信頼を疑う写本
翌朝、ミレアが工房へ戻ると、机の上に置いたはずの紙片が消えていた。
石板から写し取った旧協定の欠落部分と、事故当日の報告書。二つを並べて比較できるよう、昨夜遅くまで書き込みをしていた。眠る前には、革包みごと自分の鞄へ入れたつもりだった。
だが、鞄の留め金は開いており、中身は乱れていた。
「ユハン」
呼びかけても返事はない。測量道具も、濡れた外套も見当たらなかった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
彼が持っている。そう考えるのが自然だった。革包みを見せたのも、事故の真相を語ったのもユハンだ。けれど、彼は十年ものあいだ、その証拠を隠していた。昨日は「今度は隠さない」と言ったばかりなのに、朝になれば紙片だけが消えている。
ミレアは机の端に残された紙屑を拾った。細く裂かれた紙に、赤い蝋の跡がついている。ユハンの測量鞄を閉じるときに使う封蝋と同じ色だった。
そのとき、扉が開いた。
「起きていたのか」
ユハンが入ってきた。髪には霧の水滴がつき、右手に革包みを持っている。
「それを、どこへ持っていったのですか」
ミレアは立ち上がった。
ユハンは足を止めた。革包みに視線を落とし、それから彼女を見る。
「水門管理所だ。事故当時の記録を調べるために」
「私に何も言わずに?」
「君を巻き込みたくなかった」
「もう巻き込まれています」
声が震えた。怒りなのか、恐れなのか、自分でも分からない。
「あなたは十年、証拠を隠していた。昨日、出すと言ったのに、今朝また持ち出した。私の鞄から紙片を抜き取ったのも、あなたでしょう」
「抜き取った?」
ユハンの顔が強張った。
「昨夜、革包みを戻したあと、俺は君の鞄に触れていない」
「では、なぜ封蝋の跡が残っているのですか」
ミレアは紙屑を差し出した。
ユハンはそれを受け取り、眉を寄せた。
「これは俺の封蝋ではない」
「色が同じです」
「同じ色でも、刻印が違う。俺の蝋には測量組合の三本線が入る」
彼は紙屑を裏返した。赤い蝋には、細い輪のような刻印がかすかに残っている。
ミレアは黙った。けれど、疑いは消えなかった。
「あなたは、昨日の夜、誰かと会いましたか」
「会っていない」
「本当に?」
「本当にだ」
「では、なぜ私に知らせず管理所へ行ったのです」
ユハンは革包みを机に置いた。
「管理所の記録庫は、今日の正午に整理される。事故当時の水門日誌が残っているかもしれないと、昨夜遅くに聞いた。朝一番で行かなければ、処分される可能性があった」
「誰から聞いたのですか」
沈黙が落ちた。
それが答えのように思えた。
「言えないのですね」
「言えないのではない。確かめるまで、名前を出すべきではないと思った」
「あなたはいつもそうです。守るためだと言って、必要なことを隠す」
ユハンの手が、革包みの上で止まった。
「君まで、俺を疑うのか」
「疑わせているのはあなたです」
言葉を放った瞬間、胸が痛んだ。
故郷で、ミレアは同じ目を向けられた。サーヴェンの商会で契約の欠落を指摘したとき、彼は優しく笑いながら「君を守るためだ」と言った。その後、彼女の署名を偽造し、責任を押しつけた。
信頼という言葉の下で、何度も大切なものを奪われた。
「サーヴェンが来たのではありませんか」
ユハンが低く言った。
ミレアは息を止めた。
「彼が、俺に証拠を隠せと脅した。君を狙っていると伝えてきた」
「なぜ黙っていたのです」
「君が自分で判断できるようにしたかった」
「それも、守るためですか」
「ああ」
その答えが、かえって不安を深くした。
ユハンは革包みを開き、焼けた報告書を取り出した。紙片の端には、新しい黒い汚れがついている。ミレアはそれを見て、指先を近づけた。
煤ではない。紙の繊維に、別の紙を重ねた跡がある。誰かがこの報告書を写し取り、その上から新しい文字を押しつけたのだ。
「これ、昨日はありませんでした」
「何が」
「この重なりです。誰かが最近、上から写しを取っています」
ユハンの顔色が変わった。
「管理所で、紙束を見せられた。俺は触れただけだ」
「誰に?」
「水門管理所の書記だ」
「その人の名前を」
ユハンは答えなかった。
ミレアは彼から一歩離れた。
「あなたは、私に見せるために証拠を持っているのですか。それとも、別の誰かと取引するために?」
「ミレア」
「私は、欠けた文字を読めます。だからこそ、あなたの言葉の欠落が怖いのです」
ユハンは長いあいだ彼女を見つめていた。怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。
やがて彼は革包みを閉じた。
「今日、正午の集会で話す。管理所の日誌も、書記の名も、すべて出す」
「今すぐではなく?」
「日誌を確認してからだ。間違った名前を出せば、証拠を守れない」
ミレアは返事をしなかった。
ユハンが扉へ向かう。背中を追えば、真実に近づけるかもしれない。だが、追うことは彼を信じることと同じではない。
「私は、あなたとは別に調べます」
「分かった」
「もしあなたが証拠を隠していたなら、私はあなたの味方にはなりません」
ユハンは振り返らなかった。
「それでいい。味方である前に、同じ事実を見る仲間でいてくれ」
扉が閉じたあと、工房には紙の匂いだけが残った。
ミレアは机に散った紙屑を集め、赤い蝋の刻印を写した。
信頼は、言葉だけでは結べない。欠けた文字を埋めるように、ひとつずつ確かめなければならない。
その日、彼女はユハンのためではなく、自分の目で真実を見るために、旧協定の写本を探し始めた。




