一章・二話
昼半ばの鐘――太陽が中天に差し掛かって暫くしてから鳴る鐘は、大人たちにとっては数時間後には夜が訪れることを告げる鐘であり、子供たちにとっては授業が終わる合図でもある。
そして、教会の子供たちには、この時間ならではの楽しみが訪れる。
鐘が鳴るやいなや、子供たちの多くは石板を仕舞いこんだ。幼子たちの面倒を見ていたヨニも、自分の元に椅子を寄せていた一同を、自分たちの席と割り当てられている場所へと座らせる。
同時に、教会の扉が開き、少し前に自宅に戻っていたヘイノが焼き菓子の詰まった袋を抱えて戻ってきた。子供たちに学校に来る習慣を身につけさせる一環として、毎日用意しているものだ。
いずれはご褒美がなくとも、と考えているが、今はまだ分かりやすいご褒美が必要な頃と考えてのことであった。
「最初は、祈りの場で食事をするというのにも驚かされましたね」
「夏場までこの教室を続けるなら、外で食べてもいいかと思ってるんだけどね。今の時期は雪は溶けてきても、まだ寒いからさ」
ヨニの言うように、すでに焼畑の月(四月)に入っているものの、気温はまだまだ低い日が多い。ヘイノたちも、家ではキッチンストーブで暖をとらなければ夜は凍えてしまうほどだ。
「その分、掃除はしっかりしないといけないってことですね」
「そーいうこと。外でお喋りして、風邪ひかせるわけにもいかないからね。あと、敬語。また戻ってるよ」
教師役から解放されたおかげで、お菓子を配り終えたあとは、ヘイノにもヨニと軽い雑談を交わす程度の時間の余裕を持てた。
最後の指摘に、ヘイノは小さく「ごめん」と返す。敬語をやめてくれという指摘は、ヨニが唯一ヘイノに変えてほしいと頼んだことだ。だが、依然としてヘイノは敬語を崩すことが苦手なままでいる。
(丁寧な言葉遣いをしていれば、少なくとも礼儀正しい振る舞いとして見てもらえる。そう思って、ずっとこの言葉遣いにしてきたのだけれど……)
司祭であっても、たとえそうでなかったとしても、ヘイノはそうしてきたのだろう。自分というものを構成するために必要な記憶が少ないヘイノにとって、誰に対してなら話し方を崩していいという判断を下すのは困難なことだった。
「食べる前に、祈りの言葉は忘れないように。ヨンナ、あなたもよ」
ヘイノがこうして子供達から目を離し、自分のことを考えていられるのも、ヘイノにとって師であるアナが今日は顔を見せてくれているからだ。
子供たちにとって、アナは『いつもは優しいけど、怒らせるととても怖い先生』という扱いとなってるらしい。アナが顔を出すだけで、教室の空気が少し引き締まるのをヘイノは初日から目の当たりにしていた。
日中のほとんどを、アナは外出か、教会に預けられた資料の整理に注ぎ込んでいる。遠方に出かけていない時は、こうして一同の様子を見にきてくれていた。
「ヘイノせんせー。よかったらわたくしの分、半分分けてさしあげますわ」
礼拝堂の隅で一足早く片付けを始めていたヘイノたちに元に、ちょこちょこと小走りで少女が駆け寄ってきた。
先ほど、ヘイノとヨニの見分けがつくと豪語したアウリという娘だ。青みがかった淡い色の髪の持ち主の彼女は、八歳という歳の割に、背伸びした物言いをすることがある。
今も、半分に割った焼き菓子を、本人としてはお金持ちの令嬢のような素振りでヘイノに差し出したつもりなのだろう。だが、
「ごめん、アウリ。俺はヘイノじゃなくてヨニだよ。おーい、ヘイノ! 小さなレディから贈り物だって」
「大きな声を出さなくても聞こえてます……聞こえてるよ、ヨニ。ありがとうございます、アウリ」
先ほど注意されたばかりの敬語をどうにか直し、ヘイノは手に持った教本の束を机に置くと、アウリと視線が合うように膝を折る。
「贈り物をしてくれるのは嬉しいですが、アウリはそれを食べるのを楽しみにしていたんじゃないのですか」
「かまいませんわ。お友達に自分の好きなものを分けるのは良いことだと、お母様も言ってましたもの」
「それなら、いただきましょうか」
本当は、アウリが何を言おうとも、小さな子供からご褒美を奪うような真似はするべきではないのでは、と思っていた。だが、アウリが真剣な顔つきで差し出していたので、断る方が失礼だと思い直し、受け取ることにしたのだ。
「これでわたくしも、立派な淑女かしら」
「ええ。十分にアウリは淑女ですよ」
「でも、アウリはせんせーたちのこと、間違えてたじゃん!」
横から大きな声をあげたのは、先ほどアナに咎められていたヨンナだ。淑女然とした振る舞いを目指すアウリとは真逆に、活発な性格が身体中から滲み出ているような彼女の言葉に、アウリが顔を真っ赤にした瞬間、
「――ヨンナ」
今まで黙って様子を見ていたアナの声が、二人の少女の間で白熱しかけていた空気を冷やした。
「私は、隣人の誤りには寛容であれと、毎週あの場所に立って、伝えていたつもりだったのだけれど。どうやら、あなたの意見は違うようね?」
アナは礼拝堂の最奥にある祭壇を視線で示しながら、淡々とした声音でヨンナへと問う。
大きな声を出して叱るわけでも、手を上げたわけでもない。だが、芯まで響くその声に晒されると、子供ですら自然と背筋を伸ばしたくなるようだ。
アナの叱責を受けて、先ほどの勢いを引っ込めて席に座り直すヨンナ。そんな彼女を見て、アウリもヨンナにくってかかるような真似はしなかったが、
「……でも、わたくしが間違えたのは本当ですわ」
その愛らしい唇を尖らせて、二人を交互に見やった。見分けがつくと豪語した手前、間違えたのが悔しかったのは事実だったようだ。
「二人を見分けるのは、そんなにも難しい?」
アナの質問は、教会にいる子供たち全てに向けたものだった。彼らは特段迷いもせずに、ある者は頷き、ある者は曖昧な笑顔で誤魔化した。
「だって、せんせーたち、顔同じだし」
真っ先に忌憚のない意見を口にしたのは、キツネ狩りに行きたいと言っていたテームだ。その隣の少年もうんうんと頷いている。
「髪型も、背の高さも、服装も同じですから。でも、お二人ともとても親切に勉強を見てくれるという所も同じです」
自分が感じたことを口にしつつも、相手が傷つかないように言葉を選んでくれたのは教室の中でも最年長の少年だ。もっとも、そのような遠慮をしてくれたのはその子供だけで、年少の子供は遠慮無く、
「あたし、ヨニせんせーが二人になったっておもった!」
「わたしも。そっくりだから分からない」
「わ、わたくしは……よーく見ればちゃんと分かりますもの」
アウリだけが辛うじて見分けがつくと言ってくれたものの、分からないという意見が多数派なのは一目瞭然だ。
「アナせんせーは、分かるのか?」
「分かるわよ。そうじゃないと、一緒に暮らしているのに困るでしょう?」
子供からの質問をさらりと受け止めるアナ。本当かよ、と疑いの視線を向けられているが、事実アナはヘイノとヨニを取り違えたことがない。最初こそ、一度声をかけて顔を正面から見てから判断するようにしていたが、最近は少しの振る舞いから二人の差を見てとっているようだった。
「でも、子供たちにとって見分けがつかないのは、ちょっと困るわね。何か目印でもつけたらどうかしら」
「そうは言われましても……」
ヘイノは、自分の服へと視線を落とす。司祭の身だしなみは人々の尊敬に足るものでなければならず、そうそう勝手に着崩していいものではない。
どうしたらいいものか、とヨニに視線で訴えると、彼は「あっ」と声を上げた。
「明日は『清めの日』だよね。学校も休みだし、ティモで開かれる市場に行って、目印になりそうなものでも買ってくる?」
「市場……ですか。そういえば、そのようなものがあると聞いていましたね」
教会に行くまでの道中に出会った、声が大きく豪快な振る舞いが印象的だった男性――マウリのことを思い出す。彼は、市場で飲み物を売っているので、是非会いにきてくれと言っていた。
「たしかに、市場にはいつも素敵なものが売っていますわね! 綺麗なリボンとか、素敵なドレスとか、あとは美味しいお菓子もいっぱい! わたくしのお母様も、時々買い物に行くのですわよ!」
ヘイノの足下に纏わり付いていたアウリが、声を張り上げる。ヘイノよりも、この町に詳しいところを見せようと思っているようだ。
「せんせーたち、ティモの市場に行くの? いいなー。俺も行きたい!」
「じゃあ、せんせ。俺も俺も」
「そ、それならわたしも……もし、先生と行けるなら、行っていいって言ってもらえるかも」
市場に行く方針で話が纏まりそうになった矢先、今度は子供たちから「ついていきたい」の声が幾つもあがった。普段は滅多に発言をしないニコすら、おずおずと手を挙げている。
パユヴェシ村の中ではティモに近い所に位置する教会からであっても、ヘイノの足で広場までは一時間以上の道のりがある。そのためか、子供たちだけで市場に行くのは厳禁と言われている家が多いようだ。
「そうね。どうせなら、皆で行ってきたらどう? 保護者の方々が忙しくても、司祭が面倒を見ると言えば、許してもらえるのではないかしら」
「待ってください、アナさん。ここから町まで、歩けば相当の距離です。小さい子供たちをつれて行くのは流石に……」
「それなら、荷運びの車と馬を借りればいいわ。近所の人に私の方から頼んでおくから。御者は、ヨニがやればいいでしょう」
「任せて。ヘイノは、後ろで子供たちの面倒を見ててよ」
ヨニの言葉に、ヘイノは首を縦に振るしかなかった。実際、馬の扱い方など聞かれても分からないのだから、ヨニに任せるしかない。
話がまとまっていくにつれて、年長の子供たちは歓声をあげる。
一方、年少の子供たちは流石にアナに止められてしまっていたが、元々市場の楽しみをよく知っているのは年長組の方だ。お土産を買ってきてもらうという言葉で、小さな生徒たちは満足したようだった。
だが、歓喜に沸き立つ子供たちをよそに、ヘイノは不安から眉を寄せていた。
「市場といえば、たくさん人がいるのですよね。迷子になる子が出てこないでしょうか……」
「意外と何とかなるんじゃない? 困ってるときに声を上げるぐらいのことは、この子たちにもできるだろうしさ」
それは確かにそうかもしれない、と同意しかけた矢先、彼の脳裏に寒さに震えながらも教室の片隅でじっとしていた少女――ニコの姿が、ふと浮かび上がる。明日の外出には、珍しく彼女も行きたいと声を上げていた。
(……今度は、ちゃんと見ておこう)
ヨニの言うように、子供でも自分が困っていたら声を上げる力を持つ者もいる。
だが、そうでない物もいるのもまた事実なのだから。
***
思いがけなく明日の予定が追加されてしまったが、何はともあれ、今日の授業は無事に終わった。
「お疲れ様、ヘイノ。一週分の先生をやってみて、どうだった?」
「まだまだ改善しないといけないことはありそうですが、やりがいがあると思いました」
「やっぱりヘイノは優等生だなー。そういうときは、『疲れたー!』でいいのにさ」
ヨニの言う通り、ヘイノがやってきてこれで四日と少しが経つ。
ヘイノが教会を訪れたのは『月の日』の夕方で、今日が週末を前にした『実りの日』にあたる。ヘイノは訪れた翌日から、先生として子供たちの前に立っていたのである。
礼拝のある『太陽の日』の前日である『清めの日』は、二人にとって先生という役割から解放される数少ない休日なのだが、今週はそういうわけにもいかなさそうだ。
「二人とも、お疲れ様。突然予定を振ってしまって悪かったわね」
「いいよ、別に。どっちみち、市場には買い物に行かなきゃって思ってたからさ。子供たちと行くのも、一人で行くのも、大して変わらないよ。むしろ、俺たちの話を聞いて、勝手にあの子たちだけで行く方が、何かあったとき困るしさ」
「彼らの面倒を見る場所が、教会から市場に変わっただけですから。良い機会なので、買い物の方法なども教えられたらと思っています」
「先生ぶりが板についてきたわね、ヘイノ。じゃあ、私は家に戻るから、二人は片付けをよろしくね」
先に帰宅するアナを見送り、教室の片付けの続きをすると、ヨニも中へと戻る。ヘイノも、まずは教会前の掃き掃除に手をつけようと、裏手にある納屋へと足を向けかけたときだった。
「あの……」
夕方の冷たい風にかき消されそうなほど、小さな声が耳に届く。ヘイノが振り返った先には、授業の間にヘイノからケープを借りていた少女――ニコが立っていた。
「すみません、ヘイノ先生。これ、返すの忘れていて」
彼女は体に巻き付けるようにしていたケープを脱ぐと、畳んでヘイノへと差し出す。着たまま帰るところだったことに気がついて、途中で戻ってきたのだろう。
「ありがとうございます、ニコ。でも、その格好で帰ったら、寒くはありませんか」
他の子供たちが草臥れていても暖かそうな外套や襟巻きを巻いて帰っていったのに対して、ニコは相変わらずワンピース一枚だけを身につけているのみだ。まだ日は出ているものの、冬の気配が濃く残っていて、空気はヒヤリと冷たい。
「良ければ、そのまま持っていってもいいんですよ」
「いえ、本当に大丈夫ですから……! ありがとうございます、ヘイノ先生」
彼女は慌てて一礼をすると、ヘイノが何か言うより早く、そそくさと走り去っていってしまった。
どんどん小さくなっていく背を追いかけて、引き止めるべきなのか。だが、それは司祭として――『ヘイノ』として正しいことなのか。
自分の中に生まれた迷いに足を取られている間に、ニコの姿はすっかり見えなくなっていた。
「何見てんの。そんな迷子みたいな顔して」
ひょいと後ろから顔を見せた片割れことヨニは、納屋の掃除用具を室内から取りに戻ってきたようだ。それならばと、ヘイノは先ほどあったことをヨニに話す。
「授業の時から、ニコがずいぶん寒そうにしていたんです。何かできたらと思ったのですけど」
「だからって、俺たちの服を貸すわけにはいかないでしょ。あまり贔屓すると、他の子供たちからやっかみを買うのはニコの方だよ」
至極もっともなヨニの返答に、ヘイノは返す言葉に一瞬迷う。
「……それはそうかもしれませんが。でも、いくらなんでも薄着すぎると思うんです。彼女は、以前からあんな格好をしてるのですか?」
ヨニは、ヘイノより先にこの教会にて、子供たちの先生役を請け負っている。彼なら、何か知っているのではと思ったのだが、ヨニの反応は芳しくなかった。
「ニコが教会に来たのは、二週間くらい前のことだったかな。平日の教会で学校みたいなことをしているって話をどこかから聞いたみたいで、それで一人でここまでやってきたんだよね」
「保護者の方はいなかったんですか?」
「うん。今来ている子たちも、元々保護者はそこまで学校に行かせることに乗り気じゃないと思うよ。ちょっとした計算と文字の読み書きができれば、それでいいってさ。学院とか大学とかには、興味ない人たちがほとんどだよ」
「ニコの家もその一つ、ということでしょうか」
「さあね。別に学費を取ってるわけでもないから、来たかったら来ればいいし、来なくなったらそれまでだよ。ニコは、他の子たちに比べたら熱心な方だとは思うけどね」
そんないい加減な、とヘイノは言いかけたものの、同時にどこかで納得している部分もあった。
ヘイノも、子供たちがどこで暮らしていて、なんという名前の家のものなのか、親の仕事がどんなものなのかも知らないことが多い。いずれ知っていくことになるのかもしれないが、知らなくても生活はできる。それが、現状だ。
「何かあったら、本人の方から言ってくるでしょ。それより、ヘイノ。外の掃除は任せていい? 明日は一日中外出することになるだろうから、今日のうちに中も外も片付けちゃおう」
ヨニにせっつかれて、ヘイノは彼と共に再び納屋へと足を向けた。
後ろ髪を引かれる思いで、一度だけ、ニコが去っていった方角を見ていたが、彼女の姿は当然ながらそこにはなかった。




