一章・四話
ティモの広場で開かれている市場には、「素敵なものがいっぱい」とアウリが主張していただけあって、ありとあらゆる日用品が露店に並べられていた。
普段はティモの町内のどこかで店を開いていると思しき地元の者もいれば、外からやってきた行商人らしい見かけない服装の人物もちらほら見られる。
露店に並べられた品々も実に多種多様で、ティモを流れる川を泳いでいた魚を燻製にしたもの、見事な織りで作られた布やレース、パユヴェシ村の家畜を加工した肉の加工品なども見かける。春が近いからか、お祭り向けの造花やドレスに使う布などが、時折艶やかな花のように己の存在を主張していた。
中には町内の婦人会と思しき女性たちが集まり、自家製の食品をずらりと並べている一角もあった。漬物やジャムの瓶を前にして、最近料理に関わる機会が増えたヘイノは一瞬当初の目的を忘れてしまいそうになっていた。
「今日は、とりわけ人が多いなあ。雪が溶けてきて、久々に大きな市場を開けるようになったからかな?」
傍らのヨニ曰く、今までも何度か市場に来たことはあるが、ここまで盛況なのは彼が来てから初めてのようだ。
押し寄せる人の波に子供たちを攫われないように、しばしば足下の彼らへと目をやりながら、ヘイノはもう一つの探しものをしていた。
あの大きな声を聞けば、どこにいたってすぐに気づけるはずだ。そう思っていたものの、予想よりも遙かに多い人の数に圧倒され、彼を尋ねるのは後にするべきかと思いかけた矢先、
「おおい、司祭さん! この前会った司祭さんだよな!」
聞き覚えのある大きな声に、ヘイノは弾かれたようにそちらへと顔を向ける。
果たして、そこには栗色のふさふさした髭を生やした男――町に来る時に馬車の中で言葉を交わしたマウリが、こちらへと大きく手を振っていた。
「マウリさん、お久しぶりです!」
周辺の声にかき消されないように、ヘイノも普段よりも声を張り上げて、大きく手を振り返す。
「ヘイノ、あの人誰? 知り合い?」
横合いから、ヨニが意外そうな驚き交じりの声でヘイノに尋ねる。
「はい。教会に向かう途中の乗り合い馬車で、少し話をしていたんです。この日の市場では、いつも飲み物を売っているので、ぜひまた会いたいと」
「へー、そうだったんだ。じゃあ、せっかくだしちょっと休憩しようか」
積もる話もあるだろうと、察してくれたのだろう。ヨニは手早く子供たちを呼び寄せると、ヘイノと共にマウリの元へと向かう。
宣言通り、マウリのそばにはカウンター代わりの木箱が積まれ、大きな鍋がその上に鎮座していた。蓋の隙間から、微かに湯気がたなびいているのが見える。マウリの他にも、彼と似た顔立ちの男が接客をしていた。
「まさか、本当に来てくれるとはなあ! ヘイノのこと、こっちにいる弟にも話していたところだったんだよ……って、ヘイノが二人いる!?」
子供たちと一緒にやってきたヨニの隣に並んだヘイノを目にして、マウリは交互に二人を見比べる。あまりに予想通りの反応に、ヘイノも苦笑をこぼすしかなかった。
「紹介します、マウリさん。こっちは双子の弟のヨニ。俺と同じ、見習いとして一緒に働いています」
「お、おお……なんだ、そうだったのか。ヘイノにも弟がいたんだなあ。しっかし、こうして見てみると、どっちがどっちか分からなくなっちまいそうだな」
「ほら、おじさんもせんせーたちのこと、そう言ってる!」
大人も自分たちと同意見だと分かって、子供たちが声を張り上げる。
「そっちの子供たちは、ヘイノの生徒か何かなのか?」
「まあ、そんなところです。よかったら、飲み物をいただけますか? 教会からずっと荷馬車に揺られて来ていたので、温かいものを飲んで休ませたいんです」
「もちろんだ。子供らにはグロギでいいな。司祭さんたちには、大人の飲み物の方がいいかねえ」
マウリがにやりと笑うと、傍らでヘイノたちとの会話を見守っていたマウリの弟が、兄を肘で小突いた。
「兄貴、司祭さまにそんなものすすめちゃいけねえだろ。大体、まだ酒って年でもなさそうじゃねえか」
「ちょっとした冗談じゃねえか、カッリ。そんなにかっかすんなよ、なあ?」
マウリを窘めている男性こそが、馬車の中でマウリが話していた『最近酒場を開いた弟』のなのだろう。おおらかなマウリと比べて、少し神経質そうな性格が透けて感じられた。
マウリ兄弟が用意してくれたグロギという飲み物は、ヨニも以前作っていた果物のジュースに香辛料を混ぜたものだ。中には、レーズンやスライスした果物などを入れることもある。
渡されたカップの中身は、まだほんのりと暖かい。近くに店があり、暖めたものを定期的に鍋ごと運んできているのだろう。
「それで、ヘイノ。今日は何か買いにきたのか? もし暇なら、その子たちと一緒に弟の店に来たらどうだ。ちょっとした飯ぐらいなら出すぞ」
「お言葉は嬉しいのですが、今日は用事があるんです。お店に寄らせてしまうのは、またの機会ということで」
「ちぇー。せっかく、南の国から輸入が始まったばかりの新しいやつ、飲んでもらうと思ったのによ」
「兄貴、あれは酒だろ。司祭さまに酒を勧めるんじゃねえって、何度言えばわかる」
どうやら、マウリにとって酒とそれ以外の飲み物には大きな違いはないらしい。渡されたグロギに口をつけつつ、ヘイノは兄弟の他愛ないやり取りを聞いて、いつしか自然と笑い声をこぼしていた。
それは、ヘイノにとっては『司祭として』でもなければ、『ヨニの兄』としてでもない形でこぼれたものだった。
「あの、南の国のお酒って、どんなもので作られてるんですか」
ヘイノとマウリたちの会話に入ってきたのは、ヘイノの傍らで静かにグロギを飲んでいたニコだ。ヨニたちが小さい子供たちの面倒を見ているため、年長の彼女もヘイノらの話を聞く余裕がでてきて、興味を持ったようだ。
「おう、お嬢ちゃんは酒に興味があんのか? 今回入ってきたのはぶどう酒だな。ベリーの酒とはまた違う深みと味わいがあるってことで、聖都ではいち早く流行り始めてるらしいぞ」
「ぶどう……って?」
「俺も本でしか見たことはありませんが、暖かい地域で育つ植物のようですよ。つるを伸ばして、枝から房みたいに丸い果実が並んで実るとか」
説明はしてみたものの、ヘイノも異国の果実については、ぼんやりとした知識しか持っていない。植物に関心があるらしいニコに教えられるよう、今度植物の図録がないか探しておこうと思う。
話をしている間に、グロギの中身もゆっくりと減っていく。積もる話もあるが、昼の時間は短い。暗くなる前に子供たちを家に帰すためにも、あまり長々と同じ所に踏みとどまっているわけにもいかなかった。
ヘイノの考えを読んだかのように、ヨニが空になったカップを集めてマウリたちへと返しにくる。
「ねえ、ヘイノ。さっき、すれ違った奥さんに教えてもらったんだけど、向こうにリボンとか帽子とかを扱う大きな行商が来てるんだって。俺は子供たちと一緒にそっちに行くつもりなんだけど、ヘイノはどうする?」
ヨニの視線が、ちらりとマウリ兄弟の方に向けられる。
「あのおじさんたちと話していたいなら、俺だけで何を買うか決めてくるよ」
「さすがに、ヨニに全部任せきりにするような真似はしませんよ。俺も一緒に行きます」
すると、ヨニは安堵したように表情を緩めた。
「じゃあ、そういうことで。あ、お前たち! 勝手に行っちゃだめって言っただろ!」
マウリたちにカップを押しつけるようにして、ヨニは一足先に駆け出した子供たちの後を追いかけ、走り出す。ヨニの手伝いをしようと、ニコもマウリたちにそそくさと頭を下げて後を追う。
「それでは、マウリさん。俺も失礼します」
「おう。またぜひ遊びにきてくれよ。弟さんや、子供たちもよろしくな」
軽い一礼を互いに交わして、ヨニの後を追いかけようとヘイノが踵を返しかけたときだった。
「あ、ちょっと待ってくれ。司祭さん」
呼びかけたのは、マウリではない。その傍らでカップの片付けを始めようとしていた、マウリの弟の方だった。
彼とは、今日が初対面だ。どうして呼び止めたのだろうと疑問に思ったのが、顔に出てしまったのだろう。マウリの弟は、一度開きかけた口を閉じそうになったが、その逡巡を振りほどくように身を乗り出して言った。
「司祭さんの隣にいた子って、もしかしてゲイリーの所にいる娘か?」
「ゲイリーさん?」
聞いたことのない名前だ。だが、そもそもヘイノはニコの姓すら知らない。彼女が誰と暮らしているのかも、何も。
「どこかで見たことがあると思ったんだよ。兄貴は知ってるだろ。お前んところの船乗りのじいさまが雇ってた、荷運び人だよ。ろくに仕事もしねえくせに、早く金払えってしつこかったって、前に愚痴ってたじゃねえか」
「ああ、あいつか……。親方が言うには、本当は雇いたくなかったんだけど、教会の司祭さまに頼まれちまって、仕方なく契約をしたとか言ってたな。だけど、あいつに娘なんかいたのか? カミさんがいるようには見えなかったぞ」
訝しげな顔をしたのは、マウリだけでなくヘイノもだった。今まで、状況が曖昧であるが故に、具体的な行動を躊躇っていたが、ここにきて、不鮮明だったニコの現状が明らかになろうとしている。
だが、聞いている限り、ニコと共に暮らしている男はあまり外聞のよくない人物らしい。
「娘っつーより、遠縁の子なんじゃねえかって噂だよ。あいつ、放っておくと服に糊もかけねえわ、髭は剃らねえわ、挙げ句の果てに教会に顔は出さねえわ……そんな奴に変な噂が立たないように、親戚の誰かが小間使い代わりにおいていったんじゃねえかって話だな」
「では、ニコはその方の世話をするために雇われているのですか?」
身辺の世話をするために、人を雇うことはよくある話だ。ヘイノたちとて、できるなら家のことだけをやってくれる手伝いを雇えたらと思ったことは何度もある。
若者たちが、日銭を稼ぐために住み込みで働くことはさして珍しくない。だが、今のマウリたちの口ぶりでは、そうではないように思えてならなかった。
果たして、ヘイノの予想は当たった。悪い方向に。
「雇われてるってもんじゃねえですよ、司祭さま。あいつのことだから、保護者の役目なんて気にもしてねえでしょうよ。面倒な仕事を全部押し付ける相手がいてよかった、ってところじゃないですかね。とはいえ、寒空に放り出されるよりかはマシでしょうが」
「孤児院は、今も昔も子供たちでいっぱいで、十分な世話ができないって話だからなあ。毎日腹を空かせて暮らすよりはいいってことかねえ」
ヘイノの表情の変化に気がついたのだろう。マウリがやんわりとした声色で宥めるかのように言うものの、ヘイノは自身の中に膨れ上がるざわつきを抑えられなかった。
「こんなことを言うのもなんだが、司祭さん。あまり、あの子には関わらない方がいいですよ」
ニコの現状を知ったばかりで、激しく感情が揺さぶられているヘイノに追い打ちをかけるように、マウリの弟はさらに予想外のことを言う。
「あの子自身が、どうってわけじゃねえですけどね。やっぱり、保護者があんな有り様だと、いつか司祭さまに迷惑がかかると思うんですよ。来たばかりだって言うんなら、尚更近所付き合いは気をつけた方がいいって、まあそれを言いたかったんでさ」
呼び止めて悪かった、と言う彼らに、ヘイノはどうにか笑顔を取り繕って、別れの言葉を返す。
マウリもその弟も、ニコが悪いと言っているわけではない。むしろ、厄介そうな男の世話係を押し付けられて、気の毒に思ってもいるのだろう。
だが、その気持ちと実際の生活はまた別だ。
面倒ごとを起こしがちな問題を抱える者には、近寄らない方がいい。たとえ、その人物と一緒に住んでいるだけであったとしても。下手に関わった結果、こちらが迷惑を被るくらいなら、適切に距離を置くべきだ。
マウリの弟は、年若い司祭が穏やかに祈りを捧げられるように、忠言をしたに過ぎない。
(……でも)
けれども、思い出してしまうのだ。礼拝堂の片隅で、誰にも気づかれずに震えていたニコの姿を。もっと早くに気づいてやればよかったと、些細なことであっても後悔をした瞬間のことを。
こちらへと手を振るヨニに応じるため、手を振り返しながらも、ヘイノは考え続けてしまう。
(ニコのことを、このままにしておいていいんだろうか)
ニコがヘイノに何かを頼んだわけでもない。親戚との生活が嫌だと言っているわけでもない。
ならば、これは司祭としても、きっとヘイノとして生きる日々においても不要な感情だ。
そこまで考え、ヘイノはヨニたちの元へと走り出した足を止める。
押さえつけようとしても、いまだに胸の奥で主張し続けているざわめき。これいいのか、という自問。震えていたニコを目にして、なんとかしてあげたいと、ふと沸き上がった感情。
たとえ、お節介だとしても。余計なお世話だとしても。
「……初めてかもしれない。俺が、俺としてやりたいと思うことがあるなんて」
司祭として正しいからではなく。
ヨニの兄として相応しいからではなく。
もっと奥底の真っ白な部分に初めて描かれた、小さな痕跡。
それが、これまで自分が被せ続けてきた嘘に沿うものかどうかは分からない。
記憶を失って目を覚ました時から、自分の意思で何かをしたいと思うことなどなかった。あったのは、こうしなければならないと言う強迫観念じみた義務感だけ。
しかし今こうして、こんな形ではあるものの、自分の意思でつけた小さな足跡があるということが。
(……なんだか、悪くないな)
そんな風に感じている誰かが自分の中にいたのも、また確かなことであった。




