水利権を独占する新契約
翌朝、集会所の前には、夜明け前から人が集まっていた。
乾いた運河の底に残るひび割れを見つめながら、農家の者たちは低い声で話し合い、船頭たちは腕を組んで黙り込んでいる。水門管理所の役人も数人来ていたが、誰も議事を始めようとはしなかった。
集会所の扉が開いたとき、ざわめきが一斉に止まった。
先に入ってきたのは、濃紺の外套を着たサーヴェンだった。かつてミレアが働いていた商会の印章が、彼の胸元で光っている。その後ろには、荷運び人や帳簿係、それから見慣れない武装した男たちまで従っていた。
「ずいぶん盛大な集まりだな」
サーヴェンは笑顔を浮かべた。だが、その目は笑っていない。
ミレアの隣で、ユハンの肩がわずかに強張った。
「旧協定の確認をするためだ」
ユハンが言うと、サーヴェンは手にした筒状の書類を掲げた。
「旧協定は、もう役目を終えた。そこで商会は、町を救うための新しい契約を用意した」
彼が合図すると、従者たちが長机を運び込み、そこに書類を広げた。羊皮紙は新しく、墨も濃い。上部には大きく、商会の赤い輪印が押されていた。
「商会が第一水門から第三水門までの修繕費を全額負担する。その代わり、今後十年間、水門の管理と水路の使用配分を商会に任せてもらう」
農家の一人が立ち上がった。
「十年だと? そんな長い間、商会に水を決められるのか」
「決めるのは、今でも役人と組合だろう。だが、その仕組みが町を救ったか?」
サーヴェンは乾いた運河へ目を向けた。
「畑は枯れ、荷船は止まり、修繕費を出せる者もいない。商会には資金がある。水を引ける。選ぶべきなのは、古い紙にしがみつくことか、明日から水を得られることかだ」
その言葉に、何人かの農家が顔を見合わせた。
サーヴェンは間を置いてから、別の紙束を取り出した。
「契約に署名した村には、今季の水量を保証する。署名しない村は、余剰水の配分を受けられない」
集会所の空気が変わった。
農家の男が怒鳴る。
「それは脅しだ!」
「違う。公平な条件だ。資金を出す者が、配分を決めるのは当然だろう」
船頭の一人が書類へ近づいた。ミレアはその動きを見て、反射的に手を伸ばした。
「触る前に、読ませてください」
サーヴェンの視線が彼女に向いた。
「君が?」
「契約を読む仕事をしています」
「偽造の責任を問われた人間が、契約を語るとはね」
集会所の隅から、ひそかな笑いが漏れた。
胸の奥が冷たくなった。しかし、ミレアは机の前から退かなかった。
「この契約は、修繕費の負担と水路の管理権を交換するものではありません」
彼女は紙面を指でなぞった。
「第三条に、商会が必要と認めた場合、配分量と使用料を一方的に変更できるとあります。第五条には、商会の許可なく水門を開閉した者へ違約金を課すとある。さらに第八条には、商会が貸し付けた種子や修繕資材の代金を、水利使用料と合算して徴収できると書かれている」
農家たちの顔色が変わった。
「つまり、借金を返せない村は、水を止められる」
「言葉を飾るな」
サーヴェンが冷たく言った。
「返せない者が水を使い続けることこそ、他の者への不公平だ」
今度は、別の男がサーヴェンの側から声を上げた。
「商会は町を助けようとしているんだ! 古い協定のせいで誰も責任を取らなかった。新しい仕組みに賛成する!」
彼の言葉に応じるように、数人が声を重ねた。
「水が来るなら署名する」
「今さら昔の事故を蒸し返して何になる」
「ユハンの証拠だって、本人が隠していたんだろう」
疑いと焦りが、乾いた風のように集会所を駆け抜けていく。
ユハンが一歩前へ出た。
「俺は証拠を隠していた。だが、今はすべてを出す」
彼が古い写しを掲げると、サーヴェンは鼻で笑った。
「破れた紙切れで、町の水を止めるつもりか」
「止めるのは、紙ではない」
ミレアは静かに言った。
「この契約が、町の水を一つの商会に渡すことを止めるのです」
サーヴェンの表情から笑みが消えた。
「君は、町の人々が水を失う責任を負えるのか」
「誰か一人に水を握らせることの責任なら、あなたが負うべきです」
彼女は契約書の端を持ち上げた。
「この紙には、旧協定の欠落条文を利用した箇所があります。水路は共同で管理し、誰も単独で配分を変えてはならない。そこを削ったまま、この新契約では商会だけに権限を与えている」
ざわめきが広がった。
すると、サーヴェンは別の書類を農家たちへ配り始めた。
「ならば、こちらを見ればいい。すでに南側三村は署名した。彼らは明日から水を受け取る。反対する者だけが、取り残されることになる」
配られた紙には、いくつもの村長の名が並んでいた。
ミレアが目を落とすと、その署名の一つに、わずかな不自然さがあった。墨の濃さが途中で変わり、文字の一部だけが紙の繊維に沈んでいない。
欠けた文字の輪郭が、じわりと浮かび上がる。
――仮受領。正式契約への同意を意味しない。
ミレアは息を止めた。
「この署名は、契約への同意ではありません」
南側の村長が驚いて立ち上がる。
「何を言っている。私は修繕資材を受け取っただけだ!」
サーヴェンが書類を奪おうと手を伸ばした。
ミレアはすぐに紙を胸元へ引き寄せた。
「あなたは、受領書を契約書に差し替えたのですね」
集会所の視線が、サーヴェンへ集まった。
彼は一瞬だけ黙った。しかし、すぐに冷笑を浮かべる。
「証拠はあるのか」
「まだありません」
ミレアは答えた。
「だから、集めます。あなたが町を分けるために使ったすべての紙を」
サーヴェンの目が細くなった。
「明日の正午までに署名が集まらなければ、水門を閉じる。君がどれだけ紙を集めても、流れる水までは戻せない」
彼はそう言い残し、従者たちを連れて集会所を出ていった。
外では、乾いた水路の向こうに雲が集まり始めていた。
ミレアは手元の受領書を見つめた。そこには、誰かの意思を奪うために巧妙に隠された文字がある。
ユハンが低く言った。
「時間がない」
「ええ。でも、あの契約には弱点があります」
「どこだ」
ミレアは紙の末尾を指した。
「商会が水門を管理できるのは、修繕費を全額負担した場合だけです。けれど、ここには支払いの証明がない。集めた資金の出所も、修繕計画も書かれていません」
彼女は顔を上げた。
「サーヴェンは、水を持っているのではありません。水を持っているように見せて、皆に署名させようとしているだけです」
ユハンはうなずき、船頭たちへ振り返った。
「なら、俺たちは資金と修繕の記録を探す」
農家の一人が、震える声で尋ねた。
「もし見つからなかったら?」
ミレアは集会所の外を見た。
「そのときは、見つからないこと自体が証拠になります」
誰もが不安を抱えたまま、散らばっていった。
分断された町の中で、ミレアは初めて、自分たちが同じ方向を向き始めた気配を感じていた。だが同時に、サーヴェンが次に何を奪いに来るのかも、はっきり分かっていた。
彼が狙っているのは、水だけではない。
人々が自分で判断する権利そのものだった。




