずだ」


「農家の方々には、種子と資材の受領書を集めてもらえますか。署名した本人が持っている控えなら、差し替えられる前の文面が残っているかもしれません」


 最初に立ち上がったのは、集会でサーヴェンに声を荒らげた男だった。


「俺が南の村を回る。あいつらは商会を怖がっているが、同じ畑を耕してきた仲間なら話をしてくれる」


「では、私は職人街へ行きます」


 細い腕を組んでいた女が言った。水門の木枠を直す職人、ネラだった。


「この町の修繕は、商会だけではできない。木材も鉄具も、誰かが作り、誰かが運んでいる。支払いの記録があるなら、職人のところに残っているはずよ」


 ひとり、またひとりと声が上がった。


 船頭は荷の出入りを調べると言い、帳場を預かる老人は古い税の記録を探すと申し出た。さきほどまで互いを疑っていた人々が、今度はそれぞれの記憶と紙を持ち寄ろうとしている。


 ミレアは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。


 町を救うのは、特別な力を持つ一人ではない。誰かが覚えていること、誰かが捨てずに保管していた紙、それらをつなぐ手が必要なのだ。


 彼女とユハンは、まず南側の村へ向かった。


 村長の家には、古びた木箱が三つ並んでいた。村長は怯えた様子で、そのうち一つを開ける。


「商会の男たちは、資材を置いていった。そのとき、これに署名しろと言われたんだ。私は受け取った証だと思っていた」


 差し出された控えには、確かに「木材二十束、鉄具一式を仮受領」と書かれていた。けれど、商会が集会所で配った紙には、その一文がなく、代わりに「新水利契約に同意する」と記されている。


 ミレアが二枚を重ねると、紙の繊維の向きがわずかに違った。後から別の紙片を貼り合わせた跡がある。


「これは原本ではありません」


 彼女は裏面を指でなぞった。


「契約の文面を上から貼り、印章を押しています。けれど、元の文字が完全には消えていない」


 欠落した文字が、薄い光のように浮かび上がった。


 ――資材代は、正式な工事完了後に協議して定める。


 村長が息を呑んだ。


「では、私はまだ何も決めていないのだな?」


「ええ。少なくとも、この控えにはそう書かれています」


 ユハンは写しを取り、日付と資材の数を地図の端に書き込んだ。


「工事完了後に協議するなら、商会が一方的に水門を管理する根拠はない」


「それだけではありません」


 ミレアは別の紙を取り出した。村長の妻が納屋から見つけてきた、資材を運んだ荷車の一覧だった。


 木材の送り主は商会ではなく、町の北にある共有林の管理組合。鉄具を納めたのは鍛冶職人たちだった。商会の名は、運搬を手配した欄に小さく記されているだけだった。


「修繕費を全額負担したというのは、違います。商会は運搬の手数料を立て替えただけです」


 ユハンが顔を上げた。


「それなら、集会所で配られた契約の前提が崩れる」


「でも、手数料を支払った記録は必要です」


「探そう」


 ふたりは次の村へ向かった。


 日が傾くころには、彼らの前に紙束が積み上がっていた。各村の受領書、職人たちの納品控え、船頭が保管していた荷札。どの記録にも、商会が工事全体を請け負ったとは書かれていなかった。


 むしろ、商会は資材を届けたあと、村人たちへ別の紙を渡していた。受領書を回収し、契約書に差し替えるために。


 しかし、まだ決定的な証拠が足りない。


「商会の帳簿が必要だな」


 ユハンが言った。


「そこには、資金の流れが記録されているはずです」


 そのとき、入口からネラが駆け込んできた。


「見つけたわ。鍛冶組合の古い帳簿に、商会からの支払いが記録されていた」


 彼女は息を切らしながら、分厚い帳簿を机に置いた。


「ただし、支払われたのは鉄具の代金ではない。商会は組合に金を渡していない。逆に、組合が商会へ請求書を送っている」


 ミレアは帳簿を開いた。


 最後の頁に、商会の受領印が押されている。だが、その印の横には、細い文字が欠けていた。


 彼女が目を凝らすと、失われた部分がゆっくり形を結んだ。


 ――請求額のうち三分の一を支払い、残額は水利契約締結後に相殺する。


 ミレアは静かに読み上げた。


「サーヴェンは、修繕費を払ったのではありません。契約が成立したら払うと約束していただけです」


 集まった人々の間に、怒りのざわめきが広がった。


「つまり、まだ何も出していないのか」


「水を直す金もないのに、管理権だけ取ろうとしたんだ」


 ユハンは帳簿と受領書を並べ、ひとつずつ紐で束ねた。


「これで、町じゅうの記録がつながる。資材の出所、運んだ者、受け取った者、そして商会が何を約束したか。誰か一人の証言ではない。全員の記録が同じことを示している」


 外では、雲の切れ目から夕日が差していた。


 ミレアは束ねられた紙を見つめた。そこには、町の人々が守ってきた小さな事実が詰まっている。サーヴェンが奪おうとしたのは、紙そのものではなかった。人々が自分の記憶と署名を信じる力だった。


「明日の集会で、これを示しましょう」


 ミレアが言うと、ユハンはうなずいた。


「君が読むのか」


「皆で読みます。私は欠けた文字を補える。でも、記録を書いたのは私ではありません」


 ミレアは、隣に立つ職人や農家、船頭たちを見渡した。


「これは、町の人たちが自分で残した証拠です」


 その夜、彼らは集会所の長机に紙を並べ、日付と場所をつなぐ一覧を作った。


 最後の一枚を置いたとき、ユハンがミレアの手元へ目を落とした。


「君の名も、ここに書いておくべきだ」


「私の名?」


「この記録を読み、つないだ人として」


 ミレアは少し迷い、それから帳簿の余白に自分の名を書いた。


 ミレア・エルド。


 かつて、他人の印章の下で働かされ、罪まで背負わされた名。それが今は、町の人々が託した記録のそばにある。


 明日、サーヴェンはまた彼女を黙らせようとするだろう。


 けれどもう、彼女は一人ではなかった。

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