私自身の証拠を集める
ミレアは、まず古い写本の所在を知っていそうな人間の名を紙に書き出した。
水門管理所の記録だけを追えば、ユハンの言葉に引きずられる。彼が何を知り、何を隠しているのかを考える前に、自分の手で別の道筋を作らなければならなかった。
最初に訪ねたのは、運河沿いで薬草店を営む老女だった。店の奥には、かつて水路組合で帳簿をつけていた夫の遺品が残っているという。
「協定書なんて、もう役に立たない紙だよ」
老女はそう言いながら、棚の下から木箱を引き出した。中には湿気で波打った帳面や、紐で束ねられた領収書が詰まっている。
ミレアは一枚ずつ紙をめくった。欠落した文字は、紙の傷や墨の滲みとなって現れる。文字そのものが見えるわけではない。書かれていたはずの空白が、周囲の文と異なる重さを持って浮かび上がるのだ。
古い水路税の帳簿に、見覚えのある一節があった。
――第一水門の修繕費は、共同の水利権を守るため、各村が負担する。
その次の行には、細長い切り取り跡がある。ミレアは指を置き、目を閉じた。
欠けた部分から、言葉の輪郭がゆっくりと浮かんだ。
――ただし、事故または故意による水量変更が認められた場合、その責任を負う者は、記録の保全を妨げてはならない。
ミレアは息をのんだ。
事故の責任を負う者が、記録を改めることを禁じる条文。その一文があれば、ユハンが当時、責任を押しつけられた理由も見えてくる。誰かが記録を差し替えたあと、彼だけに責任を負わせたのだ。
「それは何と書いてあるんだい」
「まだ、確かなことは言えません」
ミレアはすぐに答えなかった。能力で読めた文字を、証拠として扱うには、別の写本との一致が必要だった。
老女は黙って、もう一冊の帳面を差し出した。
「夫はね、同じことを何度も書き写す癖があった。忘れないためだと言っていたよ」
帳面の後半には、夫自身の覚え書きがあった。
第一水門の事故後、管理所は旧協定の該当箇所を削除した。削除前の写しは、測量士ユハンが預かった。彼はそれを公開すれば、町の者が報復を受けると言って、どこにも提出しなかった。
ミレアの指が止まった。
さらに読み進めると、別の記述が現れた。
ユハンは、削除を命じた者の名を知っている。しかし、証人となる書記の娘がまだ商会の借金に縛られているため、名を明かさない。
紙面の端には、赤い輪の刻印が押されていた。
昨日、彼女の鞄から消えた紙屑に残っていたものと同じだった。
老女の家を出たミレアは、次に船頭たちの詰め所へ向かった。古い航路図を保管している船頭から、事故の前後に水量がどう変わったかを聞くためだった。
夕暮れまでに、三人の船頭から別々の証言を得た。事故の前夜、第一水門を閉じる指示書が届いたこと。その指示書には、ユハンの署名がなかったこと。翌朝になってから、署名入りの新しい指示書が管理所に現れたこと。
証言を書き留めるたび、ミレアの疑いは形を変えた。
ユハンは証拠を隠したのではない。証拠に記された名前を守るため、誰にも渡せずにいたのだ。しかも、その沈黙は彼自身を守るものではなかった。むしろ、十年ものあいだ、事故の責任を背負い続ける理由になっていた。
夜、工房へ戻ると、机の上に小さな封筒が置かれていた。
赤い蝋の輪印。
ミレアは刃物で封を切った。中には短い紙片が一枚だけ入っている。
――書記の娘は、明日の朝、商会の倉庫から連れ出される。証言を急げ。
署名はなかった。
ミレアは紙片を握りしめ、すぐに外へ出た。向かった先は水門管理所ではなく、運河脇の古い測量小屋だった。
ユハンはそこで地図を広げていた。彼はミレアを見ると、驚いたように立ち上がった。
「どうしてここが」
「あなたが証拠を隠していた理由を知りました」
ユハンの顔から血の気が引いた。
「誰から聞いた」
「あなたが守っていた書記の娘は、明日の朝に連れ去られるそうです」
彼は目を伏せた。しばらくして、低い声で言った。
「俺は、あの娘の母親から頼まれた。夫が殺されたあと、娘まで消されるのが怖いと。証言を出せば、商会は彼女を借金の名目で拘束できる。だから、証拠を持ちながら黙っていた」
「私にも言わなかった」
「君まで狙われる」
「それは理由になりません」
ミレアは机の上に、集めた写本の写しを置いた。
「黙っていることが誰かを守るなら、私は方法を探します。でも、私の判断まで奪わないでください」
ユハンは紙面を見つめた。やがて、ゆっくりとうなずく。
「すまない」
「謝罪だけでは、欠けた条文は戻りません」
「ああ」
「だから、明日の集会で全部を出しましょう。あなたの証拠も、私が集めた写本も、船頭たちの証言も。書記の娘を守る責任を、あなた一人に背負わせない」
ユハンは顔を上げた。
「君は、俺をまだ信じられるか」
「今は、信じるかどうかを決める段階ではありません」
ミレアは赤い蝋の紙片を彼の前に置いた。
「同じ事実を、同じ場所で確かめる仲間になるのです」
ユハンの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「分かった。今度こそ、隠さない」
外では、乾いた水路を風が撫でていた。
ミレアは写本の束を抱え直した。集めたのはユハンを弁護するための証拠ではない。誰か一人の沈黙に頼らず、町の人々が自分の目で真実を見られるようにするための証拠だった。
翌日の集会で、欠けた文字は一つずつ、皆の前に姿を現すことになる。




