↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠けた契約を読む令嬢は、水路都市で居場所を結び直す  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/20

信頼を疑う写本

 翌朝、ミレアが工房へ戻ると、机の上に置いたはずの紙片が消えていた。


 石板から写し取った旧協定の欠落部分と、事故当日の報告書。二つを並べて比較できるよう、昨夜遅くまで書き込みをしていた。眠る前には、革包みごと自分の鞄へ入れたつもりだった。


 だが、鞄の留め金は開いており、中身は乱れていた。


「ユハン」


 呼びかけても返事はない。測量道具も、濡れた外套も見当たらなかった。


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


 彼が持っている。そう考えるのが自然だった。革包みを見せたのも、事故の真相を語ったのもユハンだ。けれど、彼は十年ものあいだ、その証拠を隠していた。昨日は「今度は隠さない」と言ったばかりなのに、朝になれば紙片だけが消えている。


 ミレアは机の端に残された紙屑を拾った。細く裂かれた紙に、赤い蝋の跡がついている。ユハンの測量鞄を閉じるときに使う封蝋と同じ色だった。


 そのとき、扉が開いた。


「起きていたのか」


 ユハンが入ってきた。髪には霧の水滴がつき、右手に革包みを持っている。


「それを、どこへ持っていったのですか」


 ミレアは立ち上がった。


 ユハンは足を止めた。革包みに視線を落とし、それから彼女を見る。


「水門管理所だ。事故当時の記録を調べるために」


「私に何も言わずに?」


「君を巻き込みたくなかった」


「もう巻き込まれています」


 声が震えた。怒りなのか、恐れなのか、自分でも分からない。


「あなたは十年、証拠を隠していた。昨日、出すと言ったのに、今朝また持ち出した。私の鞄から紙片を抜き取ったのも、あなたでしょう」


「抜き取った?」


 ユハンの顔が強張った。


「昨夜、革包みを戻したあと、俺は君の鞄に触れていない」


「では、なぜ封蝋の跡が残っているのですか」


 ミレアは紙屑を差し出した。


 ユハンはそれを受け取り、眉を寄せた。


「これは俺の封蝋ではない」


「色が同じです」


「同じ色でも、刻印が違う。俺の蝋には測量組合の三本線が入る」


 彼は紙屑を裏返した。赤い蝋には、細い輪のような刻印がかすかに残っている。


 ミレアは黙った。けれど、疑いは消えなかった。


「あなたは、昨日の夜、誰かと会いましたか」


「会っていない」


「本当に?」


「本当にだ」


「では、なぜ私に知らせず管理所へ行ったのです」


 ユハンは革包みを机に置いた。


「管理所の記録庫は、今日の正午に整理される。事故当時の水門日誌が残っているかもしれないと、昨夜遅くに聞いた。朝一番で行かなければ、処分される可能性があった」


「誰から聞いたのですか」


 沈黙が落ちた。


 それが答えのように思えた。


「言えないのですね」


「言えないのではない。確かめるまで、名前を出すべきではないと思った」


「あなたはいつもそうです。守るためだと言って、必要なことを隠す」


 ユハンの手が、革包みの上で止まった。


「君まで、俺を疑うのか」


「疑わせているのはあなたです」


 言葉を放った瞬間、胸が痛んだ。


 故郷で、ミレアは同じ目を向けられた。サーヴェンの商会で契約の欠落を指摘したとき、彼は優しく笑いながら「君を守るためだ」と言った。その後、彼女の署名を偽造し、責任を押しつけた。


 信頼という言葉の下で、何度も大切なものを奪われた。


「サーヴェンが来たのではありませんか」


 ユハンが低く言った。


 ミレアは息を止めた。


「彼が、俺に証拠を隠せと脅した。君を狙っていると伝えてきた」


「なぜ黙っていたのです」


「君が自分で判断できるようにしたかった」


「それも、守るためですか」


「ああ」


 その答えが、かえって不安を深くした。


 ユハンは革包みを開き、焼けた報告書を取り出した。紙片の端には、新しい黒い汚れがついている。ミレアはそれを見て、指先を近づけた。


 煤ではない。紙の繊維に、別の紙を重ねた跡がある。誰かがこの報告書を写し取り、その上から新しい文字を押しつけたのだ。


「これ、昨日はありませんでした」


「何が」


「この重なりです。誰かが最近、上から写しを取っています」


 ユハンの顔色が変わった。


「管理所で、紙束を見せられた。俺は触れただけだ」


「誰に?」


「水門管理所の書記だ」


「その人の名前を」


 ユハンは答えなかった。


 ミレアは彼から一歩離れた。


「あなたは、私に見せるために証拠を持っているのですか。それとも、別の誰かと取引するために?」


「ミレア」


「私は、欠けた文字を読めます。だからこそ、あなたの言葉の欠落が怖いのです」


 ユハンは長いあいだ彼女を見つめていた。怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。


 やがて彼は革包みを閉じた。


「今日、正午の集会で話す。管理所の日誌も、書記の名も、すべて出す」


「今すぐではなく?」


「日誌を確認してからだ。間違った名前を出せば、証拠を守れない」


 ミレアは返事をしなかった。


 ユハンが扉へ向かう。背中を追えば、真実に近づけるかもしれない。だが、追うことは彼を信じることと同じではない。


「私は、あなたとは別に調べます」


「分かった」


「もしあなたが証拠を隠していたなら、私はあなたの味方にはなりません」


 ユハンは振り返らなかった。


「それでいい。味方である前に、同じ事実を見る仲間でいてくれ」


 扉が閉じたあと、工房には紙の匂いだけが残った。


 ミレアは机に散った紙屑を集め、赤い蝋の刻印を写した。


 信頼は、言葉だけでは結べない。欠けた文字を埋めるように、ひとつずつ確かめなければならない。


 その日、彼女はユハンのためではなく、自分の目で真実を見るために、旧協定の写本を探し始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。